2021年09月19日「生涯の日を正しく数える」
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生涯の日を正しく数える
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詩編 90編1節~17節
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聖書の言葉
1【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。2山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。3あなたは人を塵に返し/「人の子よ、帰れ」と仰せになります。4千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。5あなたは眠りの中に人を漂わせ/朝が来れば、人は草のように移ろいます。6朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。7あなたの怒りにわたしたちは絶え入り/あなたの憤りに恐れます。8あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。9わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。10人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。11御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて/あなたの憤りをも知ることでしょう。12生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。13主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。14朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。15あなたがわたしたちを苦しめられた日々と/苦難に遭わされた年月を思って/わたしたちに喜びを返してください。16あなたの僕らが御業を仰ぎ/子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。17わたしたちの神、主の喜びが/わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを/わたしたちのために確かなものとし/わたしたちの手の働きを/どうか確かなものにしてください。詩編 90編1節~17節
メッセージ
ずいぶん前のことになりますが、ある牧師が書かれた「いのちのオリエンテーション」というショートメッセージがキリスト新聞に掲載されていました。イースターのメッセージです。「オリエンテーション」という言葉は、例えば、学校に入学した時や会社に入社した時、最初に「オリエンテーション」という時間が設けられることがあります。オリエンテーションという言葉は元々、方向を表す言葉です。学校や会社に入ったら、皆がちゃんと足並みを揃えて、同じ方向に向かって歩むことができるように、最初に道が示されるのです。オリエンテーションというのは、日本でも比較的馴染みのある言葉ですが、さらに遡ると、これは教会で用いられていた言葉なのです。神学や教理の言葉ではなく、教会建築の用語です。オリエントとかオリエンスと言われることもありますけれども、これは「東」の方角を意味する言葉です。だから、ヨーロッパの教会に行きますと、多くの教会が東向きに教会堂が建てられているのです。入り口、玄関が西で、私が今立っている説教壇・礼拝堂の正面が東側になります。教会によっては礼拝堂正面にガラス窓があり、朝には太陽の光が射し込んでくるのです。もちろん東の方角に向けて教会堂を建てないといけないという決まりはありません。しかし、それでも昔の教会の人たちは東向きに教会堂を建てようとしました。先程申しましたように、朝の光が真っ先に射し込んでくる方角が東であるからです。そして、主の日、日曜日に差し込んでくる朝の光は、ただ単に太陽の光というのではなくて、朝日とともに墓の中から復活してくださった主イエス・キリストを指し示すのです。だから、私どももまた、復活を記念する主の日に教会の礼拝堂に集って、光に向かって立つのです。まことのいのちに向かって立つのです。そして、復活の主イエスと共に、死に打ち勝ったいのちの中を歩んでいくのです。私どもの人生において、一番大事なオリエンテーション。それは復活の主イエスを信じ、礼拝して生きていくということです。
