2021年10月03日「何によって生きるのか」

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何によって生きるのか

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 4章1節~11節

音声ファイル

聖書の言葉

1「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4イエスはお答えになった。 「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」マタイによる福音書 4章1節~11節

メッセージ

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」この言葉は主イエスがお語りになった言葉です。それも悪魔に向かって語られた言葉です。聖書の中でも有名な言葉の一つかもしれません。教会に行ったことのない方の間でも、比較的よく知られている聖書の言葉の一つでしょう。神様への信仰をまだ持っていなかったとしても、自分はパンだけで生きているわけではない。お腹を満たせば、人生のすべてが満たされるわけではない。自分の人生には、パンなんかよりももっと大切なものがある。たとえ、満足に食べていけなくても、苦しい生活を強いられても、それでも「生きることは素晴らしい」と言える尊いものが、必ずこの世界にあるに違いない。人はそう信じて生きていきたいのではないでしょうか。

 では、私どもを真実に生かしているものとは何でしょうか。私どもは何によって生きているのでしょうか。主イエスはおっしゃいます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」ある人は、「パンはなくとも人は生きられる」と大胆に訳しました。決して、パンや食べ物が必要ではないと言っているわけではありません。パンもまた神様から与えられる恵みであるからです。でもそのうえで、たとえパンがなくとも、私どものいのちを支えているものがあるではないか。それは神の口から出る一つ一つの言葉だと言うのです。しかし、私どもはこの主イエスの言葉を本当に信じることができるでしょうか。神の言葉が大事なのには違いないけれども、他にも必要なものはたくさんあるではないか。苦しくて困っている時、この助けが今必要だと真剣に願っている時、神の言葉を与えられたところで何の役に立つのか。そんなことよりも、私の求めにすぐに答えてくださる神こそ、まことの神ではないか。すぐにそう考えてしまうかもしれません。

 神の言葉によって生きること。神の言葉をとおして、神を愛し、神を信頼すること。そして、神を礼拝して生きること。これはキリスト者にとって、ある意味、当たり前と言えば、当たり前の姿であるかもしれません。けれども、私どもがいつも心に留めるべきことは、ここで主イエスが悪魔の誘惑と戦い、勝利してくださらなければ。そして、この戦いの先にある主の十字架がなければ、私どもは決して、神の言葉に生きるなどできないということです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ということ。これは決して簡単にできるような生き方ではありません。主イエスが御自身の存在をかけて戦われた、その戦いを抜きにして生きることができない道です。だからこそ、私どもは聖書で語られている主イエスのお姿を見つめ、お語りになる言葉に耳を傾けるのです。

 先程、マタイに福音書第4章の御言葉を聞きました。イエス・キリストがいよいよ「救い主」としてのお働きを始めようとなさった時、すぐにそこで向き合わなければいけなかったことがありました。より正確に申しますと、戦わなければいけなかったことがあったのです。それは悪魔から誘惑を受けるということです。「悪魔の誘惑」と聞きますと、どこか現実味がないなと思われるかもしれません。悪魔なんて、人が作った話に過ぎない。本や映画に出てくるだけだろうと思うのです。けれども、聖書は初めから悪魔の存在を否定することなく語ります。人類が罪に陥ったのも、悪魔がアダムとエバを唆したからと言っていいのです(創世記3章)。そして、悪魔は作り話の中に登場するだけの架空の存在ではなく、この世界に確かに存在し、存在するだけでなく、今も私どもを神から引き離そうとしていることです。そのようにして、私どもが真実の人間で在ることができないように陥れようとしているのです。悪魔は私どもを本来進むべき道から外らせ、間違った道に迷い込ませようとする存在なのです。

