天の国でいちばん偉い者
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 18章1節~9節
1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
2そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
3言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
4自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
5わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
(1~5節)マタイによる福音書 18章1節~9節
第18章には、イエス・キリストのまとまった説教が記されています。
この教えのきっかけは、「いったい誰が、天の国でいちばん偉いのでしょうか」との弟子たちの質問にありました(1節)。
これに対してイエス様は「子どものようにならなければ、天国に入ることができない」と言っておられます。その言葉にあるように、大事なことは天国に入れるかどうかであって、弟子たちの中で誰がいちばん偉いとか、教会の中での序列がどうかということは問題ではない、ということです。地上の教会でいちばんになっても、どれほど評価されたとしても、天国に入れないのであれば何にもならないからです。
イエス様は「子どものようにならなければ」と言っておられます。当時のユダヤ社会において、子どもとは「低さ」の象徴でした。特に子どもたちが置かれている社会的立場の低さです。当時の子どもは、むしろ社会的な責任を負うことのできない半人前の人間とみなされていました。そのため、周りからの評価もまだ及びませんし、無力で誰からも注目されず、権力や地位とは無関係に生きている、取るに足らない存在、それが当時の子どもたちだったわけです。
イエス様はこのような子どもを真ん中に立たせて、「この子どもが、天国でいちばん偉いと認めることができますか」と迫ります。つまり、当時社会的になんの居場所も与えられていないような子どもが偉いということは、人々から顧みられることのない弱い立場にある人こそ、天国で尊ばれるということです。
考えてみれば、そもそも人は、神様の子どもであるから愛されて天の国に入れていただき、天の国で尊ばれるのです。何かをしたから愛されるのではないし、何か評価されたから救われるのでもない。ただ神様に憐れんでいただいて、恵みをいただいて私たちは天国に入るのです。神様から見た私たち人間の価値とはそういうもので、ただ恵みによって私たちは神様の子どもとして生きていく。私たちはイエス・キリストを信じて受け入れるとき、神様にご自分の子どもとして受け入れられて、親が子どもを大切に養い育てるように、神様から愛され、養われ、天の御国が約束されています。ただ神様の恵みによってイエス・キリストの贖いを受け、救いに入れられ、天国のメンバーとされている。その恵みに生きている人こそ、教会においても天国においても、神様から尊ばれるのです。
イエス様は「心を入れ替えて子どものようにならなければ」と言っておられます。「心を入れ替える」とは、方向転換することです。「偉くなりたい」「評価されたい」という思いから完全に方向をかえて、自分を低くしてへりくだる姿勢をとることです。まるで無力な子どものように、全く神様に依存する小さな者であると、自分を認めることが求められています。
こうしてイエス様は「誰がいちばん偉いのか」という考えを変えて、子どものように身を低くして神様と向き合うことの大切さを教えておられます。天の御国は、子どものように弱い立場にある人こそが真ん中にいる場所であり、順位争いから解放された場所であり、互いに支え合って生きる場所だからです。