2024年04月28日「ぶどう園と農夫のたとえ」

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ぶどう園と農夫のたとえ

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章33節~46節

聖句のアイコン聖書の言葉

33「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 34さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。 35だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」 42イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。』
43だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 44この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
45祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、 46イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。マタイによる福音書 21章33節~46節

原稿のアイコンメッセージ

 このたとえ話は、いったい何を語ろうとしているものなのでしょうか。こういう説明がなされます。それは、神の民の歴史です。しかも、神様への反逆の歴史だということです。たとえ話の中で農夫たちは、主人が送ったしもべたちを次々に殺していき、最後には主人の一人息子でさえも手にかけてしまいます。同じように、神の民イスラエルは、主なる神様が派遣した預言者たちを迫害し、最後には神の御子イエス・キリストでさえも十字架につけて殺してしまいました。そのような神の民の反逆の歴史、人間の罪の有り様を鋭く突きつけるのが今日のたとえ話の内容です。ここに、神の恵みを注がれながら、それを無視する人間の姿が明らかにされています。

この短いたとえ話が、神の民のこれまでの歩みと、これから起きることを表しているとするならば、私たちが考えなければならないことは、「神様とわたしの、物語がどうなっているのか」ということです。

神様がご自分の愛と憐れみの中に私を招き入れようとなさった。そのときに、「わたし」がどのような反応を示してきたのか、ということです。神様からの恵みを、ないがしろにしたことはなかったか。神様の愛を拒んだことはなかったか。…こういうことを思い巡らせると、実にこのたとえ話は、私たちの神様に背く心=罪の問題を鋭く指摘してくる物語だと思います。神様とわたしとの関わり。その行き着くところも、やはり独り子を殺すということ、イエス・キリストの十字架であって、これがなければ、私たちは神様の前に立つことができない。誰も、十字架抜きには神様の前に立つことができないのだと気付かされるのです。その意味で、たとえ話の農夫たちとは、私のことを言っている。私もまた、イエス様を十字架にかけた一人なのだということに気が付かされるのです。

 ただし、今日の御言葉は、私たち人間の罪を指摘してそれで終わりではありません。後半で、イエス様は詩編118編を引用して次のように言っておられます。

『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。

これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』

 当時の家は石造りでしたから、家を建てる時に大工さんが「この石は使える」「この石は役に立たない」と選り分けて工事をしたことを背景にしています。そして、役に立たない石は投げ捨ててしまうわけです。けれども、その投げ捨てられた石が、隅の親石となった。要石とも言われます。

 神の国を建てあげるにあたって、人々が投げ捨ててしまった要石とはイエス・キリストでした。人は、イエス様を放り出して十字架で殺してしまったのです。けれども、そのイエス・キリストという土台の上に、神の国を建て上げていくのが、実は神様のご計画だったことが示されています。

主イエス・キリストによって、私たちが不思議にも救われるのだという、神様の救いのご計画が、ここには描かれているのです。