2021年10月10日「さあ、目を上げて」
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さあ、目を上げて
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創世記 13章1節~18節
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聖書の言葉
1アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。2アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。3ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。4そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。5アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。6その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。7アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた。8アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。9あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」10ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。11ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。12アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。13ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。14主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。15見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。16あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。17さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」18アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。創世記 13章1節~18節
メッセージ
私どもの人生には色んな問題が次から次へと起こってきます。私どもを襲い、苦しめる問題そのものが、すぐにどこかに行ってくれればいいのですが、思いどおりにすべてが行くわけではありません。すぐに問題が解決するならば、それは本当の悩みとは言えないかもしれません。それよりも、色んな問題や苦しみの中で、如何に生きていくかということが、いつも問われているのではないでしょうか。私どもを苦しめる問題そのものは、依然として目の前にあるかもしれません。しかし、そこでどのように生きていくのか。そこでどのような希望を見出して生きていくのか。そのことがとても大事なのではないでしょうか。そして、私どもの本当の思い悩みというのもまた、実はそういうところに生まれてくるものだと思います。ここでどう生きたらいいのか?どこに進んで行ったらいいのか?ということです。また、その中で人生の岐路、分かれ目に立たされるということもあるでしょう。右に行けばいいのか?左に行けばいいのか?どちらを選べばいいのか?そこで私どもはさらに悩んでしまいます。人生を左右するような選択をしなければいけないということもあるからです。
今朝は、創世記第13章の御言葉を共に聞きました。一つの前の第12章からアブラハムの物語が始まります。ここではまだ「アブラム」と呼ばれていますけれども、のちにアブラハムと呼ばれるこの人物は、神の約束の言葉を信じ、生まれ故郷のハランを出発し、カナンの地に向かうのです。この時、アブラハムは既に75歳でしたが、神様の言葉に従うことをとおして、アブラハムが「祝福の源」となり、その救いの祝福が子孫にまで広がっていくという約束を、神様は与えてくださったのです。アブラハムはのちに「信仰の父」と呼ばれるほどに、イスラエルの民が尊敬する人物です。私どももまた、アブラハムの人生をとおして、本当に多くのことを教えられます。けれども、アブラハムという人物は、決して完璧な人間ではありませんでした。何一つ、失敗や罪をおかしたことのない信仰者ではないのです。ただ、そのような信仰者としての弱さや罪を含め、アブラハムに学ぶところは実に多いのす。そして、本日の第13章においては、私どもがキリスト者としてどう歩むべきか。その大切な姿勢というものを教えてくれています。悩みや苦しみの中で、自分はどこに進むべきか?何かを選び取るべきか?を聖書は私どもに語り掛けるのです。