本日、共に聞きましたのは旧約聖書の詩編第90編の御言葉です。聖書の言葉の中には、この時にはこの御言葉が読まれるというふうな、代表的な言葉がいくつもあります。この詩編第90編はどういう時に読まれるのかと申しますと、教会で葬儀をする時によく読まれる御言葉の一つであるということです。信仰生活が長い方は、普段の礼拝生活の中でというよりも、教会の葬儀の中でこの御言葉を多く聞いてきたという方もいるのではないでしょうか。3節に「あなたは人を塵に返し/『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」とありました。創世記を見ますと、人間は塵から造られたということが記されます。だから、死んだら元に戻る。塵に帰るのです。ヨーロッパなどでは火葬ではなく、土葬ですから、まさにこの御言葉のとおり、死んだら塵に、土に帰っていくのです。また、私が先程詩編の御言葉を朗読した時に、皆様はどのように感じられたかは分かりませんが、心のどこかで暗い詩編だなあと思われた方もおられたかと思います。だからこそ、葬儀にぴったりの御言葉ではないかと逆に納得する人もいるかもしれません。あるいは、人生は儚いだとか、空しいだとかそんなことばかり呟いているように聞こえるという人もいるでしょう。確かにそういう一面が人生にはあるし、死んだら何もかもお終いだという事実も当たっているかもしれない。そう思われる方もいることでしょう。しかしながら、この詩編第90編は本当に暗い歌なのでしょうか。せいぜい葬儀の時にしか読まれないような御言葉なのでしょうか。しかも、葬儀の時にこの詩編の御言葉を聞きながら、遺族も参列者も牧師も一緒になって暗い心に浸るのでしょうか。もちろんそんなはずはないと思います。死という厳粛な出来事を経験した私どもは畏れを抱いて、また深い悲しみを抱きながら神様の前に立つのですけれども、私どもはそこで暗闇の方角に向かって立っているわけではないのです。死の悲しみの中で、まことの光が射すほうへ、まことのいのちに向かって共に立っているのです。
この詩編に記されている言葉をもって神に祈り、神に賛美をささげている詩人は、自らの人生を見つめ、自らのいのちを見つめています。それはこの御言葉を聞く者たちが戸惑いを覚えてしまうような、どこか暗いものがあるのも事実でしょう。4〜6節をもう一度お読みします。「千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ/朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。」私たちがたとえ千年生きることができたとしても、神様にとっては一日の夜の一時に過ぎない。それほど私どもの人生は短いということです。また、私ども人間のことを花に譬えていますけれども、決して、私ども人間は花のように美しい存在だと言ってたたえているのではありません。朝咲いて、夕べにはしおれ、枯れていく花のように、私どものいのちもまた儚いのだ、空しいのだというのです。また、9〜10節には次のような御言葉もありました。「人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」人生はため息のようだとか、70年・80年生きることができたとしても、いったい自分の人生何だと言うのか。得たものなど何もないではないか。結局は労苦と災いに過ぎない。本当に私の人生は「あっという間だった」とため息をついてしまうのです。この詩編のどこに信仰者としての明るさ、喜びがあるのだろうか?とつい疑ってしまうほどです。
しかし、詩編の言葉を聞きながら、どこかでこの詩人が語ることに共感するという人も多いのだと思います。人生には色んな節目があって、その度に自分の過去を振り返る時、色んな思いが沸き上がってくることがあります。節目ということに限らず、毎日のように過去のこと、今のこと、将来のことを考えながら、どうしてもそこで希望を見出すことができない。やり残したこともたくさんあるし、これから自分がやらなければいけない大切なこともまだ残っている。でも何も出来ていない。正直やる気力も体力もない。それで、ため息しか出てこないということがあるかもしれません。私の人生それなりに楽しいこともあったし、色んなことを経験することもできた。でも、気が付いたら70歳になっていた。あっという間に80歳になっていたということもあると思うのです。目の前のことでいっぱいいっぱいの日々を送ってきた人も、好きなことに熱中するような日々を送ってきた人も、ふとある瞬間立ち止まるという経験をすることがあるでしょう。そしてこれまでのこと、これからのことを考える時、どこか儚さや空しさを覚えてしまうことがあるのではないでしょうか。特に、「死」という現実について真剣に考える時、恐れと不安に捕らわれてしまうということがあります。若い時から、人はいつか死ぬということ、自分もいつか死ぬということが分かっていた。分かっていたけれども、死というのはもっと先のことだろう。今の自分にもあまり関係がないと、どこかで言い聞かせていた部分があったのではないでしょうか。しかし、年齢ととともに、もうそんな呑気なことを言っていられなくなる時が来ます。あっという間に年を重ねて、今になって改めて将来のこと、老後のことを考えるのですけれども、その将来から聞こえてくる足音というのは死の足音なのです。その足音が小さくなったり、まして、完全に消えてしまうことなどありません。むしろ確実に死の足音は大きく力強く自分の目の前に迫って来るのです。恐ろしいことです。そこでどうしたらいいのでしょうか。為す術があるのでしょうか。
