2023年10月29日「キリスト者の生活原理」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
2あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。ローマの信徒への手紙 12章1節~2節

原稿のアイコンメッセージ

12章は、ローマの信徒への手紙の大きな転換点だと言うことができます。イエス・キリストの福音に現された救いの奥義を語り切ったパウロが、ここからその福音に生きる生活について語り始めるのです。特にこの1節と2節は、救われて生きる人の、生活の根本について語っておりまして「キリスト者の生活原理」と言うことができます。「生活原理」とは要するに、これからの生活の実践について、その集約となるようなことを語るということことです。

それは、ひとことで言って「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい」です。

ここで、「いけにえとしてささげる」という表現を見て思い起こすことは、旧約聖書の時代になされていた神礼拝のことです。旧約の時代には神様を礼拝するときに、牛や羊といった動物をいけにえとしてささげていました(レビ記参照)。それは、罪に汚れた人間が、聖なる神様を礼拝するためには、罪のつぐないが必要であることを教えるためでした。当時のイスラエルの民は、神様を礼拝するときに、実際に動物の血を流すことによって、自分たちがただ神様によって生かされていることをリアルに感じ取っていたわけです。

けれども、私たちは今、キリスト教会で礼拝をささげるときに、動物を犠牲にささげることをしません。それは、イエス・キリストがご自分をいけにえとして十字架の上でささげることによって、私たちの罪のつぐないとなってくださったからです。私たちはこの礼拝で動物の血を流すことはしませんが、イエス様が私たちのために血を流してくださったことで、私たちは今、神様によって生かされているのです。それゆえ、イエス・キリストを信じる私たちは、もう動物をつぐないのささげものとしていけにえにする必要はなくなっているのです。ですから、その私たちが、「自分の体をささげる」とはどういうことかと言いますと、それはつぐないではなく、感謝のささげものだということです。そして感謝のささげものとして自分を差し出すとはどういうことかと言うと、自分自身を、神様の働きのために用いていただくということです。そうやって自分自身を神様の働きのためにささげる、いわゆる献身的生活のことを、ここでは言っているのです。それを感謝のうちに行うことが、パウロの勧める礼拝です。しかもそれは死んだ動物をささげる礼拝ではなく、新しい命に生きている自分を神様のために差し出す「生きた」ささげものである、と言うのです。

 それは、2節で「この世に倣ってはいけません」と言われていますように、自分にとって好ましい生き方を追い求めるのではなくて、この世の価値観に合わせた生き方でもなくて、「神様が、何を願っておられるのか」という神様の御心を追い求める生き方です。神様の御心に献身していく。これこそ、神様の大いなる愛に出会った人の生き方なのであり、私たちがどこで何をするにしても、このことが根底にあると言えるような、そういう生活のあり方が、ここでは求められているのです。