信仰の祈り
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- 金原堅二 牧師
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マタイによる福音書 21章18節~22節
聖書の言葉
18朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
19道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
20弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。
21イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
22信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」マタイによる福音書 21章18節~22節
メッセージ
イエス様は「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまいました。イエス様は、いちじくを枯れさせることによって、何を伝えようとしておられるのでしょうか。
興味深い点は、旧約聖書の御言葉の中で、神の民イスラエルが「いちじくの木」にたとえられている箇所がいくつもある点です。エレミヤ書8章13節にこんな御言葉があります。
わたしは彼らを集めようとしたがと/主は言われる。
ぶどうの木にぶどうはなく/いちじくの木にいちじくはない。
葉はしおれ、わたしが与えたものは/彼らから失われていた。
ここには、預言者エレミヤの時代の、神様に対するイスラエルの背信について語る御言葉が記されています。神の民イスラエルが神様に背いて歩んでいることと、それに対する神様の嘆きが語られているのです。そんなイスラエルについて「ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは、彼らから失われていた」と言われています。
このことは、イエス様の時代のイスラエルの民についても、同じことが言えるわけです。イエス様は神殿から売り買いしていた人々を追い出し「祈りの家が強盗の巣にされている」と言っておられました。その御言葉からわかるように、礼拝の場であるエルサレム神殿には、祈りがない。確かに活発に傷のない動物が売り買いされ、人混みに溢れ、活気はあるのです。けれども、礼拝が形式化しており、祈りの心が失われてしまっているのです。葉は生い茂っているけれども、実を結んでいない状態。それが、イエス様の時代のエルサレムだったのです。
私たちもまた、少しでも食事をとらなければお腹がすいて苦しくなってくると思います。それと同じ空腹感をもって、イエス様は悔い改めの実りを求めておられるわけです。そのことは、今この時代においても、私たちに対しても、問われていると思います。イエス様は、私たちの内側に、悔い改めの実を探し求めておられます。私たちは、週ごとにまた日毎に、聖書の御言葉を通して恵みの栄養をいただいています。まるで木に水が注がれて栄養が運ばれるように、聖書の御言葉を通して、私たちは日々、神様によって育んでいただいているのです。そんな私たちの内側に、主のもとに立ち返って生きるという信仰の果実が結ばれているかどうか、そこに心が伴っているかどうか、そのことはいつも問われているのだと思います。
私たちが結ぶ信仰の実りは、完熟された見事ないちじくの実ではないかもしれません。青くて、未熟な果実かもしれません。それでも、ただ、悔い改めて神様に立ち返る信仰と、イエス・キリストへの信頼をもって祈るならば、神様は応えてくださいます。私たちの信仰は小さくても、真心から神様と向き合って祈るならば、聖霊が私たちをイエス・キリストに結び合わせて、その果実を豊かにしてくださいます。