聖書の言葉 8 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。9 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。フィリピの信徒への手紙 4章8節~9節 メッセージ 8節には人としてより善く生きるために必要とされる8つの「徳目」が列挙されています。 「すべて真実なこと」「すべて気高いこと」「すべて正しいこと」「すべて清いこと」「すべて愛すべきこと」「すべて名誉なこと」さらに「徳」と「称賛」の8つです。これらを「心に留めなさい」とパウロは命じます。 「心に留める」とは単に考えたり漠然と思い浮かべる以上のことを意味しています。注意深く考えて、正しく評価する。真剣に考えて、心砕いて思う、といった意味をもちます。 注意深く心に留める内容ですが、8節で列挙されている徳目は、実は聖書に特有のものではありませんでした。当時のギリシャ世界、ヘレニズム社会の中で、一般的な思想家・哲学者たちが「善く生きるためにはこうあるべきだ」と勧めていたことだったのです。それをパウロはいくつか引き合いに出して、「これらを心に留めなさい」と言っています。つまり教会の中だけでなくて、世間一般で「これは必要だよね」と言われているようなことを心に留めよ、と言っていることになります。 私たちだって例えば「立場の異なる者同士が、互いに尊重し配慮しなさい」と言われれば、そうあるべきだと思うでしょう。国の違い。文化の違い。そうした立場の違う人同士が、互いに退けて排除するのではなくて、尊重しよう、というのは、一般的にも広く認められている価値観です。実際にはそうなっていない現実があるのは承知していますが、しかし殊にキリスト者がそれを行うのでなければ、誰が行うのか、とも思わされます。信仰を生きるのであれば、およそ人として大事なことと言われれば、たとえ人より優れていなかったとしても、全く考えないのでは困るのです。善いものは善いものとして、見逃さないようにしよう。そのような調子がここに表れています。 続けてパウロは9節で、端的に言って「わたし(パウロ)を模範として、実行しなさい」と言います。もう少し丁寧に言うと、パウロの模範の中にある「神様からの」賜物を見なさい、ということです。なぜなら、私たちは神様がお与えになる賜物によって、信仰によって救いに入れられたからです。その、信仰によって救いに入れられたという根本をしっかりともっているならば、どんなことにも感謝と喜びをもつことができるでしょう。そのときにはじめて、およそ世間で言われているどんなことにも心を配り、正しく評価し、自分のものとすることができるのです。 「そうすれば」とパウロは続けます。 9節の後半「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」。 平和とは、神様が共にいますところに成り立っています。神様が自分を愛してくださって、共にいてくださる。その確信の中で生きる道には神様の平和があるでしょう。それを受け取る私たちの中には平安があるでしょう。嬉しいときにも、苦しいときにも、悲しいときにも、どんな出来事の中にも、「神様が共にいてくださる」という平安があるのです。 神の平和(平安)に生かされる喜びの中で、主を証しすることができるように、日々の生活のひとつひとつを心に留め、実行したいと願います。
8節には人としてより善く生きるために必要とされる8つの「徳目」が列挙されています。
「すべて真実なこと」「すべて気高いこと」「すべて正しいこと」「すべて清いこと」「すべて愛すべきこと」「すべて名誉なこと」さらに「徳」と「称賛」の8つです。これらを「心に留めなさい」とパウロは命じます。
「心に留める」とは単に考えたり漠然と思い浮かべる以上のことを意味しています。注意深く考えて、正しく評価する。真剣に考えて、心砕いて思う、といった意味をもちます。
注意深く心に留める内容ですが、8節で列挙されている徳目は、実は聖書に特有のものではありませんでした。当時のギリシャ世界、ヘレニズム社会の中で、一般的な思想家・哲学者たちが「善く生きるためにはこうあるべきだ」と勧めていたことだったのです。それをパウロはいくつか引き合いに出して、「これらを心に留めなさい」と言っています。つまり教会の中だけでなくて、世間一般で「これは必要だよね」と言われているようなことを心に留めよ、と言っていることになります。
私たちだって例えば「立場の異なる者同士が、互いに尊重し配慮しなさい」と言われれば、そうあるべきだと思うでしょう。国の違い。文化の違い。そうした立場の違う人同士が、互いに退けて排除するのではなくて、尊重しよう、というのは、一般的にも広く認められている価値観です。実際にはそうなっていない現実があるのは承知していますが、しかし殊にキリスト者がそれを行うのでなければ、誰が行うのか、とも思わされます。信仰を生きるのであれば、およそ人として大事なことと言われれば、たとえ人より優れていなかったとしても、全く考えないのでは困るのです。善いものは善いものとして、見逃さないようにしよう。そのような調子がここに表れています。
続けてパウロは9節で、端的に言って「わたし(パウロ)を模範として、実行しなさい」と言います。もう少し丁寧に言うと、パウロの模範の中にある「神様からの」賜物を見なさい、ということです。なぜなら、私たちは神様がお与えになる賜物によって、信仰によって救いに入れられたからです。その、信仰によって救いに入れられたという根本をしっかりともっているならば、どんなことにも感謝と喜びをもつことができるでしょう。そのときにはじめて、およそ世間で言われているどんなことにも心を配り、正しく評価し、自分のものとすることができるのです。
「そうすれば」とパウロは続けます。
9節の後半「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」。
平和とは、神様が共にいますところに成り立っています。神様が自分を愛してくださって、共にいてくださる。その確信の中で生きる道には神様の平和があるでしょう。それを受け取る私たちの中には平安があるでしょう。嬉しいときにも、苦しいときにも、悲しいときにも、どんな出来事の中にも、「神様が共にいてくださる」という平安があるのです。
神の平和(平安)に生かされる喜びの中で、主を証しすることができるように、日々の生活のひとつひとつを心に留め、実行したいと願います。