闇に輝く光
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- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 1章1節~18節
聖書の言葉
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2この言は、初めに神と共にあった。
3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
(1~5, 14節)
ヨハネによる福音書 1章1節~18節
メッセージ
14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書かれています。神の言葉(知恵・真理)が人間の肉体をとって、人となったということです。
私たちと同じ人間の一人となられ、私たちと共に生きるお方となられた、というのです。すなわち、これは主イエス・キリストのことです。「言(すなわちイエス)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と語ることによって、ヨハネ福音書は、クリスマスの出来事を告げ知らせています。クリスマスの夜にベツレヘムで起こったあの出来事、神の御子が貧しい姿をとって飼い葉桶に生まれてくださったあの出来事を言い表しているのです。
「初めに言があった」から連想するのは、創世記にある「初めに、神は天と地を創造された」との御言葉(創世記1:1)です。そのときに神様が口から発した言葉は「光あれ」でした。神様の言葉が、混沌とした闇に光をもたらしたのです。ヨハネ福音書は、この創世記の光に照らされながら、イエス・キリストこそが、闇を照らすまことの光であると私たちに示しています。
もし、イエス様がこの世に来てくださらなかったら、私たちの命も未だに暗闇の中にあったに違いありません。神様を知ることができない、神様の「あなたを愛する」との言葉を知ることができない。命の喜びを知ることができない。なぜなら、確かに神様の創造は素晴らしいものでしたが、しかしそこに罪が入り込んで、この世界も、私たちの人生も暗くしてしまったからです。罪は、私たちと神様の間を隔ててしまいます。「暗闇は光を理解しなかった」とありますように、罪によって混沌としてしまった世界では、私たちは自分で神様の御心を知ることができません。どれだけ愛されても、進むべき方角が定まらずにあさっての方向を向いてしまう。私たちにはそういう罪の暗さがあります。
けれども、そこに「光が輝いている」とヨハネは言うのです。
興味深いことに5節の「光は暗闇の中で輝いている」だけは、現在形で書かれています。「輝いていた」ではなくて「輝いている!」と言っているのです。それは、私たちにとってイエス・キリストの出来事は、過去のことではなくて、今、ここで意味をもつ現在のことだからです。私たちの人生にも、先行きの見えない、暗闇としか思えないことはあるでしょう。世界に目を向けると、私たちの時代でも、人が人の命を奪う戦争の現実、キリストを拒む社会の現実、暗闇としか思えない現実が確かにあります。けれども、どんなに暗闇が差し迫ったとしても、暗闇の中で光は輝いている!イエス・キリストを受け入れ信じる人には、その実感があります。なぜなら、「あなたを愛する」という神様の思いが、今ここにいる私たちの間に宿っているからです。天地創造のとき、神様が言葉で万物を造られたように、神の御子イエス・キリストの恵みと真理は、私たちを罪から救い出す力をもっています。イエス様が「私は罪人を救うために来た」と仰ったその言葉は、必ず今ここで、その通りの結果をもたらすのです。