アブラハムもまた、人生の岐路に立つことになりました。神の約束の言葉を信じ、生まれ故郷を旅立ったアブラハムは、カナンと呼ばれる地方に着き、さらにネゲブと呼ばれる地方に向かいます。人間的に見れば、あまりにも非現実的な神様の言葉でしたけれども、アブラハムは何一つ疑うことなく、すべてを主に委ね、主に従ったのです。だから、きっと神様は素晴らしい恵みをすぐにアブラハムに与えてくださるに違いない。そう信じたいのですが、実際はそうではありませんでした。辿り着いたネゲブ地方でひどい飢饉に襲われることになります。アブラハム一人の問題だけではなく、家族や共に旅する仲間、また家畜たちのいのちに関わるたいへん大きな苦難に遭遇することとなりました。それで、アブラハムはエジプトに下ることを決意するのです。そのことが、第12章10節以下に記されています。
そして、もう一つの大きな問題が、このエジプトで起こりました。先程、アブラハムもまた罪人の一人だと申しましたけれども、アブラハムはエジプトで大きな罪をおかしてしまいます。それは自分の身を守るために、妻のサライを裏切ってしまったということです。妻サラ(サライ)は美しい女性であったようです。しかし、その美しいサラがアブラハムの妻だということを、エジプトの人が知ったら、私を殺すに違いない。そう思って、エジプト人に会ったら、「アブラハムの妹です」と言って、偽るように命じたのです。そして、エジプトに入った時、サラはエジプトの王ファラオの家臣の目に留まり、王様のもとに行くわけです。要する、王の側女になったということです。その見返りに、たくさんの家畜や金銀をアブラハムは手にします。自分の罪によって得た財産と言っていいでしょう。のちにファラオは、サラがアブラハムの妹ではなく、妻であったことを知り、「何ということをしたのか」と言って、罪を咎め、アブラハムはエジプトから追い出されることになります。
そして、本日の第13章が始まります。1〜2節「アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。」アブラハムはもう一度、以前いたネゲブ地方に帰って行くのです。もう一度、信仰の旅路をやり直す必要があったからです。アブラハムはエジプトからネゲブへ、さらにベテルに向かって旅を続けます。そこは3節にもありますように、アブラハムが「以前に天幕を張った所」「最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所」でした。つまり、神様を礼拝した場所だということです。もう一度、以前来た場所に戻るということ。アブラハムにとって、それは、礼拝する場所へ戻ること、神様のもとに戻ることを意味しました。自分の原点に立ち戻ったと言ってもいいでしょう。自分はなぜここで生きているのだろうか?自分はどこに向かって生きているのだろうか?それらを問う時に、必ず立ち帰るべき原点がここにあります。それは神を礼拝するということです。神の言葉に聞くということです。アブラハムの信仰の旅路というのは、神の約束の言葉は聞き、それに従ったところからすべてが始まったのです。
けれども、エジプトにおいてアブラハムは大きな罪をおかしてしまいました。それはおそらく、神を礼拝するということをしていなかったのだと思います。聖書にはエジプトで神を礼拝したということは何一つ記されていません。神を礼拝せず、自分の愚かな知恵によって生きようとしたのです。そして、神を神としてしないところで何が起きたのか。それが妻を裏切ったということです。神様に背を向け、悲しませてしまったということです。だから、エジプトを出て、ネゲブやベテルに戻って、神を礼拝した時、アブラハムは本当に心から悔い改めたのだと思います。これはアブラハムに限ったことではありません。私どもも、なぜあの時、あんなことをしてしまったのかと後悔することがあります。苦難の中でいい考えを思い付いたと思って実行しても、結果として周りを悲しませ、傷付けてしまったということもあるわけです。その時に、自分は本当に神様との関係が健全であったかどうかを確かめる必要があるのです。そして、帰るべきところへもう一度帰って行くということです。キリスト者の幸いというのは、いつも帰るべき場所を知っているということではないでしょうか。疲れたら、休ませてくださる神が私どもを礼拝に招いてくださり、立ち帰るならば豊かに赦してくださる神がいつも待っていてくださいます。だから、安心して神様のもとに帰り、愛と赦しの中で、再び立ち上がって歩み出して行くことができるのです。
アブラハムは神様の前に立ち帰り、再び神様を信頼し、信仰の旅路を続けていきます。しかし、そのあと、また別の問題が起こったということを聖書は語るのです。この時、甥のロトとも一緒だったとあります。アブラハムの弟ハランの息子に当たります。けれども、ロトの父ハランは既に死んでしまいましたから、まだ子どもが与えられていなかったアラブハム夫妻にとっては、我が子同然であったことでしょう。自分の跡取りはロトだと思っていたことでしょう。この後、創世記を読み進めていきますと、ロトがたいへん危険な目に遭う場面があるのですが、アブラハムは命懸けロトを助けに行きます。それほどに、アブラハムはロトを愛していました。けれども、ここではこのロトと間に争いが起こったというのです。実際はロトの家畜を飼う者とアブラハムの家畜を飼う者との争いなのですが、結局は、アブラハムとロトの争いと言ってもいいでしょう。おそらく、家畜が食べる草や水を巡っての争いだと思われます。財産を巡る争いによって、アブラハムとロトは一緒に住むことができなくなったのです。
