2023年11月12日「キリスト者の自由と愛」
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キリスト者の自由と愛
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 17章22節~27節
聖書の言葉
24一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。
25ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」
26ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。
27しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
(24~27節)マタイによる福音書 17章22節~27節
メッセージ
神殿税を集める者たちがペトロのところにやってきて「あなたたちの先生(イエス)は、神殿税を納めないのか」と問いかけました。
神殿税とは、神礼拝の中心であったエルサレム神殿を維持管理するための納入金のことで、ローマに納める税金とは別のものです。エルサレム神殿のためにささげるわけですから、その意味で神礼拝の中心である神殿への「献金」と言ってもよいと思います。
この神殿税は旧約聖書の律法に根拠があって、具体的には出エジプト記30章に由来します。
「あなたがイスラエルの人々から集めた命の代償金は臨在の幕屋のために用いる。それは、イスラエルの人々が主の御前で覚えられるために、あなたたちの命を贖うためである」(出エジプト記30:16)。
重要なことは、これが神殿維持という実際のための献金でありながら、その意味は「命の贖いのため」と言われていることです。要するに、神殿税とはエルサレム神殿の維持管理のためにささげる献金でありながら、同時に罪の赦しをいただくためにささげるもの、命の贖いのためにささげるものであったのです。
このことは、私たちが今ささげる献金とは意味が異なっています。私たちも礼拝の中で献金をささげます。その献金は、神様に、救いの恵みを無償でいただいた感謝の応答として、自由に、自発的にささげるものです。私たちのささげものは、自分の救いのためにささげるものではありません。私たちはイエス・キリストに結ばれて、無償で義とされ、神の子どもとして受け入れられ、恵みによって救いが与えられています。私たちのささげるものは、罪の赦し・永遠の命を与えられたことに対する、神様への感謝の応答です。私たちはイエス・キリストにあって、命の贖いのための代償金から解放され、自由とされているのです。
イエス様と弟子たちは、原則からすれば、神殿税を納めることから自由でした。けれども、イエス様は「彼らに躓きを与えないようにしよう」と言って、結果としてはこれを納めることにしたのです。つまり、イエス様は、自由が与えられたからと言って、その自由を振りかざすことをされず、むしろ、周囲への配慮を欠かすようなことがないようにされたのです。というのは、神殿税を納めることによって、信仰を保っている人たちが少なからずいたからです。この人たちが躓いて、信仰から離れてしまうことがないように配慮されたのでした。
今日の御言葉から私たちも教えられることがあると思います。それは、私たちもまた自分の自由を掲げて、人に躓きを与えることがないよう配慮することが求められる、ということです。
「神殿税を納めるかどうか」はイエス様と弟子たちにおいては、救いの本質に関わる問題ではありませんでした。けれども、本質とは関わらない実践的なことで大切なことは、躓きを引き起こさないように愛をもって互いに配慮することです。神様から与えられた恵みを無にするのではなくて、より豊かにするために。私たちも他の誰かに対して、愛をもって働きかけていきたいと思うのです。