 主イエスはこの悪魔と最初に戦ってくださいました。そして、勝利を治めてくださったのです。主イエスは神であられるのだから、悪魔に勝って当然だと思ってしまいますが、主イエスはまことの神でありながら、同時にまことの人間として、この世界に生まれてくださいました。悪魔の誘惑を受けておられる主イエスは、まさに私どもと同じ「人間としてのイエス」であるということです。私どもを代表する存在として、今ここで悪魔と戦っていてくださいます。ヘブライ人への手紙への手紙第4章15〜16節に次のような御言葉があります。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」大祭司である主イエスは、私どもが地上の歩みに置いて経験するあらゆる弱さを知っていてくださいます。私どもが経験するあらゆる試練や誘惑の中に立ってくださるのです。そして、主は私どものように自分の弱さの中で絶望し、試練によって挫折してしまわれることはありません。罪を犯すことなく、勝利してくださったからこそ、その恵みにあずかる私どももまた、神の前に立つことができるのです。

 荒れ野の悪魔から誘惑をお受けになった主イエスは、その前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになっています。本日の箇所のすぐ前、第3章13節以下です。なぜ、罪人でもない主イエスが洗礼を受ける必要があるのかと思ってしまうのですが、主イエスはそこでこうおっしゃいました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ3:15)「正しいこと」とは、人間として正しいことということです。神の前に真っ直ぐ立つ人間、神の栄光をあらわして生きる人間こそ、正しい人間です。主イエスはまことの人として、洗礼を受け、罪人の仲間入りをしながら、しかし、そこで人間としてのあるべき正しい姿を貫き、父なる神の前に立ち続けてくださいました。洗礼をお受けになった時、天が開け、神の霊が降り、天から神の御声が聞こえてきました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」という声です。主イエスは御自分が神に愛されている子であることを確認し、救い主としての歩みをここから始められるのです。

 そのすぐ後に、悪魔からの誘惑をお受けになり、悪魔と戦うことになりました。「誘惑する」というのは、試みる、テストするということです。イエスが本当に神の子であり、救い主であるかをテストしようとしたのです。同時に、悪魔との戦いは、主イエスが救い主として、これからどのように歩まれるのか。その道を決定付ける戦いとなりました。また、主がどのような仕方で私どもに救いをもたらしてくださるのか。主が与えてくださる救いとはそもそも何であるのか。これらのことを、私どもに既にここで示していてくださっていると言うことができるのです。主イエスは三つの誘惑をお受けになります。主は最初に悪魔からこのような誘惑をお受けになります。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』」

 四十日間、断食し、空腹の中にある主イエスにとって、今一番欲しているのは、パンであると言っても過言ではありません。そこを悪魔は突いてくるのです。お前は、神から愛されている神の子だ。神の子としての力が本当にあるかどうかを、今こそ発揮してみたらどうか。今、空腹なのだから、石をパンに変えてみたらいいではないか。それができたら、自分がまさに神の子であり、救い主であるという自覚をより確かに持つことができるだろう。そして、石をパンに変えるという奇跡は、主イエス御自身の空腹を満たすことだけが目的ではありません。そのような、大きな奇跡を人々に見せることによって、イエスこそが救い主であるということを知らしめることができるではないかと誘惑するのです。飢えに苦しんでいる人々の前で、石をパンに変えれば、人々は喜ぶし、お前を神とあがめるはずだ。これこそ、お前が望んでいることだろうと言うのです。要するに、人々の願いや必要を聞いて、それにすぐに答えてあげることこそ、救い主として受け入れてもらえる一番の近道ではないかというのです。

 そして、人間の必要や求めというのは、パンの問題だけではないでしょう。パンも生きるうえで大事ですけれども、他にも地上を生きるうえで大切にしていることや喜び楽しみにしていることはたくさんあります。自分の健康や仕事、お金や財産、家族や友人、名誉などそれぞれに「これがないと生きられない」と思うことがたくさんあるのではないでしょうか。そして、私どもの歩みにおいて、その大切にし、喜びとしていたものに何か問題が起こるということがあります。「健康が大切だ」と言う人が病気になったり、「仕事やお金が大切だ」と言っていた人がそれを失ったり、「家族が大切だ」と言っていた人が、その家族を失ったり、関係が悪くなったりということがあるわけです。そうしますと、その失った大切なものをすぐにでも取り戻したいと願うのは、当然のことであると思います。そして、まさに神様というお方はそのために存在すると信じたいのです。しかし、その時に、私どもも主イエスを誘惑した悪魔のように、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と、つぶやいてしまう過ちをおかしてしまうことがあるのではないでしょうか。

