信仰の根拠はどこに
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 16章1節~12節
1ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。
2イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、
3朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。
4よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
(1〜4節)マタイによる福音書 16章1節~12節
ファリサイ派とサドカイ派は、律法の実践の仕方が違ったことから、基本的には仲が悪かったはずでした。ところが、ここでは両者がまるで一つのグループかのように、結託してイエス様の前に立ちはだかります。本来は仲が悪かったのに、イエス様を共通の敵とみなすことで一致して、この後、イエス様を十字架による処刑へと追い込んでいきます。
ファリサイ派とサドカイ派の人々は、イエス様を試そうとして「天からのしるしを見せてほしい」と要求しました。「天からのしるしを見せてほしい」という要求とは、別の言葉に置き換えるなら「証拠を見せてほしい」ということです。何の証拠かと言うと、イエス様を神の御子・救い主メシアと信じるための証拠です。本当に「このイエス」が神の御子・救い主であることを文句なしに認めることができるような、客観的に、そうとしか言いようがないような根拠がほしい、あるいは「そう思えるような天からの奇跡を見せてくれ」と言うのです。イエス様が語る教えを聞いても、病の癒しといった力ある御業を見ても、そこに救い主メシアの到来を見ることができなかったからです。
イエス様はただひとつ、「ヨナのしるし」を示しておられます。「あなたが見分けるべきしるしはこれだ!」と言っておられるのです。「ヨナのしるし」とは、イエス・キリストの十字架と復活のことです。「預言者ヨナが魚の腹の中で三日三晩いて、絶対に死んだと思われたのにそこから復活した」という、ヨナ書の出来事が背景にあります。同じようにイエス様は十字架で死なれ、三日目に死者の中から甦られました。イエス様を信じるにあたって、これにまさる奇跡・これにまさる証拠はありません。イエス・キリストの十字架と復活こそ、私たちが信じるために必要で十分な「天からのしるし」なのです。
イエス様を「試そう」という態度は、荒れ野でのサタンの誘惑を思い起こさせます(4章)。そこでサタンは、イエス様が本当に神の子であるなら、その証拠を見せろと言わんばかりに、次々と誘惑します。「お前が神の子なら、石をパンに変えてみろ」などと言って、目に見える証拠を求めたのです。
今日の「天からのしるし」を求めるファリサイ派とサドカイ派の言葉は、まさにこのサタンの誘惑と同じことを言っています。サタンの誘惑にせよ、今回の「天からのしるしを見せてほしい」との要求にせよ、これらは「神様を試す」以外に何の目的もないことです。そうやって必要のない奇跡を求めて、神様の真実を試そうとすることが、問題の本質ではないかと思います。
私たちが神を、独り子イエス・キリストを信じるのは、このような目に見える「しるし」によるのではありません。私たちが、神様に「奇跡を見せろ」と命令して信じるのではなく、神様から命じられて信仰の旅路を歩み始めるのです。目に見えるしるしではなく、神様の御言葉と、聖霊の内側からの促しによって信じるのです。ここに、私たちの信仰の根拠があります。