ところで、明日は「敬老の日」ということで、70歳以上の教会員の方には執事会からカードをお送りしています。そういうこともあって、本日はこの詩編の御言葉を聞きたいと思いました。けれども、この詩編は必ずしもご高齢の方だけが聞く御言葉ではありませんし、葬儀の時にだけ聞く御言葉ではありません。若い人もどんな世代の人も、心身ともに健やかな時もそうでない時も、いつも耳を傾けて真剣に聞くべき御言葉がここにあると私は思っています。
ですから、詩編を記した詩人は、人間のいのちの儚さや空しさを見つめるのですけれども、それは何かやり残したことがたくさんあるとか、もう自分は高齢者であるとか、死んでしまえば人生は空しいとか、そういった話をここで本当はしたいわけではないのです。詩人がいつも見つめているもの。それは神様のことです。神様との関わり、神様との関係の中で自分を見つめて生きているということです。その時に、自分の中に見えてくるものがあるというのです。そして、神様もそれを真っ直ぐ見つめておられるというのです。それは、神様の前にある自分の「罪」の問題です。7〜9節にこうありました。「あなたの怒りにわたしたちは絶え入り/あなたの憤りに恐れます。あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。」「罪」というのは、色んな説明の仕方があるかもしれませんが、本日の説教との結び付きで申しますと、それは私どもが向くべき方向を向いて立っていないということです。神様のほうを向いて生きていないということです。神様のほうを向かずに、自分のほうを向いて生きているということです。神様のために生きるのではなく、自分のために、自分を中心に生きているのです。それは、「神などおられない」と言って絶望して生きていることと同じことです。正しいお方である神が、私どもの罪に対して怒りを覚えておられます。神様は御自分の正しさを貫くために私どもの罪を裁かれます。そうしますと、私どもはひとたまりもないのです。いくら誤魔化しても、隠そうとしても、神の正しさと怒りを前にして、私どもは一瞬にして消え去ってしまいます。だから、振り返ってみたら自分の人生あっという間だったとか、自分の思いどおりの人生を生きることができなかったとか、そんなことは、神様の前では大きな問題ではなくなってきます。大事なことは、いつも神様との正しい関係、健やかな関係の中に生きることができたかということです。
そして、詩人はその自信をしっかり持つことができなかったのでしょう。神様によって、自分の罪が裁かれ、一瞬のうちに消え去ってしまう他ない自分の運命に気付いた時、どうしても神に祈らざる得なくなりました。だから、12節にあるように詩人はこう祈ります。「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」「生涯の日」というのは、「いのちある日々」とか「残りの日々」と訳されることもあります。宗教改革者マルティン・ルターは、「私たちが死ななければならないということをよく考えることを教えてください。」そう訳しました。死ななければいけないということを考える。それは、人間というのはいつか死ぬものだというふうにただボッーとして考えるのではなくて、よく考えるのです。熟慮するのです。そのように、「生涯の日」というのは、色んな訳し方が可能ですが、大事なことは「正しく数える」ということです。生涯の日を、ちゃんと正しく数えながら生きていかなければいけません。決して、間違った数え方をしてはいけないのです。間違った数え方というのは、自分の人生を見つめた時に、「儚い」とか「空しい」と言って、つぶやくことです。生涯の日を正しく数えるというのは、神の怒りを前にした時に、一瞬にして自分は消え去ってしまうような小さな存在であることを心に留めながら、しかしなおそこで、いのちの源である神に心を向けて生きることです。
そのような生き方をするために、私どもは神に祈らなければいけません。なぜ祈らなければいけないのでしょうか。それは自分の力では、正しい生き方をすることができないからです。だから、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」と祈るのです。いや、この詩編第90編そのものが祈りの言葉なのです。私どもが生涯の日を正しく数えるためには「知恵」が必要です。洗礼を受けてキリスト者になるというのは、賢くなるということです。それも自分で生きる術を見出すことができるようになるというのではなくて、神様が私どもに知恵を与えてくださるからこそ、賢く生きることができます。そして、聖書が語る最たる知恵というのは、詩編の他の箇所にも次の箴言にも記されていることですが、「主を畏れることは知恵の初め」(詩編11:10,箴言1:7)ということです。生涯の日を正しく数えるための知恵というのも、神を畏れることととても深く結びついています。
