2024年05月05日「神の招きに応える」

問い合わせ

日本キリスト改革派 滋賀摂理教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

1イエスは、また、たとえを用いて語られた。 2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」マタイによる福音書 22章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 今日のたとえ話からわかることは、天の国とは「喜び」の祝宴である、ということです。

イエス様は、2節で「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と言って今日のたとえを語られました。そもそも結婚式は喜びのときです。神様のみもとで生きることとは、根本的に喜びなのだということです。このことは、終末の完成のときのみならず、私たちがこの地上で信仰生活をする際においても同じです。信仰を持って生きることは、喜ばしい結婚の披露宴、パーティに招かれて、ご馳走にあずかることと同じなのです。

 天の国が喜びであることは、さらに4節で強調されています。

そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』

4節には、まず天の国で用意されている食卓が最高に贅沢で、最上の祝宴であることが示されています。雄牛や太った家畜が屠られて、これ以上ない食卓が整えられています。豊かな食事が整えられています。しかも、一切のことは、神様が用意しておられるのです。「食事の用意が整いました。すっかり用意ができています」。この招きの言葉はとても大切です。ここには、神様の救いとは何かが明らかにされています。救いとは、どこまでも神様が備えたものであり、神様の御業に基づくものなのです。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」。神様は、私たちのために最高の食卓を整えくださいます。イエス・キリストを通して、神様との交わりを喜び楽しむことができるように、全てのことを用意しておられます。私たちはただ、「さあ、婚宴においでください」という神様の招きに応えて、神様のみもとに出かけるだけでよい。この場所に来るだけで良い。それだけで、神様は喜んで祝福の中に入れてくださいます。

 ただし、たとえ話の後半で、礼服を着ていなかったために祝宴から追い出された人がいました。つまりこの礼服は、天の国に入る唯一の条件と言えるようなものです。

 この礼服とは何でしょうか。この礼服については、いろいろなことが言われますが、いずれにしても肝心なことは、キリストの救いを身に纏っていることです。神様から私たちに求められていることは、神の救いの招きに、感謝をもって応えることであり、悔い改めて神様と共に生きることであり、そのためにイエス・キリストへの信仰をもつことです。ある牧師は、この礼服については「要するに、ほんもののクリスチャン」ということだと言っています。キリストを身に纏っていること。キリスト者であること。クリスチャンであること、です。

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ3:26~27)

 イエス・キリストを着ている人、つまりイエス・キリストを自分の救い主として受け止める人は、神様が整えてくださった食卓を大いに喜び楽しむのです。