2023年10月08日「十字架への出発」
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十字架への出発
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 16章21節~28節
聖書の言葉
21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
(21〜25節)マタイによる福音書 16章21節~28節
メッセージ
21節にありますように、イエス様は、このときからご自分が「必ずエルサレムに行って、長老・祭司長・律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている!」と打ち明け始められました。
「長老・祭司長・律法学者たち」と出てきますが、この人たちはユダヤ教の指導者たちです。エルサレムには「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤの最高議会がありまして、そこではユダヤ国内で起こる色々な問題を処理していましたが、彼らはそのサンヘドリンの構成員です。つまりイエス様は、ユダヤ人を代表する人たちから拒絶され、罪人として裁かれ、十字架上で処刑されることになる、と言うのです。
ただ、確かにこの十字架刑は、人間の目から見ると、一人の男がユダヤの法に従って処刑されたに過ぎない出来事に見えます。しかし実はこの十字架と復活こそが、私たち人間にまことの命を得させる!というのが、聖書の語る救いの出来事です。命を奪う十字架が、逆に私たちに命を得させるという逆説があるわけで、それはただ、父なる神様の憐れみの御心によるものです。
イエス様は御自分に従う人に、「自分の十字架を背負うこと」を求めておられます(24節)。
そもそも十字架刑とは、ローマ市民以外に課せられる最も重い死刑の方法です。十字架刑が確定すると、まず39回ムチで打たれます。40回打つと死ぬと言われていましたので、そのギリギリまで痛めつけられるわけです。そして、十字架の横木を文字通り背負って、現場に歩いていきます。それは一種の見せしめでもあり、辱めを与える方法でもありますが、そうした苦しみの道をイエス様は歩んで行かれ、十字架を背負われたのでした。
イエス様が十字架を背負ったのは、何度も申し上げますように、神の御心を行うためです。ですから、ここで言う「十字架」とは、神の御心を行うための苦しみの象徴だと言うことができます。その意味で、「十字架を背負う」とは、自分に対する神様の御心に従うことと、それに伴う苦しみを引き受けることだと申し上げることができます。これは、ある種、厳しい要求に思えるかもしれません。それでも、自分を捨てて、自分の命を差し出してイエス様に従う人は、逆に、まことの命を得るのだと言われているのです。
イエス・キリストは、十字架の上で苦しみを受け、殺されると予告されましたが、ただ殺されて、それで終わりではありませんでした。その先があったわけです。イエス様はご自分が「…多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と言っておられました。それはつまり、イエス様の歩む先には、肉体の死で終わらない、朽ちることのない命の祝福があるということです。神がその命を与えるからです。さらには、イエス様の後ろに立って従って行く弟子たちにも、この祝福が用意されています。「自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様に従う人は、この朽ちることのないまことの命を得る!神と共に生きる、永遠の祝福が用意されている!」…と約束されているのです。