 では、主イエスはどのようにして、悪魔の誘惑と戦われたのでしょうか。4節で、主は次のようにお答えになります。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」この御言葉は主イエスが初めて口にした言葉ではなく、申命記第8章3節に記されている御言葉です。エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民は、神が示してくださる約束の地に着くまで、40年もの荒れ野の旅を続けなければいけませんでした。荒れ野ですから、十分な食物や水がいつもあるわけではありません。苦しい生活に耐えられなくなった人々は、神に向かって不平をつぶやくようになります。「私たちの死なせるためにエジプトから連れ出したのですか」「こんな苦しい生活を送るくらいなら、エジプトにいたほうがマシだった」とさえ言うのです。しかし、神は荒れ野を旅する民を養うために、「マナ」という不思議な食べ物を、毎日、分け与えてくださいました。「わたしがあなたがたを救い出した恵みを忘れ、不平ばかり漏らすような者など飢え死んでしまえばいい」などとはおっしゃいませんでした。人々の願いが、神を悲しませてしまうようなものであったとしても、神は人々の声を聞き、必要を与えてくださったのです。そのうえで、主なる神様はおっしゃいました。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」

 主イエスは私どもに、「パンをください」などという願いを神にささげるな、などとおっしゃっている訳ではないのです。神に造られ、いのちを与えられた人間としてもっと相応しい、もっと高級な願いをささげなさいというのでもないのです。パンを求めることは、人間として生きていくうえで必要なことです。だから、主イエスは「主の祈り」の中でも、「わたしたちに必要な糧を今日お与えください」(マタイ6:11)、そう祈るように教えてくださいました。パンや日用の糧というのは、必ずしも食べ物だけを意味しません。先に申しましたように、生きていく上で必要なあらゆるものを意味します。着る物、住む家、仕事、お金、家族、友人など、生きていくうえで大切にしている色んなものです。そして、神様は私どもが必要としているそれらのものを満たしてくださるお方でもあるのです。

 主イエスが引用なさった申命記の御言葉は、神様が人々にマナを与える中でおっしゃった言葉です。同じように今日パンを与えてくださる神様が、私どもを本当に生かすために御言葉を与えてくださいます。パンを食べて生きる生活、また多くのものに支えられている私どもの生活も、神様の言葉があって初めて成り立つものです。私どもはパンだけでは生きられないのです。神様を無視して生きることができないのです。神様の言葉、神様の言葉の中に示されている御心こそが、私ども人間を真実に生かすのです。その神の言葉に従って生きる道こそが、私どもの唯一の道です。語られた御言葉に応えて生きることによって、神様との交わりに生き、神様を信頼して、信仰の旅路を続けていくのです。

 そのために、主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言って、悪魔の誘惑に打ち勝ってくださいました。このキリストの勝利にあずかっているがゆえに、私どもは御言葉に生きることができます。それは、周りから見れば、たいへん地味な歩みであるかもしれません。手軽な道、手っ取り早い道ではないのです。地味で、時に気が遠くなるような歩みに思えるかもしれません。しかし、そこで必要を満たしてくださる神に感謝しつつ、神が語りかけてくださる言葉によって生きるのです。そして、信仰の旅路を歩む私どもは、主イエスがそうされたように、御言葉をもってこの世に起こる様々な問題と向き合い、戦うことができます。特別な人だけが手にすることができる武器がなければ、戦えないというのではないのです。キリスト者であるならば、誰もが知っている神の言葉。誰もが現に生きている神の言葉を用いることができます。いや、用いなければいけないのです。自分は何もできない。戦うことができないといのではなく、あなたがたもまた神の言葉によって戦うことができ、勝利することができると、主は励ましてくださるのです。