「畏れる」というのは、神様に対して恐怖を抱くということではありません。畏敬の思いを抱くということ、神を神として礼拝する心を持つということです。畏れつつ、神を喜んで礼拝するということです。神を信頼して祈るということです。ですから、詩人は詩編の最初から既にこう祈り始めていました。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。」詩人は嘆いているのでも儚いと言って絶望しているのでもないのです。詩人は神を心から信頼して祈るのです。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。」この1節の「宿るところ」という言葉は、文字どおり「宿」というふうに理解することもできますが、決して、ホテルのような仮の宿のことではないのです。いつもここを自分の住まいとしなければ、生きていけないような確かな場所であるということです。だから、聖書の色んな翻訳に目を通しますと、訳し方が様々です。避難所、逃げ場所、隠れ家、居場所、支え、護りというふうに、色んな言葉に訳されます。なかでも「避難所」とか「隠れ家」とあるように、何かあったと時に逃げ込むことができる場所でもあるということです。キリスト者になるということは、どんな試練にもまったく負けることなく、挫けることもない強い人間になることではありません。自らの罪と死を思い、そこで同時に神様の怒りを覚える時に、「私は何も恐くない」と言って意地を張って生きることでもないのです。
キリスト者になるということは、自分の避難所がどこであるかを知っているということです。「神様こそが私の避難所、逃げ場所」と信仰を告白して生きるということです。今日の大きな問題の一つは、多くの人が避難所、逃げ場所を失ってしまっているということなのかもしれません。家庭も、学校も、会社も、友人も、もはや自分の避難所ではなくなってしまった。どこにも安心して居ることができる場所、自分の居場所がなくなってしまった。そのように追い込まれて、苦しい思いをしている人は決して少なくないと思うのです。でも、キリスト者には安心して憩うことができる避難所、逃げ場所というものがあるのです。神様を信じているからと言って、すべてが順風満帆に行くわけではありません。人生の嵐が幾度も襲うということがあるのです。人生の根底を揺り動かす地震のような大きな出来事が起こることがあるのです。しかし、聖書は語ります。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ、避難所、逃げ場所です」。生涯の日を正しく数えることができないほどに心が沈んでしまう時も、罪に対する神様の怒りを前にして恐れおののく時にも、私どもには心から安心して居られる場所を、神様が備えてくださるのです。その神様の懐に逃げ込めばよいのです。神様は手を広げて私たちを招いておられるのです。「わたしこそ、あなたの逃れの場所だ。いつでもわたしのところに来なさいと語りかけてくださるのです。
また、詩人はこのようにも祈っています。再びトーンが大きく変わるのですが、13節以降でこう祈ります。「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたがわたしたちを苦しめられた日々と/苦難に遭わされた年月を思って/わたしたちに喜びを返してください。あなたの僕らが御業を仰ぎ/子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。」嘆くような祈りですが、同時に神様をしっかり見つめて祈ります。「主よ、帰って来てください。」神様、あなたが帰って来てくださらなければ、私は死の恐れに立ち向かうことなどできません。あなたが帰って来てくださらなければ、私は罪の問題を解決することができません。だから、神様、私のところに立ち帰ってください。ここで用いられている「帰る」という言葉は、たいへん豊かな意味を持った言葉です。「立ち帰る」「故郷に帰る」という意味もありますし、「悔い改める」「回心する」「方向転換する」という意味もあります。神様に向かって、「立ち帰ってください」という祈りは本当に大胆な祈りだと思います。立ち帰るのは、本来、私たち人間がすべきことです。旧約聖書に登場する預言者たちは繰り返し、イスラエルの民に向かって、罪を悔い改めて、神様のもとに立ち帰るように語りました。しかし、何度呼び掛けても、イスラエルの民は、神様に背を向けて立ち帰ろうとしませんでした。そこで、今度は、神様御自身が立ち帰ってくださるのです。