喜びの祝い
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- 金原堅二 牧師
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ネヘミヤ記 8章9節~18節
聖書の言葉
13二日目に、すべての民の家長たちは、祭司、レビ人と共に書記官エズラのもとに集まり、律法の言葉を深く悟ろうとし、
14主がモーセによって授けられたこの律法の中にこう記されているのを見いだした。イスラエルの人々は第七の月の祭りの期間を仮庵で過ごさなければならず、
15これを知らせ、エルサレムとすべての町に次のような布告を出さなければならない。
「山に行き、オリーブの枝、野生オリーブの枝、ミルトスの枝、なつめやしの枝、その他の葉の多い木の枝を取って来て、書き記されているとおりに仮庵を作りなさい。」
16民は出て行き、枝を持って来て、各自の家の屋上、庭、神殿の庭、水の門の広場、エフライムの門の広場に仮庵を作った。
17こうして捕囚の地から帰った人々から成る会衆は、皆で仮庵を作り、そこで過ごした。ヌンの子ヨシュアの時代からこの日まで、イスラエルの人々がこのような祝いを行ったことはなかった。それは、まことに大きな喜びの祝いであった。
18最初の日から最後の日まで、毎日彼は神の律法の書を朗読し、彼らは七日間にわたって祭りを行い、八日目には定めに従って終わりの集会を行った。
(13~18節)ネヘミヤ記 8章9節~18節
メッセージ
御言葉から「今が仮庵の祭りを行う時期である」と教えられたイスラエルの民たちは、16節によりますと、早速出て行って、各自の家の屋上、庭、神殿の庭、水の門の広場、エフライムの門の広場に仮庵を作って、そこで過ごしました。
仮庵の祭りは、過越の祭り、七週の祭と並んでユダヤ人の3大祭りのひとつでありまして、現代でもユダヤ教では大切に守られている祭りです。その本来の意味は、「イスラエルの民が出エジプトをして約束の土地に向かう際、荒れ野で40年間にわたって仮庵に住んだことを思い起こす」祭りです(レビ23:39~43参照)。「仮庵」という日本語は普段あまり使いませんから、イメージしづらいかもしれませんが、これは言い換えると「仮小屋」のこと、あるいはもっと簡単に言うと「テント」のことだと思っていただいてかまいません。荒れ野で旅をする間、神様が民にマナという食物を与え、水を与えて、民を養い導いてくださった。テントのような仮小屋で暮らしていたときに、神様は確かに民を守ってくださった。その恵みを覚えて、この七日間は草木を用いて仮小屋を建て、そこでテント生活をするというものです。
それが、「まことに大きな喜びの祝いであった」(17節)というわけです。
この仮庵の祭りの場面から教えられることが、少なくとも二つあると思います。一つは、礼拝の喜びは、その日だけに留まらない、ということです。神礼拝を通して、恵みの中に立ち上がった人たちは、その後の1週間の歩みにおいても、喜びが絶えることがありませんでした。信仰が甦ると、生活の全てが甦る、ということがここに具体的に示されているように感じます。私たちの礼拝もそうではないでしょうか。1週間の歩みに、神と共に生きているという慰めと平安、喜びと希望が伴う。それは決して日曜日だけの話ではありません。神様は生きて働いておられる。生きて毎日の生活に関わってくださる。私と関わってくださる。その確信が、私たちの生活の中で深められていきます。このことは、ただ神礼拝の日に喜びをいただくというだけではなく、生活の全てに浸透していくものです。神礼拝を通して信仰が甦ると、生活の全てが甦るのです。
仮庵の祭の場面から教えられるもうひとつのことは、私たちの生涯もまた、荒れ野で旅をする仮住まいである、ということです。荒れ野の旅と、そのときの仮住まいを記念するということは、今あるこの暮らしもまた、決して安定した永住の暮らしではない、と弁えることでもあります。聖書は、私たちの本国は天にある!と語っています。私たちの本国は天にある。その意味で、私たちの地上生涯は荒れ野での仮住まいのようなものなのです。
仮庵の祭りの中心的な喜びは、神様の生きた働きに守り支えられていることでした。かつて出エジプトしたイスラエルの先祖が、荒れ野で敵から匿われ守っていただいたように、神様があらゆる災いから守り、支えてくださる。かつてのイスラエルにしてくださったように、神様は今もあらゆる災いから守ってくださる。そのことが、この祭りにおいては中心的な喜びと平安だったわけです。
これと同じ喜びと平安は、私たちにも与えられているではないか、と思います。それは礼拝で与えられる喜びと平安です。その意味で、神様が今、私たちに備えてくださる仮庵とは、礼拝の場です。ここで、神様に災いから匿っていただき、守っていただき、生きる力をいただくのです。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」とある通りです。どのような困難に見舞われても、私たちはこの場所に帰ってくることができる。神様の前に出ることができる。礼拝で神様の御旨を聞き、いつでもどこでも祈って神様に相談しながら歩むことができる。そうやって、礼拝でいただいた力をしっかりと抱きながら、どんなときでも歩むことができるのだということを、今年度の最後に、深く心に留めていたいと思います。