2024年05月12日「神のものは神に」
問い合わせ
神のものは神に
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 22章15節~22節
聖書の言葉
15それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
16そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
17ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
18イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 19税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
20イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
21彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。マタイによる福音書 22章15節~22節
メッセージ
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。この御言葉はどのような意味をもっているのでしょうか。一つは、国家の権力を認めて従うことです。ただし、それはローマ、あるいは、日本国の権威を絶対的なものと認めたからではありません。重要なのは、そのすぐ後に「神のものは神に返しなさい」と言われていることです。というのは、「およそ存在している権威は神様によって立てられているから」です。権威の背後には、神様の御計画があるという神様への信仰のゆえなのです。
「神のものを神に返す」ことの理屈は、「皇帝のものは皇帝に」と同じです。つまり、デナリオン銀貨に皇帝の肖像が刻まれているから返済する義務があったのと同じように、「神のもの」もまた、神様の所有するものだから、神様にお返しするのだということです。
では、その「神のもの」とはどこに刻まれているのか。創世記1章27節に次のように書かれています。
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。
この創世記の御言葉にあるように、神様はご自分にかたどって私たち人間を創造されました。私たちには、神の形が刻み込まれているのです。つまり、私たち人間はすべて「神のもの」なのです。神様の似姿を刻まれた私たちが世界中に住むことによって、神様はご自身の支配を告げ知らせておられるのです。皇帝のものは、デナリオン銀貨に刻まれていました。神のものは、私たちに刻まれています。「神のものは神に返しなさい」と言われているということは、私たち自身を神様のご支配と導きのもとにあるものとして生けるいけにえとしてささげるということです。
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマ12:1)
この世界は全て神様のものであって、「ここには神様の手が届かない」というような場所はどこにもありません。全ては主のものです。私たちにとって絶対的な権威を持っているお方、私たちがすべてをささげるのにふさわしいお方は、私たちを御自分のかたちに似せて造られ、私たちの心に御自分の御言葉を刻まれた創造主なる神、イエス・キリストの父なる神だけであるのです。
「神のものを神に返す」というキリスト者の務めは、私たちひとりひとりの人生の中で、信仰を証し、自分自身を神様のものとしてささげることで、果たされていきます。そこに、イエス・キリストの愛を表すこと、福音宣教することが含まれるのは言うまでもありません。私たちの信仰生活が、「神のものを神に」返す信仰生活となるように、また神様のご支配・栄光を表すものとなるように、祈りつつ共に歩んでいきましょう。