2023年11月05日「からし種一粒ほどの信仰」
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からし種一粒ほどの信仰
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 17章14節~20節
聖書の言葉
14一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、
15言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。
16お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」
17イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」
18そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。
19弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。
20イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」マタイによる福音書 17章14節~20節
メッセージ
今日の御言葉は、イエス様と3人の弟子たちが山から降りてきたところで起きた出来事です。
そこには彼らが帰ってくるのを待っていた弟子たちがいたはずですが、弟子たちの周りには群衆が集まっていて何やら騒ぎになっています。聞いてみると、一人の父親が息子に降りかかった悲惨な状態を訴えかけて「息子を癒してください」と切実に願い出ているのです。しかも、その病は、「山のふもとに残っていた弟子たちには癒すことができなかった」と言うのです。直前までの栄光の世界とは打って変わった、地上の悲惨な姿がこれでもかと繰り広げられているのを感じます。いったい何があったと言うのでしょうか。なぜ、弟子たちにはこの父親の願い通りに、一人の人を癒すことができなかったのでしょうか。
イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば」と言っておられます。
からし種のたとえは以前にも用いられていました。からし種は当時ふつうに蒔く種の中では最も小さなもので、一番小さなものにたとえられます(マタイ13:32)。そのからし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって「ここからあそこへ移れ」と言ってもそのとおりになると言うのです。ちなみに「山を移す」という表現は、当時のユダヤ人が用いたひとつの慣用表現で、常識では解決できないような問題を解決することを表しています。要するに「あなたがたにできないことは何もない」の言い換えだと理解していただければよいと思います。
これだけを聞くと、弟子たちにはそんな米粒よりも小さいようなからし種ほどの信仰もなかったのか、と思われるかもしれませんが、「からし種」は単に小さいというだけではありません。からし種は、驚くべき生命力をもって大きく成長するのです。以前13章のたとえで言われた「からし種」とは、そういう生命力をもつことを表現するものでした。それを踏まえると、単に信仰が大きいとか小さいとかいう問題ではなく、そこに生命が通っているかどうかがむしろ問題です。
生命がかよっている信仰とはどのようなものか。それは、力の源である神様により頼む以外なくなるような信仰です。自分に力があると過信するのではなく、自分の信仰に自惚れるのでもなく、ただ神様により頼む姿勢でいることです。
私たちも神様とつながっていなければなりません。御前に砕かれた魂で、心の底から神の力を信頼することが求められているのです。目を逸らすのではなく、御子イエス・キリストと、キリストのもたらす救いの力を見つめ続けることです。そのとき、私たちもまた、神様の生きた働きをその身に経験するはずです。
もちろん、祈ったからと言って、何でも自分の思い通りに物事が動くことはありません。そのときに何が起きるかは、神様の御心にかかっています。神様の御心に適うことであれば与えられ、そうでなければ、与えられないでしょう。どのような場合であったとしても、神様のご計画が私たちの前に着々と遂行されていると信じて、私たちは精一杯に神様の御心にかなう歩みを追い求めていきたいものです。