2023年07月23日「神が、必要を満たしてくださる」
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神が、必要を満たしてくださる
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 14章13節~21節
聖書の言葉
13イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。
14イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
15夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
16イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
17弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
18イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、
19群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
20すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
21食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。マタイによる福音書 14章13節~21節
メッセージ
今日の御言葉の舞台は、「人里離れたところ」です。13節や15節に出てくる「人里離れたところ」とは、「荒れ野」という言葉を文脈に応じて翻訳したものです。ですからこれは、「荒れ野で、必要な糧が与えられた」という出来事です。そもそも主なる神様は、旧約の時代から「荒れ野」において、イスラエルの人々の必要を満たしてきました(代表的な出来事は出エジプト記16章)。神の民として霊的に養われるに留まらず、肉体的にも神様によって養われてきたのです。
同じように、イエス様は私たちが必要とするものを満たしてくださるお方です。実際、今日の御言葉では、「大勢の人々がイエス・キリストによって霊的にも肉体的にも満たされた」という事実を伝えています。それは私たちの常識では考えられないようなことで、それゆえ弟子たちも最初は戸惑い、尻込みしたほどでありましたが、その常識を超える奇跡の御業がここに示されたのでした。
イエス様は五つのパンと二匹の魚を用いて、大勢の群衆を食事の席へと招きます。イエス様は「座る」ようにお命じになりましたが、これは食事をとる姿勢のことです。ここで、イエス様が招いてくださる感謝と喜びの宴会が始まります。
イエス様の食卓について語る際に、この直前にもうひとつ別の食事の席があったことは、やはり改めて注目しておきたいと思います。当時のガリラヤ地方の領主であるヘロデ・アンティパスという人物は、自らの誕生日の席に、盛大な宴会を開いていました(1~12節参照)。ヘロデの宴席には、お酒があり、御馳走がありました。華やかさがありました。ところが、宴会の余興として、洗礼者ヨハネの首が刎ねられました。…その華やかさの裏には、憎しみがあり、面子・プライドがあり、人に対する恐れがありました。
対してイエス様の宴席には、「パンと魚」という庶民が口にする質素な食事がありました。ご馳走はありません。しかしそこには、賛美があり、祈りがあります。そして、私たちを本当の意味で満たす、救い主メシアの祝福があります。福音書記者のマタイは、主の食卓に与る者こそが、本当の意味で幸福であることを描いているのです。
イエス様は、五つのパンと二匹の魚をとって、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになりました。この「取って、祈りを唱え、裂いて、渡す」という一連の動きは、後に最後の晩餐の席で主が、聖餐式をお定めになったときの所作と一致します。ですから、イエス・キリストの宴席につくとは、天の御国における、救い主メシアの祝宴の先取りであると言うことができます。その意味で、ここで行われた主の食卓は、聖餐式と重ねて読むこともできるものです。主の食卓に与るとは、全ての恵みを神様からいただいて、主に養われて生きることです。そこには喜びがあります。感謝があります。キリストのパンに養われて生きることは、終わりの日に完成する祝福の前味を味わうことなのです。