 この後、第二の誘惑、第三の誘惑が5節以降に記されています。主イエスはいずれも御言葉をもって戦い、勝利してくださいました。7節の「あなたの神である主を試してはならない。」10節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」という言葉もいずれも、申命記に記されている言葉です(申命記6:16,6:13)。また、興味深いのは、悪魔もまた聖書の言葉を引用し、主イエスを誘惑しているということです。御言葉を悪用し、自分の都合のいいように解釈している訳ですが、6節でこのように言っています。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、 あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える』 と書いてある。」悪魔は、主イエスをエルサレムの神殿の屋根の上に連れて行きます。ユダヤの人たちは終わりの日、来るべき救い主が神殿に現れると信じていました。だから悪魔は、「お前が神の子であるなら、救い主であるなら、人々がたくさん集まる神殿において、誰の目からも見える神殿の屋根において、その力を見せたらどうだ。お前が大切だと言っていた聖書にも、神があなたを守り、御手によって支えてくださると書いてあるではないか。神が神である証拠を見せつけたらいい。そうしたら、皆、お前を救い主と信じるではないか。」そのように誘惑してくるのです。悪魔が引用した言葉は詩編91編11〜12節の言葉です。悪魔は要するに、イエスに対して「証拠」を見せろと言い張るのです。神の言葉を信じて生きるということが、どれほど素晴らしく恵みに満ちたことであるのか。その証拠を人々の前で示したら、誰もが神を信じ、神の言葉に生きるに違いないというのです。

 しかし、主イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」という御言葉をもって戦われたのです。申命記第6章16節の御言葉です。この申命記の背景にも、出エジプトの後の荒れ野の旅があります。詳しいことが出エジプト記第17章にも記されています。40年の荒れ野の旅というのは、神様からイスラエルの民の信仰が試される旅でもありました。しかし、実際は神の言葉にしっかり信頼して歩むことができなかったのです。そして、彼らもまた、主イエスを誘惑した悪魔のように、「神であるなら、その証拠を見せろ」と言ったのです。信仰の旅路の中で、苦しみを経験する時、私どもまた神様がいるかどうか、疑わしくなることがあるかもしれません。神様が本当に共にいてくださり、最後まで私の歩みを支え導いてくださるかを、どうしても確かめたくなるのです。「信じることが大事」「神の一つ一つの言葉によって生きること大事」と言われも、何の証拠もなしに信じるのは不可能ではないか。どうしても目に見える証拠やしるしがほしいと思ってしまうものです。

 しかし、主イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」と言って、退けられました。「証拠を見せろ」ということは神を試していること、神を信頼していないことだとおっしゃるのです。証拠を見せてほしいというのは、要するに自分の願いをかなえてみたらどうだと、神様に言っていることと同じのなのです。自分の思いどおりに神が動いてくれなければ、神など信じないというのです。だから、まさにこれは神にしか成し得ない奇跡だと思えるようなものを、目にしたとしても、自分の願いから外れたものであったならば、何も驚かないし、神を信じようともしないのです。そのように、「証拠を見せろ」と言って、神を品定めしているのです。神を試し、神を試験して、自分の願いをかなえてくれるならば、合格とみなし、神を信じてあげようと言うのです。そうやって、この神は自分にとって利用価値があるかどうかをいつも測っているのです。そして、このことは自分が苦しい時にだけ当てはまることではないと思います。自分が幸せだと思っている時も、大きな悩みもなく自由に伸び伸びと生きることができていると思っている時も、「ああ、自分は役に立つ神、幸福をもたらす神を信じてよかった」と言って、気付かないところで、神様の価値を自分で測ってしまっていることがあるのです。でも、それは神を信頼しているとは言えない。神を試しているだけではないか、主はおっしゃるのです。

