2024年01月07日「わたしを究める神」

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わたしを究める神

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
詩編 139編1節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

1【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】
主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
2座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
3歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
4わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる。
5前からも後ろからもわたしを囲み
御手をわたしの上に置いていてくださる。
6その驚くべき知識はわたしを超え
あまりにも高くて到達できない。
7どこに行けば
あなたの霊から離れることができよう。
どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
8天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
陰府に身を横たえようとも
見よ、あなたはそこにいます。
9曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
10あなたはそこにもいまし
御手をもってわたしを導き
右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
11わたしは言う。
「闇の中でも主はわたしを見ておられる。
夜も光がわたしを照らし出す。」
12闇もあなたに比べれば闇とは言えない。
夜も昼も共に光を放ち
闇も、光も、変わるところがない。
13あなたは、わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
14わたしはあなたに感謝をささげる。
わたしは恐ろしい力によって
驚くべきものに造り上げられている。
御業がどんなに驚くべきものか
わたしの魂はよく知っている。
15秘められたところでわたしは造られ
深い地の底で織りなされた。
あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
16胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
まだその一日も造られないうちから。
17あなたの御計らいは
わたしにとっていかに貴いことか。
神よ、いかにそれは数多いことか。
18数えようとしても、砂の粒より多く
その果てを極めたと思っても
わたしはなお、あなたの中にいる。
(1~18節)詩編 139編1節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 この詩編の中心的なテーマは、「神が、私をどこまでも深く究め、知り尽くしておられる」ということです。

聖書において「知る」という表現は、単に相手に対する情報をもっている、という意味に留まりません。私たちの人間関係でも、「誰かをよく知っている」と言うときには、その人と直接会った上で、挨拶をかわし、言葉をかわし、その人との関係を築き上げている状態を言うものだと思います。会ったことがない人に対しては、何か情報をもっていたとしても「その人をよく知っている」とまでは言わないのではないでしょうか。同じように、聖書における「知る」とは、相手を人格的に知っているということで、その人のことを大切に思い、配慮している、愛している、ということです。この詩人は、神様がわたしのことをどこまでも深く究めておられる、知り尽くしておられる、と歌っています。神様が私を愛し、大切に思い、配慮しておられるという、その神様の御業をほめたたえているのです。

 実際、この御言葉を読む時に、私たちも神様の御手の導きを覚えて感謝と平安を抱くものです。私自身もこの詩編の御言葉を読む時に、神様の御手の中に自分が置かれていることを確かめるようにして、深い平安を覚えるものです。

しかし同時に、この詩編の御言葉を読むときに、私は、平安だけでなく、もうひとつの感情を抱いてもいます。

 神様が私のことを究めておられる。知り尽くしておられる。その御言葉を読んで抱くもうひとつの思いは、神様に対する恐れです。神様が私を究めておられると言います時に、そこに平安を抱くと同時に、恐れを抱いてもいるのです。なぜ、恐れを抱くのか。それは、私たち人間の中には、人には見せたくない、神様にも見られたくないような罪の現実があるからです。人間は身勝手なもので、自分が抱いている労苦や苦しみについては知っていてほしいと思いながらも、ある部分についてはプライベートなものだから、足を踏み入れられたくないと思うところがあるものです。たとえ積極的に神様の戒め(たとえば十戒)に違反するような罪を犯さなかったとしても、この毎日毎日が、果たして神様の御心に十分に適った歩みになっているかと考えました時に、私も含めてそれができる人は誰もいません。偶像を拝まなかったとしても、人を殺したり、盗んだりしていなかったとしても、私たちの日常は深く罪に汚されています。正しくふるまい、正しい言葉を使っていたとしても、心の中に悪い思いを抱いてしまうことがあります。何気なく口にした言葉が、意図せず誰かを傷つけていることがあります。

 そうした私たちの日常生活を思います時に、その全てをご覧になって知り尽くしておられる神様が、どれほど私たちの罪を悲しみ、どれほど私たちを赦してくださっていることかと思うのです。たとえ私たちが暗闇の中に自分を覆い隠そうとしても、神様はそんな私たちの姿をご覧になっています。どこまで遠く、この場所から離れていこうとしても、神様のおられないところはどこにもありません。神様は、どこまでも私たちと向き合っておられます。私たちが抱える罪の問題ともまた、真正面から向き合っておられるのです。

 たとえ私たちが、人の目に隠している罪があったとしても、神様はその全てをご覧になった上で、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。私たちの罪を全て、この独り子に背負わせるために、イエスを送ってくださったのです。神様は、私たちの抱える罪を知った上で決して「だから、あなたのことを赦さない」とは仰いません。「あなたの、その罪のために、独り子を十字架につけたのだ」と仰るのです。「あなたのことを知っている!」と言って、なお愛してやまないのです。

 この新しい1年間も、私たちを見通して、なお愛してくださる神様の御計らいに心を向けて歩んでいきたいと願っています。私たちの目には、どんなことが起きるのか予測できないようなことも、神様は御手のうちにとらえておられます。一人一人のことを、ご自分の書に書き留めて、最も良い道を備えてくださるのです。そうやって関わってくださる神様が私たちと共におられます。私たちの喜びも労苦も、罪の現実も知り尽くした上で、愛し導いてくださる神様の御手に、平安をもって、2024年を歩み始めていきましょう。