2021年10月03日「喜びに満たされて生きる」

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聖句のアイコン聖書の言葉

21: キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。
22: すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。
23: 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。フィリピの信徒への手紙 4章21節~23節

原稿のアイコンメッセージ

21節には「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください」と記されています。

すべての聖なる者たちとは、フィリピ教会の信徒たちのことです。パウロは手紙の初めの挨拶のときと同じように、結びの挨拶の中でも、その脳裏に浮かんだのはキリスト・イエスに結ばれている聖なる者たちのことであったのでした。

フィリピの信徒への手紙の結びの言葉は、他の手紙と比べて非常に簡潔な書き方がされていますが、それだけに彼らの交わりの中心に何があるのかがよくわかるようになっています。パウロとフィリピの信徒たちとの交わりには、「キリスト・イエスに結ばれて」という言葉に表れているように、その中心にはいつもキリスト・イエスがおられたのでした。

パウロはフィリピの信徒たちのことを「聖なる者たち」と言います。聖なる者と言われると、特別に清い者、立派な人、清廉潔白を思い浮かべるかもしれません。けれども、この手紙をここまで読んできてわかりますことは、フィリピの人たちだって、問題を抱えていたということです。イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めている人たちがいました(2:21)。婦人たちの対立がありました(4:2)。それでもなお、パウロは彼らを「聖なる者」と言って憚らないのです。それは、どういう意味でしょうか。

「聖なる者」の「聖=きよい」という言葉は、「分離する」というヘブライ語からきています。絶対的に他のものから隔絶されている、分離されているという強い意味があります。ですから本来「聖」である存在、つまり絶対的に他のものから隔絶されて「きよい」存在であるのはただ神様お一人だけです。

その聖なる方である神の御子イエス・キリストが、神の身分を打ち捨てて、人の罪を贖うために、まことの人となって世に降ってこられました。そして十字架の死に至るまで従順に、神様の救いの御業を成し遂げてくださったことを、私たちは既にこの手紙で知らされました。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ。へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(2:6-8)」。

これが、神様の救いの出来事です。このキリストを信じて、キリストに結ばれて生きるときに、喜びと平安のうちに生きる者、すなわち、「聖なる者」と言われるのです。つまり、「聖なる者」とはひとことで言って、神様のものとされた人という意味です。

自らへりくだって私たちを恵みの中に入れてくださるお方、生かしてくださるお方を主人とし、生きていく者です。

この生き方には、主なる神様が共におられ、私たちを満たしてくださる喜びが確かにあります。神様による喜びに満たされた歩みを共にしていきましょう。