 人間同士の関係においても同じように言えることです。例えば、あの人の私に対する友情は本物だろうか。妻の私に対する愛情は本物だろうか。そのように疑い始めて、本当に私のことを友と思っているならば、その証拠を見せろ。本当に夫である私を愛しているなら、その証拠を見せろ。そのように言い出したならば、お互いの関係というものはすぐに崩れてしまいます。そもそも、証拠がないと、その人を信じることができない、その人を愛することができないというならば、その愛は本物の愛とは言えないのではないでしょうか。神様を信じ、神様を愛することにおいても同じです。今、自分が苦しい状況にあろうが、反対に幸せな状況にあろうが、神様を試そうとして生きるならば、そこに神様に対する真実な愛はありません。神様を試み、自分が納得したものをたとえ手にすることができたとしても、神様への信仰も生まれないのです。だから、神を試してはいけないのです。神の言葉に信頼し、神様のすべてをお委ねして生きていくのです。

 さて、最後に悪魔はこのように、主イエスを誘惑しました。8〜9節です。「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。」最後の誘惑であり、悪魔の誘惑の頂点と言えるものです。先程のように、聖書の言葉を引用して誘惑するようなことはいたしません。悪魔自身の言葉、悪魔の本音と言ってもいいような言葉がここにあります。主イエスを高い山に連れて行き、この世の繁栄、栄光を見せたということですが、目的はそこにあるのではありません。悪魔の目的は、「わたしを礼拝しろ!」というこの一点です。この世の栄光と引き換えに、わたしを拝むようにと誘惑してきたのです。

 悪魔は、主イエスにこの世の栄光を見せたように、私どもに対しても栄光や繁栄をもって誘惑してきます。この世の豊かさ、華やかさ、美しさといったものはいつも人々の心を魅了してきました。人は自分の栄光を手に入れるために、色んなものを犠牲にします。また、栄光を手に入れるためには何でもするという人もいることでしょう。キリストを信じて生きるということもまた、自分の栄光のためにどれだけ役に立つかという基準で測ろうとしてしまうのです。先程の神を試すこととも重なる人間の思いです。また、自分は一所懸命生きてきたけれども、一所懸命人を愛して生きてきたけれども、この世的には少しも報われなかったということに気付いた時、人は自分の人生に満足するというよりも、どこか取り残された貧しさや寂しさを捨て切れることができないということがあるのかもしれません。

 人として生まれてくださった主イエスは、私ども人間が知る素朴な弱さを知っていてくださいます。けれども、同時にそこに見えてくる悪魔の誘惑の脅威を、私どもよりももっと敏感に感じ取ってくださるのです。主イエスはここでもこれまでと同じように、御言葉をもって戦われます。10節です。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』と書いてある。」これは申命記第6章13節の御言葉であり、十戒の第一戒の戒めの言葉でもあります。最後の誘惑において、この世の栄光と神の栄光がぶつかり合っているように思えます。キリスト者にとっては、神の栄光をあらわして生きることが何よりも大事なのであり、この世の栄光を求めても意味がないと言って、簡単に線を引いてしまうかもしれません。しかし、私どもの歩みはそんな簡単なものではないでしょう。何をもってこの世的な栄光と言うのか、人によって考え方が違うところもあるかもしれません。けれども、キリスト者の歩みというのは苦しい試練の中だけでなく、まさにこの世の栄光や幸せの中に立った時に、突如として崩れ出すことがあるのです。栄光の中でも誘惑に遭い、神の前に過ちをおかしてしまうことがあるということです。だから、貧しくとも苦しくとも、幸せだと思っていても、悪魔を拝むようなことがあってはいけない。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」主は御言葉をもって戦ってくださり、私どもの救ために悪魔に勝利してくださいました。

 主イエスが荒れ野で受けた悪魔の誘惑は、主イエスが私どもにどのような救いを与えてくださるのか。どのような仕方で救いを与えてくださるのか。それらを示すうえで決定的な意味を持つ出来事となりました。例えば、ここでもし石をパンに変えるようなことがあったならば、主は十字架の道を歩むことがなかったでありましょう。もし悪魔や人々が望むような、救い主であったならば、主は十字架につけられるということはなかったはずです。十字架には、石をパンに変えるような華やかさや栄光というものを一切見ることができないからです。けれども、主イエスは、神の口からでる一つ一つの言葉に生き、神を試みることなく、神を信頼して歩む道を選び取ってくださいました。悪魔に勝利し、ここに十字架への道が開かれたのです。

