2024年04月07日「イエスの権威」

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聖句のアイコン聖書の言葉

23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」マタイによる福音書 21章23節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 今日の御言葉には「権威」という言葉が繰り返し用いられていますが、同じ問題が実はマタイ福音書の中では繰り返し話題にあがっています。例えば、五章から七章には山上の説教があります。その山上の説教の終わりには、まとめの句として、「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(29〜30節)と記されています。ここでも、イエス様が権威ある方として証しされています。

 さらに第9章では、ひとりの中風の人が連れて来られて、イエス様がその人を癒されたことが記されています。そのとき、イエス様は「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」、さらに「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」と言っておられるのです。この箇所はイエス様の「権威」について考える際にとても大切で、イエス様のもつ権威がどのような権威なのか、ということが教えられています。それは地上で罪を赦す権威なのだということが語られているのです。

 神殿を中心とした儀式とは別のところに、無条件に罪の赦しを宣言するイエス様の権威は、最終的には人々に認められませんでした。人々は、イエス様の言葉と御業の中に、神が働いておられることを認めることができなかったのです。そして、自分たちの宗教的な権威を守るために、神の独り子を抹殺しようとしました。罪の赦しの権威に関わる論争は、既に、主イエスの十字架へとつながるものであったのです。

 そう言う意味では、イエス様を十字架につけて殺す。そのことには、権威の問題がかかわっているのです。神様の権威、イエス・キリストの権威。それを絶対に認めたくない。そういう人々の思いが、イエス・キリストを殺すというところに行き着いたのです。イエス様を十字架につけて殺す。その罪は、私たちの罪でもあります。神様の権威を認めない、イエス様の権威を認めない。むしろ自分たちにこそ、救いの主導権がある。そう考える私たち人間の思いが、イエス様を十字架につけたのだということを、今日の御言葉からも見てとることができます。

 神様の権威は、貧しい様で来られたイエス・キリストのお姿の中に現れます。しかし、その貧しさのゆえに、私たちを憐れんで十字架にいたるまで神に従順であったゆえに、イエス様は今や、天と地の一切の権能を委ねられている。そういうお方なのです。そして、このイエス様の言葉と行いによって、光を失っていた人に光を与え、命を失っていた人に命を与える、そういう神様の力が示されています。イエス様が批判なさった、エルサレムの指導者たち、すなわち祭司長や民の長老たちの信仰は口先だけのもので、恐れに心奪われて身の安全ばかり考える、中身のないものでありました。イエス様は、そうした信仰の態度ではなくて、ご自分の恵みによる支配に身を委ねて、神様の御心を追い求めて生きるように私たちを招いておられるのです。