先の第12章においては、飢饉や貧しさといった苦難を経験しました。本日の第13章では、財産や豊かさというものが原因となって、危機を経験することになりました。人生というのは、苦しい時、貧しい時だけがたいへんなのではありません。豊かさを覚える時、ああ自分は幸せだと思えるような時でさえ、私どもは危機の中に立たされるということがあります。アブラハム自身がそのことを経験しています。私どもが生きる今日の世界でも財産や豊かさといったことが原因で大きな亀裂が生じ、争いが起こることがあります。それもあかの他人同士の争いではなく、家族や親族において争いが起こるということがいくらでもあるのです。貧しい時はお互い協力することができたかもしれませんが、豊かになるとわずかな不足や欠乏でも我慢できなくなり、争い始めるのです。アブラハムとロトの場合、家畜の餌を巡る争いという一見、些細な争いに見えるかもしれません。けれどもアブラハムは、小さな問題とは見なしませんでした。重大な危機を覚えたのです。なぜなら、本来アブラハムを族長とする一つの群れの中に、ロトを中心とするもう一つの群れが形成されようとしていることを意味するからです。そうしますと、信仰共同体が崩壊してしまい、神様が与えてくださる祝福にあずかることができなくなります。
だから、アブラハムはこの事態を何とかしたい。しかも平和的に解決したいと思いました。それで、ロトに対して、次のように提案するのです。8〜9節「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」アブラハムが提案したことが、お互い別の道を行こう、お互い別れようということでした。そして、ロトや彼の群れのことを思い、本来ならば、年長者である自分が先に選択できる権利を、年下のロトに譲ったのです。左に行くか、右に行くか。西に行くか、東に行くか。これは簡単な選択ではありませんし、自分一人の決断ではないのです。部族全体の運命がかかっているのです。そのような大きな決断をアブラハムはしなければいけませんでした。しかもその決断をロトに譲ってしまいました。結果によっては、仲間からの信頼を失うことになってしまいます。しかし、なぜアブラハムはこのような大胆な決断をすることができたのでしょうか。明確な理由は記されているわけではありません。けれども、以前エジプトにいた時に自分がした決断とは明らかに違う決断を、アブラハムはここですることができました。そして、それはアブラハムがもう一度、信仰の旅路の原点に立ち帰り、神を礼拝する生活を大切にするようになったところに与えられたものでした。エジプトから戻ったアブラハムは、日々、神を礼拝し、祈る生活を大切にしたのです。そのようなところで、アブラハムは危機の中で自分が歩むべき道をしっかり見出すことができたのです。たとえ、人間の知恵からすれば、愚かだと思うことであったとしても、勇気をもって神様が示したもう道を選び取ることができたのです。
さて、初めに選択する権利を与えられたロトは何を選んでしょうか。10〜11節。「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。」
ロトが選んだのは、東側に位置するヨルダン川流域の低地でした。理由もはっきり記されています。要するに、よく潤った豊かな地であったということです。町も既に拓けていました。文明・文化も発達しています。そのように、生活の基盤がすべて整っていましたらか、これまでの遊牧民のようにどこか不安な思いを抱えながら旅する必要はもうありません。生活に必要なすべてが満たされている場所に留まれば、安泰なのです。けれども、ロトが選んだ土地は10節にあるように、「ソドムとゴモラを滅ぼす前であったので」とあります。13節では、「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」とあります。ロトはこの時、気付いていませんでしたけれども、彼が選んだ町は神様の御心にかなわない町であったということです。結果的に、誤った道を選択をしてしまったということが、ここから分かるのです。
一方、アブラハムのほうは必然的に、ロトが選んだほうとは反対側の土地を選ぶことになります。そこは荒れ果てた高地でした。家畜を養うだけの牧草や水が十分にあるわけではありません。昼は暑く、夜は冷え込むような寒暖差が激しい場所です。文明も拓かれているわけではありません。ロトが見向きもせず、見捨てていった理由がここにあります。そのような場所に、家族や仲間や家畜を引き連れて、生きていかなければいけないのです。それにまだアブラハムとサラの間に子どもが与えられているわけでもありません。神様の祝福が子孫にまでも及ぶというのですけれども、具体的に目に見える実りがまだ何も与えられていないのです。おそらくアブラハムはこの時、下を向いていたのではないでしょうか。神様に祈り求めつつも、自分の決断は正しかったのだろうかと、うなだれていたことでありましょう。
でも、そのようなアブラハムに神様は声を掛けてくださるのです。第13章において、初めて神様が、アブラハムに語り掛けてくださる場面です。14節〜17節。「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。『さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。』」神様はアブラハムに、「目を上げよ!」と命じられます。「目を上げて見なさい!」というのです。もちろん、神様の言葉に促されて、改めて自分が進むべき土地を見たところで、美しく豊かな土地に変わっているわけではありません。見た目は以前のまま、何も変わりないのです。依然として荒れ果てた地が広がっているのです。けれども、「さあ、目を上げなさい」と言われて、目を上げる時、聞こえてくる神様の言葉がありました。それは、見える限りの土地をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるという約束の言葉でした。