 主の十字架によって、罪から救っていただいた私どもの歩みもまた、誘惑に満ちたものです。そして、自分はいつも悪魔の誘惑に勝利することができていると。自信を持って言うことができる人は誰もいないでありましょう。そして、悪魔に誘惑されるどころか、私ども自身が悪魔のような存在になってしまうことがあるのだ、と聖書は語ります。最後に主は悪魔に向かって、「退け、サタン」と叫ばれました。これは同じマタイに福音書第16章23節で、弟子のペトロに対しておっしゃられた言葉と実はそっくりなのです。弟子たちに初めて、御自分が十字架で死ぬことになるということを明らかになさった時、ペトロは救い主であるお方がそのような苦しみを受けることは耐えられないと言ったのです。その時、主は「サタン、引き下がれ」とおっしゃいました。十字架に向かう道を邪魔し、神のことを思わず、人間のことを思っているからです。

 けれども、悪魔とペトロが決定的に違うのは、主イエスがペトロに対して、「退け」と言ったのではなく、「引き下がれ」とおっしゃったことです。日本語ではどちらも似たような言葉ですが、ペトロに言った「引き下がれ」というのは、「後ろに回れ」という意味の言葉です。わたしの前に出て、「自分が自分が」という思いを捨てなさい。わたしの後ろに回って、わたしに従いなさいとおっしゃったのです。キリストのものとされたにも関わらず、幾度私どもは神を試みてきたことでしょうか。苦難の日々においても、幸いだと感謝する日々においても、どこかで自分を基準にしながら、神を試みる過ちをおかしてしまいます。「サタン」呼ばわりされてしまうほどに、神を悲しませ、怒られてしまっていることでしょうか。

 しかし、私どもの救い主でいてくださる主イエスは、私どもを品定めするようなお方ではありません。「お前はサタンだ」と厳しく叱責しながら、それでもわたしの後ろに回って、わたしに従いなさいと招いてくださるお方です。そして、私どもの中にある罪と今も戦い続けてくださいます。あなたの神は、あなたが思い描いているような神ではないのだ。あなたの神は、あなたが考えるよりも、もっと豊かな恵みを与えてくださる神なのだ。あなたが考えるよりももっと、あなたのためにすべてを献げ、仕えてくださる神なのだ。主はそのように、愛に満ちた神を紹介し続けてくださいます。

 「礼拝」もまた、英語で“service”(サービス)と呼ばれることがあります。サービスしてくださるのは神様ですが、私どもはここでホテルに来た客のように、「あれもしてほしい」「これもしてほしい」と神様にサービスを求めて、いい気分に浸るためにここに来ている訳ではないでしょう。毎日、口にしているパンに代表されるように、生きていくためには多くのものがどうしても必要です。しかし、そこで過ちをおかすことがないように、私どもが悪魔の虜とならないように、神が御子イエス・キリストを与えてくださいました。毎日の思い煩いが霞んで見えなくなるほどに、神の愛のしるしがここにあるということを、私どもは礼拝の中で鮮やかに見ることができます。今から共にあずかる聖餐もまた、主イエスが私ども共におられることの確かなしるしです。もう神を試す必要もないほどに、神がイエス・キリストをとおして、私どもへの愛を示し、いのちの道を拓いてくださいました。今朝も、復活の主イエスが用意してくださったパンをいただきながら、その中に込められた救いの恵みを共に味わいましょう。お祈りをいたします。

 神を試みようとする誘惑から解き放ってください。試みる必要がないほどに、私が神のものとされていることを信じることができますように。そのために、御言葉を与えてくださり、いつも神に感謝をささげることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。