2021年10月10日「主に出会い、回復した者」
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主に出会い、回復した者
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- 説教
- 金原堅二 伝道者
- 聖書
マルコによる福音書 5章1節~20節
聖書の言葉
1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」
8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
(略)マルコによる福音書 5章1節~20節
メッセージ
主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖の東岸にあります、ゲラサ人の地方に到着しました。ゲラサはイスラエルの民が住む場所ではなく、異邦人の地です。このゲラサ地方で、主イエスは悪霊にとりつかれた男と出会います。2節によると、主イエスが舟から上られるとすぐに、汚れた霊にとりつかれた人が墓場からやってきたようです。
この男の様子とは、まさに異様としか言うことができない有様でした。
まず、彼は墓場を住処としていました。当時の墓場はほら穴式ですから、空いているほら穴があれば人が住むことは一応可能だったでしょう。けれどももちろん、墓場は通常人が住むところではありません。
さらに、彼は鎖でつながれ、足枷がはめられていましたが、彼はその鎖を引きちぎり、足枷は砕き、さらには昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ち叩いたりするような状態でした。
この悪霊にとりつかれた男の様子を見ていると、実にいろいろなことを考えさせられます。彼は要するに凶暴で、普通の人と同じ生活をすることができなくなっていたのです。ただし、この男の根本的な問題は、暴力を振るうかどうかと言うようも、人と共に生活できなくなっているという点にあるでしょう。
彼は、鎖につながれては引きちぎり、足枷で押さえつけられてはそれを砕くという有様でした。この破壊衝動の根本的な問題は、彼を繋ぎ止めておく人間関係をも破壊してしまうところにあるでしょう。鎖や足枷を破壊し、周りの人間に危害を加えるということであれば、もはや誰も彼の近くにいることはできません。そういう意味では、この男は、取り巻く様々な人間との関係を断ち切って、人間関係から自由になった、と見ることもできます。けれども、それは決して本当の自由ではなく、魂が縛られ、押さえつけられたままなのでありました。どんなに暴れても解決が見出されず、自分を傷つける他なかったのです。それは、生きていながら死んでしまっている状態。死に支配されている状態です。墓場を住まいとしているとは、生きながら死んでしまっていることをも表しているのです。
私たちは常に、様々な人と関わりをもちながら生活しています。職場や学校、友人との関係、家庭の中で。これらの人々との関わりの中で、しばしば会う人、会う人に合わせて自分を演じ分けることが起こっているのではないでしょうか。そして段々と本当の自分がわからなくなって、苦しくなっていき、自由になりたいと思うことがあるのではないかと思います。本当の自分がわからなくなるとき、悪霊は私たちの心の弱いところから入り込み、支配しようとします。心が分裂し、自分が何を求めているのかもわからず、様々な思いによって不安と恐れに支配されてしまうのです。
7節にあります悪霊の言葉「かまわないでくれ」は、直訳すると「私とあなたに何の関係があるか」です。悪霊は主イエスを神の子と認めた上で、その関係を断ち切ろうとします。けれども、主イエスはそのような人間の姿をまっすぐに見つめておられます。悪霊に支配され、もはや自分の本心の言葉を語ることすらできないでいる私たち人間の姿をまっすぐに見つめておられます。
主イエスは9節で、「名は何と言うのか」と男の名前を尋ねました。名前を尋ねるとは、「お名前は何ですか」ということではなくて、その人の存在そのものを問う、ということです。つまり主イエスはこの男の本当の姿を見つめておられるのです。
私たちの人間の本当の姿とは、神様によって創造され、愛されている姿です。神様から見た私たちの姿とは、決して大勢の中の一人ではなく、ひとりひとり、名前を呼んで「高価で尊い」と言っていただける、そのような姿です。それゆえに、神様は独り子イエス・キリストを世に遣わし、主イエスは私たちが抱える罪の問題を十字架の上で贖ってくださったのです。私たちを救いへと招き、また実際にその恵みに与(あずか)らせてくださったのです。