2023年09月03日「あわれみの主」

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聖句のアイコン聖書の言葉

29イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。
30大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
31群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。

32イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」
33弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
34イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。
35そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、
36七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
37人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。
38食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
39イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。マタイによる福音書 15章29節~39節

原稿のアイコンメッセージ

福音書記者のマタイは、前回に続いて、異邦人にまで溢れる恵みの豊かさを今日の物語においても示しています。

イエス様が来られた「ガリラヤ湖のほとり」(29節)とは、ガリラヤ湖の東岸で、そこはなおギリシャ・ローマ文化の影響を深く受けた異邦人の土地でした。そこで、イエス様は群衆の悲惨をご覧になって、懸命に病を癒しておられます。そこで、癒された人々が「イスラエルの神を賛美した」(31節)のでした。他の神々とは区別して、ただお一人の「イスラエルの神」を賛美したと言うのです。ここには、イエス様の癒しを受けた人々の驚きと感謝が鮮やかに現れています。救い主メシアの恵みは、イスラエルの民だけで食べ尽くすほどのできないほど豊かなパンのようであり、異邦人にも溢れるほど豊かで大きな恵みであった、という事実が描かれているわけです。

後半に描かれた4000人を養う記事については、少し前にありました5000人を養う記事(14章)と、内容的にはほぼ同じことを語っています。数字の違いはいくらかありますが、最大の違いを挙げるとするならば、養いの対象が異邦人であったという点にあるでしょう。

この物語はイエス様の「この群衆がかわいそうだ」という言葉で始まります(32節)。たとえ異邦人であったとしても、二日も三日も寝食を忘れて留まる健気でひたむきな群衆に対して、イエス様は心の底から湧き出る愛と憐れみの感情をお示しになったのです。この、主の憐れみこそが、人を罪と滅びの中から救い出す原動力です。これは今の時代も変わりません。私たち人間の悲惨をご覧になって、はらわたから揺さぶられるようなキリストの憐れみと愛こそが、私たちを救う原動力なのです。

 さらに、イエス・キリストの祝福が届けられるとき、そこではいつも弟子たちの働きが用いられた点に心を向けたいと思います。弟子たちは、イエス様の祝福を取り次いで、人々にパンと魚を配っていきました。この食卓は、イエス様が招いてくださる恵みの御業ですが、常に弟子たちがその恵みの分配と伝達に奉仕しています。ここに主の弟子たちの働き場があり、現代でもここに教会の働き場があることを覚えましょう。

私たちが属する滋賀摂理教会も、神様の救いと恵みを取り継ぐところです。もちろん、救いとそれに伴うあらゆる恵みは神様のものですから、私たちが自分で造ることはできません。しかし、教会が、そしてここに集う私たち一人一人が、あわれみの主に従う時に、神の恵みを取り継ぐ者として豊かに用いられます。私たちひとりひとりがもっているものは、小さなものかもしれません。けれども、私たちが今持っているものを神様から与えられた賜物として見つめ、それを神様から預かっているものとして感謝し、ほめたたえてささげるときに、主はそれを何倍にも何十倍にも、何百倍にも増やして、あわれみの御業を現してくださるのです。