あまり聞き慣れない表現かもしれませんが、神様御自身が回心してくださるのだというのです。それはどういうことになるのでしょうか。それは神様が人間の罪に対して向けていた怒りを、御自分に向けられるということです。そのようにして、神様は御自身の正しさを貫かれました。だから神様が帰って来てくださる時、それは私たちの罪に対する怒りではなく、赦しになるのです。憤りではなく、憐れみになるのです。この詩人はまだ知らなかったと思いますが、「主よ、帰って来てください」という祈りに、神様が決定的な仕方を応えてくださった出来事が起こりました。神様が私たちのところに立ち帰ってくださった一番大きな出来事こそ、イエス・キリストがこの世界に来てくださったということです。そして、主イエスは、十字架について死んでくださいました。私たち人間が、本来受けるべき神様からの裁きと滅びを、主イエスは、十字架の上で引き受けてくださったのです。
だから、イエス・キリストこそ、キリストの十字架にこそ、私どもにとってのまことの避難所、逃げ場所があります。そして、この十字架には、既に朝の光、甦りの光が射し込んでいます。主イエスは神様の裁きとしての死、罪の滅びの死を死んでくださいました。それだけではありません。主イエスは死と滅びに打ち勝ち、十字架で死んでから三日目の朝に復活してくださったのです。宗教改革者のマルティン・ルターという人もまた、キリストの十字架にこそ私たちの逃げ場所があることを発見しました。それが当時の教会を改革する力の源となったと言っても過言ではありません。ルターは63歳で亡くなりましたが、晩年の51歳の時に、ドイツ・ヴィッテンベルクの大学で詩編第90編を7回にわたり講義しています。ルターがいかに詩編第90編を愛していたかがよく分かります。その中で、ルターは中世の教会から歌われてきた賛美歌を紹介しているのです。こういう歌です。「生のさなかにあって、われわれは死の中にある。」どんな祝福に満ちた人生を送っても、死の壁が私どもを四方から取り囲んでいると歌っているのです。しかし、ルターはその賛美歌の歌詞をこのように書き換えました。「死のさなかにあって、われわれは生の中にある。」明日、死んでしまうかもしれないような小さないのちであっても、私たちはキリストのいのちに確固として囲まれて生きているではないか!キリストの福音に生かされるということは、まさに、このように歌いつつ歩むことではないか!ルターはそのように福音の言葉で新しく歌い直すのです。
キリストのいのちに取り囲まれて生きるとき、私たちの生き方も変えられていくのです。14節、15節に次のような言葉がありました。「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ 生涯、喜び祝わせてください。あなたがわたしたちを苦しめられた日々と 苦難に遭わされた年月を思って わたしたちに喜びを返してください。」「朝」という時は、夜と同じくらいに色んな思いで満たされる時なのだと思います。4節、5節にも「朝が来れば」とありました。しかし、そこで詩人は、何を見つめていたのでしょうか。それは自分のいのちの儚さでありました。夜眠りにつくことができても、次の朝、目を覚ますことができる保証はどこにもないのです。朝咲いている花が、夕べには枯れるように、私のいのちもすぐに枯れていくのだということです。私どもも朝に色んなことを考えます。眠りから目覚めて、新しい一日が始まります。しかし、前の日に引きずっていた思いを、朝になったからといって、簡単にリセットできるわけではありません。眠っている一瞬の間だけ、嫌なことを忘れることができたと思っても、朝、目覚めると同時に、思い出されてくることがあります。今日も重荷を背負って生きていかなければいけない。今日も顔を合わせたくないあの人の顔を見て生きていかなくてはいけない。今日という一日が始まったけれども、いったい何をすればよいのか分からない。そもそも今日を生きる力も湧いてこない。そのように色んな思いで満たされることがあるのではないでしょうか。そのようなところで、詩人は祈るのです。「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ 生涯、喜び祝わせてください。あなたがわたしたちを苦しめられた日々と 苦難に遭わされた年月を思って わたしたちに喜びを返してください。」詩編の他の箇所を見ますと、このように歌われています。「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(詩編30:6)「神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」(詩編46:6)夜が明けて、朝が来る。それは時に、人によっては本当に辛い時間帯です。でも、そのような私どもに朝の光、いのちの光が射し込んでいるのです。朝とともに始まる今日という一日は、決して、楽な一日ではないかもしれないし、昨日と同じように変わり映えのない一日であるかもしれない。相変わらず、嫌なこと苦しいことがたくさんある。そして予期せぬことが起こるかもしれない。すべてを自分は知ることができないし、思うように生きられないところがたくさんある。しかし、私は今日もキリストのものとされている。どんなことが起こったとしても、今日という一日の根底にあるのはキリストの復活のいのちである。キリストを避けどころとして、今日という日を精一杯生きることができる。「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」という祈りをもって、朝から始まるこの一日を主イエスと共に生きることができる。そのように朝ごとに信仰の姿勢を整えて、新しい一日を主と共に始めていくのです。