そして、あなたの子孫は、大地の砂粒のように数え切れないほど豊かになり、救いが代々に及ぶという祝福の言葉でした。「さあ、目を上げて」という神様の言葉を聞いて、目を上げるならば、自分がこれから進むべき道が神の祝福で満ちたものであるということを見ることがゆるされるのです。誰もが見向きもせず、見捨てていった場所、誰もが評価しないような場所に立って、生きていかなければいけないというようなことがあったとしても、私どもはそこに留まって、生きることができるのです。なぜなら、神の祝福の御手がこのような場所においても、差し伸べられているのだということを信じることができるからです。だから、うなだれて顔を伏せざるを得ないような状況にあっても、自分の罪や弱さを知って不甲斐を嘆くことがあったとして、そこで聞こえてくる神様の言葉に耳を傾け、目を上げて立ち上がり、新しい一歩を踏み出して行くことができるのです。それはこの世的な目から見れば、決して華やかな生き方ではないかもしれません。しかし、私どもは御言葉をとおして、そこに確かな祝福を見て、そして、主を信じて歩んでいくのです。
神様は、人生の岐路に立ち、そこで深く悩みながら、うなだれるアブラハムに「さあ、目を上げて」と声を掛けました。本日の創世記第13章において、「目を上げる」というのは、とても大きな鍵になる言葉です。なぜなら、アブラハムだけではなく、ロトもまた目を上げて、そこで見えたものを選んだからです。10節で、「ロトが目を上げて眺めると」とありました。ロトもアブラハムも同じように目を上げるということをしています。しかし、両者はまったく別の道を歩むことになりました。初めに目を上げて、土地を眺めたのはロトでした。そして、選んだ道を進んで行くのですが、では、その選ぶ基準となったのは何でしょうか。ロトは何によって、これから生きるべき土地はどこであるのかを判断したのでしょうか。何によって、進むべき道を決断し、選び取ったのでしょうか。それは、自分の意志や自分の欲望によるということです。自分にとって、こっちに進むことが有利なのか不利なのかということです。そして、当然のように、有利なほう、好都合なほうを選択するのです。ロトもまた自分一人で旅をするわけではありません。多くの仲間や家畜がいるのですから、既に拓かれた町があり、生活の基盤がしっかりしたほうを選ぶのです。家畜のためにも牧草や水が豊かなほうを選ぶのです。ですから、とりわけ、ロトという人物が欲深い人間であったということではないと思います。私どもも岐路に立たされた時、色んなことを計算するのだと思います。自分のために、家族のために、また教会全体のために、どういう道を選ぶことが最善であるのかを真剣に考えると思います。そして、その場合の「最善の道」というのは自分たちにとって、どれだけ益があるか、どれだけ有利であるかということが、やはりどこかで大事になってくるのではないでしょうか。大きな出来事を目の前にした時、冷静になって、ちゃんと計算をし、これこそが自分たちにとって益となるということを計算し、その道を選び取るのだと思います。だから計算して、益になるほうを選ぶこと自体、別に問題はないのです。人によっては自分を鍛えるために敢えて厳しい道を選ぶ人もいるでしょうか。そのほうが自分にとっては益だと、その人は考えるからです。
けれども、本当の問題は自分の人生を計算するとか、有利なほうを選ぶとか、敢えて不利なほうを選ぶとか、そういうことではないと思います。では何が一番大事な基準になるのでしょうか。10節の後半にこのような言葉があります。「エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。」ロトは自分の意志によって目を見渡した時、かつてアブラハムと一緒にエジプトにいた時の思いが一気によみがえってきたというのです。ロトはエジプトでの豊かさや繁栄を知っているのです。そして、エジプトにいた時は、アブラハムと同じように礼拝する生活をおろそかにしていたのだと思います。そのような生き方をしていたロトが、同じく豊かであったヨルダン川流域の低地一帯を選ぶという決断をするのです。でもそこは、ソドムとゴモラに象徴されますように、神の御心に反し、罪と悪に満ちた町でした。
そして、アブラハムもまたエジプトでの豊かさや繁栄を経験しました。でも、神を礼拝し、祈る生活をおろそかにしていたのです。その結果どうなかったと申しますと、妻サラを裏切り、神の前に罪をおかしてしまったのです。そして、アブラハムはエジプトを追い出されるのですが、もう一度神様の前に立ち帰り、悔い改めるのです。もう一度、神様の約束の言葉に信頼するという生き方を生活の中心に据え、神様の御心を求めて生きる生活を始めていくのです。人生の岐路に立った時、計算して有利か不利かという基準ではなくて、神様の御心を求めて生きるかどうかということが求められているのです。そして、御心を知るためには、神様の言葉に耳を傾けなければいけません。礼拝をささげることをとおして、神様の御心を私の心として生きていくならば、それぞれの歩み、また教会全体の歩みが整えられていくのです。たとえ、荒れ野のような道を歩まなければいけないということがあったとしても、そこに溢れ出る泉のように、神が与えてくださる霊の糧によっていのちがみなぎる歩みが、そこに与えられるのです。
