信仰の告白
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 16章13節~17節
13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。マタイによる福音書 16章13節~17節
今日の御言葉は、短い箇所ながらも非常に有名で、重要な内容が詰まった御言葉です。
イエス様の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」との問いかけに答えて、シモン・ペトロが弟子たちを代表して答えます。
「あなたはメシア、生ける神の子です」。
「イエスが何者であるのか」、それを公に言い表すことを教会では「信仰告白」と言います。誰か他の人が言っていたからではなく、「わたしはこう信じる」という、自分自身の信仰として、イエス様が何者であるのかを公に告白するのです。
イエス様が求める信仰の告白とは、このような告白です。第三者の声を用いて「あの人がこう言っていた」「世間ではこうだ」という責任のない言葉ではなくて、神様の前で責任を負う魂の告白を求めておられるのです。ですから、私たちが考えなければならないことは、「私にとってイエスとは何者か」ということです。キリスト教会は、私たちの属する滋賀摂理教会でも、洗礼を受ける方々が出てくることを願っています。けれども、それはただ通過儀礼的に「あなたは礼拝に来てくれているから、そろそろ洗礼受けときましょうね」ということでは全く意味がありませんで、その人が本当に「イエス・キリストこそ、救い主メシア、生ける神の子である」との信仰に導かれているかが肝心なことです。そのために、ある人が洗礼を受ける志を与えられましたら、丁寧に信仰の学びをいたしますし、そして牧師と長老たちにおいて試問会(面談)が行われます。そこで問われることとは、突き詰めれば「あなたは、イエスを何者と言うのですか」とのひとことに尽きるのです。
もちろん神様の知恵とは私たちには究め難い永遠の知恵であり、真理でありますから、誰だって最初から神様のことを完璧に何もかもわかるわけではありません。牧師だってそうです。「神様のことを、信仰のことを何でも全て完全にわかります」などと言える人は誰もいません。そうだから、すでに洗礼を受けた人だって、一生懸命に学んで、祈って、神様から与えられた信仰を確かめながら、日々歩むのです。だから、信仰の内容が全部わかるまで洗礼を受けられない、クリスチャンではないなんて、そんなことは誰も言えません。
問われているのは、「あなたは、イエスを何者と言いますか」という、これに尽きるのです。
「私にとって、イエスとは何者なのか」という、この問いと真剣に向き合って、祈って、イエス様の声を聞く。それが、信仰への確かな入り口なのです。
私たちに信仰を与え、成長させてくださるのは聖霊なる神様です。ですから、神の愛をもっと知りたい、神の問いかけに応答したいと少しでも願うならば、その導きが与えられるように神様と交わりを深めることが肝心です。その最たる場所は、礼拝でしょう。神様を賛美し、御言葉に注意深く耳を傾けて、祈ることです。同時に、日曜日の礼拝だけでなく、1週間の生活においても神様は共にいてくださるので、私たちは日々御言葉に親しみ、祈ることができるのです。