ですから、詩人はこう祈ります。17節です。「わたしたちの神、主の喜びが/わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを/わたしたちのために確かなものとし/わたしたちの手の働きを/どうか確かなものにしてください。」最後に、繰り返していることがあります。それは、「わたしたちの手の働き」という言葉です。この手の働きというのは、何か特別な人だけがする働きではありません。私どもが普段していることです。毎日の手仕事です。例えば、汗水たらしながら家事に勤しむこと。子育てに勤しむこと。病気となった家族、動けなくなった両親の介護に勤しむこと。ほこりまみれになって仕事や労働に励むこと。その私どもの小さな手の業を、神様、どうか確かなものにしてくださいと祈るのです。空しいものとなりませんようにと祈るのです。そして、私どもの手の業を通して、あなたの御栄えを現させてくださいと祈るのです。先程申しましたように、朝が来る度に、一日が始まる度に、私どもは様々な問題と向き合わなければいけません。いったい今日の私の働きが何になるのだろうかと思われる方もおられるかもしれません。でも、それらの働きは空しいものではないのです。そうではなくて、確かなもの、神様の栄光を現すものなのです。なぜなら、私たちはもう既に死に打ち勝ったキリストの尊いいのちの中に生かされているからです。だから、もう空しいとか、儚いとか思わなくてもよいのです。誇りをもって、喜びをもって、今日という一日の働きに励むことができるのです。
もう多くのことを話すことはできませんが、本日は詩編の言葉に合わせてルカによる福音書の御言葉を聞きました。クリスマス物語の最後に出てくるシメオンとアンナはともに老人だと考えられています。長い人生において語り尽くすことができないほどの悲しみや痛みを経験してきたことでしょう。アンナは結婚したものの、7年で愛する夫を失いました。シメオンもアナンも、自分自身はもちろんのこと、この世界が深い闇に包まれていることを信仰のまなざしでしっかり見つめて生きることが許されました。だからこそ、神によって慰めが与えられること、まことの救い主が与えられることを心から待ち望んで生きていたのです。そして、神がおられる神殿を自分たちの避難所、居場所とし、この世界が救いの光に照らされることを祈り願ったのです。そして、ついに神殿で幼子主イエスと出会うことができた時、シメオンはこう歌いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」
私どもの歩みには、限りがあり、それゆえに、儚さや空しさといった思いに捕らえられることがあります。本当の意味で私の人生は満たされた、完成したというふうになかなか言うことができない私どもの歩みです。けれども詩編の詩人が祈ったように、シメオンが歌ったように、神様と真実にお会いすることができたならば、主イエスと出会い、「イエス様こそ、私の救い主です」と告白することができたらならば、私どもの地上の歩みがどのようなものであったとしても、必ず満たされたものとなるのです。既にそこで復活の主のいのちに生かされているからです。だから私どもも、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」と歌いながら、神様のもとに帰ることができます。「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」と、祈ることができます。この祈りに必ず応えてくださる神様の祝福の中で、与えられた一日一日を精一杯生きていくのです。お祈りをいたします。
一日一日を数えることができないほどに、辛く厳しい現実に取り囲まれてしまうことがあります。しかし、そのような中に、立ち帰って来てくださった神様が、罪と死に打ち勝ったいのちをもって私たちの歩みを今も支えていてくださいます。安心して憩える場所を備えてくださいます。確かないのちの中に招いてくださるあなたの懐に、いつも飛び込んでいくことができますように。そして、それぞれの日々の働きと信仰の業を豊かに祝福してください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。