ところで、先週の礼拝では、主イエスが荒れ野で悪魔の誘惑に遭った場面を共に聞きました。最後に悪魔は、主イエスを高い山に連れて行き、この世の繁栄ぶりを見せ、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と誘惑したのです。しかし、主イエスは「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そのようにおっしゃって、悪魔の誘惑を退けられ、勝利されました。アブラハムもまた同じような場面に立たされました。私どもも同じような場面に立たされることがあります。そこで何をなすべきなのか。何を選び、どのような決断をすべきなのか。それは、主イエスがなさったように、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」ということです。礼拝をささげ、御心を尋ね求め、御心に従って生きるということです。 そして、主イエスが残してくださった御跡に、私どもの足を踏み重ねるようにして歩んで行くということです。主イエスが歩んだ道というのは、決して、華やかな道ではありませんでした。天の高みから、低く貧しい所に降る歩みです。何よりも、十字架への道を歩んでくださいました。ですから、私どもが主イエスの御跡に続くということもまた、主イエスと同じような苦難の道を歩むということでもあります。しかし、その道がなぜ救いであり、なぜ喜びであるのか。それは十字架への道が、同時に復活へと至る栄光の道でもあるからです。神は十字架で死なれた主イエスを甦らせてくださいました。そして、主イエスは天に昇られ、今、父なる神の右に座しておられます。まことの王、まことの勝利者として、今も私どもを愛の御手をもって支配してくださるのです。
神様が「さあ、目を上げて」とおっしゃる時、私どもは救い主イエス・キリストをとおして、自分を見、自分たちが生きる現実を見ることがゆるされています。自分たちが置かれている現実、これから進もうとしていく道は、たいへん厳しいものであるかもしれません。でも、そこで神様がアブラハムに祝福の約束を与えてくださったように、今、私どもはイエス・キリストをとおして与えられる救いの祝福をもう一度覚えることができます。礼拝をささげることをとおして、また、御言葉をとおして、私が置かれているこのような大変な現実の中にも、神様の祝福の御手が伸びている。その恵みを心に留め、再び歩み出すのです。
また、神様はアブラハムこのようにもおっしゃいました。「さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」土地を縦横に歩くというは、これだけの土地が与えられたということを確認する法的な行為であったと言われます。アブラハムは神様から与えられた祝福を自分の足で一歩一歩確かめるようにして、土地を縦横に歩き回ったのではないでしょうか。主イエスをとおして与えられている祝福は漠然としたものではなく、自分の足で一歩一歩確かめることができるほどに真実なものなのです。小さな一歩であるかもしれません。しかし、どれだけ確かな祝福に満たされた一歩であるかと思います。
最後の18節において、次のような言葉でこの物語が締めくくられています。「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。」神の約束の言葉を信じて、再び歩み出したアブラハムが辿り着いたのは、「マレムの樫の木」でした。ここでもアブラハムは祭壇を築き、神を礼拝します。礼拝から始まり、礼拝で終わる旅路をアブラハムは生涯にわたって続けていくのです。アブラハムの信仰の旅路は、このあと創世記を読み進めていくとよく分かりますように、実に波乱に満ちたものです。再び神の約束を信じることができなくなったり、再び自分の知恵を頼って生きようとしてしまったり、その結果、家族との関係が険悪になることもあります。また、ついに与えられた息子イサクを、神に献げるようにという試練を与えられることもありました。その度に、アブラハムは自分の愚かさを知ったことでしょう。何によって生きるのか、何を選びとって生きていくのか。そのことを神様から幾度も御言葉をとおして教えられたのです。神様が見ておられるその目線で生きることを、神様の御心に従って生きるということを、アブラハムは生涯をかけて学んだのです。そして最後に分かることは、神様の言葉に聞き、神様の御心を求めて生きた人の人生というのは、どんなに苦労の多い人生であったとしても祝福された人生であるということです。
私どももまた試練の中に立たされることがあります。いつ襲ってくるか分からない危機に怯えることがあるかもしれません。そこで神様の知恵に生きることを忘れ、大きな過ちをおかしてしまうこともあるでしょう。しかし、神様は私たちを見捨てたりはいたしません。神に立ち帰る者を神は必ず祝福してくださいます。「さあ、目を上げて」と声を掛けてくださり、神様が見ておられる祝福の光景を見せてくださいます。神様の目線ですべてのものごとを見ることができるように、神様がいつも私どもを御前に招いてくださいます。心を高く上げ、神様が備えてくださる道を共に歩みましょう。お祈りをいたします。
「目を上げなさい」と呼び掛けてくださるあなたの御声を聞くことができますように。あなたが御言葉をとおして見せてくださる祝福の世界に踏み出していく勇気を与えてください。また、主イエスが、あなたのもとに立ち帰る道を拓いてくださいました。どうかあなたのもとに立ち帰り、神に愛され赦されている自分であることをいつも確かめることができますように。主の懐で憩い、まことの安息を得ることができますように。そして、御心のままに歩むことができるように助け導いてください。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。