2024年02月18日「仕える人になりなさい」

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仕える人になりなさい

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
マタイによる福音書 20章17節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
(20〜28節)マタイによる福音書 20章17節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 ここでは、ゼベダイの息子たち(ヤコブ・ヨハネ)の母親が、イエス様のところに近づいてきて、要するに「この息子たちを弟子たちの中で最も高い地位につけてください、偉くしてやってください」と願い出ています。このやりとりをきっかけにして、イエス様はむしろ「偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(26節)と教えておられます。

 天の御国は、誰かが権力を振るう場所ではありません。25節をよく見ると、イエス様は、この世の社会と弟子たちがつくる社会(すなわち教会)の原理を明確に区別しておられます。「異邦人の間では、支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」。ここでの「異邦人」は、ユダヤ人に対する異邦人という意味ではなくて、御国の民に対する「この世の人々」という意味でしょう。私たちの身の回りでも、「あの人に逆らってはいけない」というような権力主義の根があちこちで見え隠れしていて、そういった力による支配構造に疲れを覚える方もおられるかもしれません。イエス様は、「あなたがたの間では、そうであってはならない」と言っておられます。それは、天国がそのような力による支配構造をもっていないからです。

 イエス様は今、弟子たちにこのことを教えておられますが、弟子たちはこれからキリストの教会を担っていかなければなりません。イエス様が天に上げられた後、教会を建てていくにあたって、この世の支配者たちと同じように教会を治めていいのかと言うと、そうではないのです。教会は、天の御国そのものではありませんが、地上における御国の現れです。天国の価値観・神様の憐れみが反映された場所でなければなりません。それゆえ、イエス様は「偉くなりたい者は、互いに仕え合うように」と教えておられるのです。

 イエス様がこのように「仕える人になりなさい」と教えておられる根本的な理由は、私たちの頭であるイエス様ご自身が、私たちに仕えるために来られたからです。イエス様は神の御子であって、天の御国の中で本来いちばん偉い方であられました。そのイエス様が、仕えられるためではなく、むしろすべての人に仕えるために地上に来られたのです(フィリピ2章参照)。そればかりか、多くの人の身代金としてご自分の命をささげるために来てくださったのです(28節)。

 「身代金」とは、もともとは奴隷を解放するための代価のことを表していました。イエス様は、罪と死の奴隷から、私たちを解放するために、ご自分の命を十字架の上でささげてくださいました。罪のない神の御子が、私たちの罪を担われたのです。ここに、イエス様の仕える道が示されています。

 イエス様が私たちのためにしてくださったことを覚えて、その十字架と復活の恵みが、この滋賀摂理教会の中で生き生きと賛美されるような、そういう共同体になっていきたいと思います。十字架の恵みが今ここにいるみなさんの中で、豊かに体現されるように、互いに仕え、互いを「生かす」歩みをしていきましょう。