2024年02月11日「神の恵みは最後の者にも」
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神の恵みは最後の者にも
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 20章1節~16節
聖書の言葉
1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
11それで、受け取ると、主人に不平を言った。
12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」マタイによる福音書 20章1節~16節
メッセージ
イエス・キリストの譬(たと)え話です。このぶどう園の主人とは、神様のことを表しています。恵みによって与えられた1デナリオンとは永遠の命、労働者とは私たち人間のことです。神様は、本来はふさわしくない人たちに対しても1デナリオンの報い、すなわち永遠の命をお与えになる憐みの神です。神の憐れみによって救われる、という救いの原理がここでも豊かに示されています。
さて問題は、最初に来た労働者たちがこれに対して不平・不満をもらしたことです。最初に雇われた人たちが1デナリオンを受け取ったとき、彼らは言いました。12節「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。
けれども、この主人は最初に来た労働者たちに対して何一つ不正を働いてはいません。もともと1デナリオンの約束をして契約が結ばれたわけで、その報酬は満額支払われています。問題は、後からやってきた労働者に対する主人の取り扱いの方で、その人たちにも1デナリオンが支払われたのは、ただこの主人の善意によるものだと言うのです。午後5時に雇われた人は、実際にはちょっと仕事を手伝っただけで、ほとんど何もしていなかったことでしょう。それでも、この人たちにも、生きるために必要な1デナリオンを支払ってやりたい。ただこの人たちに「生きてほしい」。そういう主人の心によって、すべての労働者たちに対して1デナリオンの恵みが与えられたのでした。
大切なことは、「あなたもぶどう園に行きなさい」という神様からの呼びかけに応じることです。神様が招いてくださるぶどう園には、1デナリオンの恵み、すなわち永遠の命の恵みがあります。その意味で、「あなたのぶどう園で働きませんか」という広場での声掛けは、神様からの救いの招きです。神様のみもとで生きることへの招きなのです。
私たちもまた、礼拝の中で、神様からの呼びかける声を聞いています。その招きに応えるとき、私たち自身はふさわしい者でなかったとしても、神様からのただ「与えたい」という憐れみの心によって、報いが与えられるのです。神様は、いつの時代も、どんな場所でも、どんな人も、どんな状況にいる時も、私たちの人生をイエス・キリストの十字架の血潮によって丸ごと買い取ってくださる。神様は一人一人の人生にぴったりの仕方で救いの道筋を与えてくださるのだから、恵みをいただくのに早すぎることも遅すぎることもない。ただ「あなたもわたしのぶどう園に行きなさい」との招きに応えるだけでよい。今日はそのことを覚えておきましょう。
私たちは一人一人、イエス・キリストを信じる信仰を通して神様の豊かな恵みにあずかります。その永遠の命の恵みが約束されたその時点で、私たちは安心して、喜びをもって、残された生涯を、神様にお仕えすることができるのです。こうして神様の招きに応えて、神様のために仕える人はまことにさいわいです。