2021年09月19日「キリスト者の生きる秘訣」
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キリスト者の生きる秘訣
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- 金原堅二 伝道者
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フィリピの信徒への手紙 4章10節~14節
聖書の言葉
10 さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
14 それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
フィリピの信徒への手紙 4章10節~14節
メッセージ
10節でパウロは、フィリピ教会からの「心遣い」を主において非常に喜びました、と語ります。ここで言う心遣いとは、牢獄の中からこの手紙を書いているパウロに対する、フィリピ教会からの支援物資のことを指しています。パウロはそれを、エパフロディト(2:25-30)を通して受け取っていたのでした。
パウロはもちろん支援物資=贈り物を送ってくれた教会に感謝していたでしょう。けれども、パウロはフィリピ教会に対して「贈り物を感謝します」と直接的に礼を述べる言葉を避けています。それは11節の「物欲しさにこう言っているのではありません」という言葉によく表れています。
なぜなら、パウロとフィリピ教会との関係は、この贈り物の上に成り立っているのではないからです。この贈り物がなければ壊れてしまうような関係であるならば、これまでパウロが語ってきた感謝は、喜びは、その意味するところが根底から覆ってしまいます。ですから単純に贈り物によって、物的に満たされているから喜んでいるのではなくて、このことを通してフィリピ教会が福音宣教の働きに加わってくれていることが彼の喜びであったのです。それで、「この点をどうか誤解しないでほしい」というパウロの思いが本日の箇所に表れているわけです。パウロは、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています(12節)」し、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた(11節)」のでありました。
パウロにとって、いついかなる状況に置かれていても満足することこそ、生きる秘訣でした。
私たちの生活は、貧しいか、それとも豊かであるのか、ということが大きな問題となっています。それが生活を規定するからです。
貧しさと豊かさは、より具体的には満腹する余裕があるか、空腹を我慢しなければならないか、有り余るほど物を所有するのか、欠乏の中にあるのかという日々の生活に関わります。では、豊かであれば満足できるのか、あるいは貧しいと満足できないのかというと、そんなこともないでしょう。貧しい生活だと思えても実は満足していて、「あの人は豊かだ」と思われる人が内心まったく満足していない、ということもあります。
では、何をもって私たちは満足するのでしょうか。物をたくさん集めればよいのでしょうか。しかしたくさん集めても、足りない物に対する欲望はなかなか満たされません。仮にこれ以上ないほど集めても、今度は心がなかなか満たされません。では心を満たすために清く貧しく暮らせばよいのかと言うと、その生活が自分に厳しくストイックであるほど、富それ自体が悪徳に見えてきて、他人を裁く方向に傾くこともあるでしょう。豊かであることも、貧しくあることも、それに固執してしまうと扱いが非常に難しくなってしまうのです。
パウロは豊かさも、貧しさも否定しません。両方を知っているからです。彼は裕福な家庭で生まれ育ちましたが、今は福音宣教のために貧しさの中にあります。
その落差を知った上で、パウロは豊かさと貧しさの両方から自由でした。
パウロにとって、人生の柱となるのはそのようなものではないからです。
人生が本当に満たされるのは、神様の救いの中に置かれ、キリストの命に生かされることによるからです。このようにキリスト教信仰の中にある人は、豊かさにおいても貧しさにおいても、喜びの中にも悲しみの中にも、人生のいかなる場合にも「神様の救いに入れていただいている」という満足があります。