2024年03月03日「ロバに乗った王」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 2言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 3もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 4それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
5「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
6弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 7ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 8大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 9そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
10イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。 11そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。マタイによる福音書 21章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

有名なエルサレム入城の場面です。通常、王の凱旋といえば馬に乗るものでした。けれども、イエス様はあえてロバの子どもに乗ってエルサレムに入っていかれます。なぜイエス様は子ロバに乗ってエルサレムに入城されたのでしょうか。その理由を端的に言うと、柔和な方、平和の君としてのご自分を示すためです。ロバに乗っての入城が、イエス様の柔和を示すというこの点は、特に旧約聖書からの引用に示されています。

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。

わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。(ゼカリヤ書9章9~10節)

マタイは、このゼカリヤの預言が今ここで成就したと言っています(4~5節)。

上記の預言の中で注目すべきは「軍馬を絶つ」と言われ、救い主が「ロバに乗って来る」と言われている部分です。ここでの馬とは、戦い・争いを象徴するものとして描かれています。それに対して、9節のロバとは、柔和・平和を象徴しています。つまり、救い主が、力による威圧的な支配ではなくて、「柔和な方として」「平和をもたらす」「平和の君として来られる」ということを表しているわけです。神様が約束してくださっている救い主は、このような王として来られるのだと旧約聖書の預言は語っています。その預言が、今、イエス・キリストというお方において成就・実現しているのだということです。

 当時の人々にとって、救い主とは、ローマの支配から解放してくれる軍事的指導者のことを思い浮かべていました。けれども、神様のご計画では、救い主とは、そういうお方ではありませんでした。むしろ柔和をもって平和をもたらすお方、高ぶることなく、むしろへりくだって人々の心に寄り添い、共に歩み、心の内側から人の思いを神様に向ける、そのようにして神の国を実現する王であられたのです。

 御子イエス・キリストの柔和と謙遜は、何よりも十字架のお姿に現れます。イエス様は、今日の御言葉が示すエルサレム入城からわずか5日後に、十字架にかかって死なれました。あざけられ、鞭打たれ、不当な裁判にかけられて、十字架に向かわれたのです。それは、私たち人間の代表として、私たちの罪をすべて背負って神様の裁きを受けるためでした。私たちのもつどうしようもない罪を全て背負って、私たちを罪の奴隷から解放するために、そして私たちに永遠の命の道を開くためになさったことでした。ここに、イエス様の柔和と謙遜がこれ以上なく現れています。

 このとき、イエス様はどのような表情で、どのようなお気持ちで、ロバに乗ってエルサレムに入られただろうかと思い巡らします。イエス様はすでに、ご自分が十字架につけて殺されることを弟子たちに予告しておられました。今、「ダビデの子にホサナ」と叫んでいる群衆が、数日後には「十字架につけろ」と叫ぶようになることをご存知であったのです。イエス様は、果たしてそんな群衆に対してどのような眼差しを向けておられたでしょうか。「こいつらは私に敵対する」と思って、厳しい表情をしておられたでしょうか。…そうではないと思いますね。人々はイエス様のことを本当にはよくわかっていませんでしたが、しかしそれでもイエス様はこの人々の王であり、救い主であり続けました。救い主メシアについて誤解していると知りながら、この人たちの熱狂が人間の身勝手だと知りながら、そんな人たちの罪を背負って十字架に向かうために、喜んでロバに乗ってくださったのではないかと思います。

 忘れてはならないことは、私たちひとりひとりがもっている罪のために、イエス様が十字架にかかって死なれたということです。その意味で、私たちも、イエス様を「十字架につけろ」と叫んだ群衆と変わりないことをしっかりと見つめていなければなりません。そして、そんな私たちのためにイエス様がロバに乗ってエルサレムに入城されました。イエス様は、身勝手な思いをもって賛美を歌う群衆を拒否しておられません。どれだけ無知であっても、どれだけ罪深くあっても、イエス様は柔和で謙遜に受け止めてくださって、そして私たちの思いを遥かに超えた救いを、祝福として用意してくださるのです。私たちは、このイエス様の救いについての厳かな事実を、「アーメン」と言って、深く受け止めるしかありませんし、受け止めることが許されています。

 また、最後に覚えておきたいことは、イエス様が通って行かれた道は確かに受難の道でありましたが、その十字架を通って、今やイエス様は復活の栄光を勝ち取っておられる、ということです。私たちに与えられる永遠の命の恵みは、イエス様が勝ち取ってくださった祝福であり、終わりの日に与えられる栄光です。今、イエス様は天におられ、神様の右に座っておられますが、世の終わりの時には栄光の主として再びこの世に来てくださる。そのように約束されています。私たちは、そのイエス様から聖霊を与えられた主の民、キリストの民として、イエス様を約束の王としてほめたたえるのです。