2023年08月13日「心から神を信じる」
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心から神を信じる
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 15章1節~20節
聖書の言葉
1そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。
2「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
3そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。
4神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。
5それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、
6父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。
(中略)
17すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。
18しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。
19悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。
20これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」マタイによる福音書 15章1節~20節
メッセージ
ファリサイ派の人々が、「イエスの弟子たちが先祖の言い伝えを犯している」と言って抗議しました。
それに対して、イエス様はファリサイ派自身のもっと重大な罪を指摘されます。それは、ファリサイ派こそ人間の言い伝えを盾にとって、神様の教えを虚しくしている、という内容でした。
事の発端は、イエス様の弟子たちが食事の前に手を洗わなかったことを、ファリサイ派の人々が抗議したことにあります。現代の私たちの常識では、食事の前に手を洗うのは衛生上の理由ですが、当時のユダヤ人には違う意味がありました。それは、「神の前に身を清める」という宗教上の意味です。ファリサイ派の人々は、汚(けが)れは信仰をもたない異邦人や、罪人と触れることで手に付着し、そこから食べ物を通じて体内に入ってくるものだと考えていました。街中に出た日などは、いつ、どこで異邦人や罪人と触れたかわかりません。そのため、食事の前に身を清めるために彼らは手を洗ったのです。
これに対してイエス様は、「聞いて悟りなさい」と注意を促して、そもそも人の汚れがどこから来るのかを教えておられます。
19節に悪徳のリストが載っています。「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口」などです。これらの罪は人の心の内側から出てくるものだ、とイエス様は言っておられます。人を汚すものは、心の内にある人の汚れであり、汚れた心から出てくる汚れた言葉なのです。食べ物であれば、体内に入ってもいずれ便となって排出されます。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出される」とはそういう意味です。しかし、口から出て来る言葉は、その人の心から出てくるものであって、この汚れは手を洗っても消えることがありません。一生懸命に洗っても、お風呂に入っても、消えることがありません。落ちることがありません。これが、人間の罪の根深さなのです。
私たちが本当に気を配らなければならないのは、心の内から出てくる「罪」というウィルスなのです。これは手を洗っても消えません。洗い流すことができません。ただ唯一、私たち人間の罪を洗い流すことができるのは、イエス・キリストの十字架の血です。キリストの十字架の血によってしか、私たちの罪の汚れは清められることがないのです。ファリサイ派の人々は、「言い伝え・口伝律法」を用いて神の言葉の細かい実践を定め、これを何としても遵守しようとしていました。けれどもそれは、心の内側に愛に基づく細やかな配慮があったわけではなくて、ただ自分や隣人を責めながら頑なに規則を守ろうとするものでありました。
私たちが罪の汚れから清めていただくために考えなければならないことは、自分の心の悲惨を知って、悔い改めて神様に立ち返ることです。私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエス・キリストに立ち返ることです。形だけではない、心から主を信じる信仰を与えていただけるように、保っていただけるように、聖霊の導きを祈り求めることなのです。