2020年06月21日「神と共にある歩み」
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神と共にある歩み
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創世記 5章1節~32節
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聖書の言葉
1 これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、2 男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。3 アダムは百 三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子 をセトと名付けた。4 アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。 5 アダムは九百三十年生き、そして死んだ。6 セトは百五歳になったとき、エノシュをも うけた。7 セトは、エノシュが生まれた後八百七年生きて、息子や娘をもうけた。8 セト は九百十二年生き、そして死んだ。9 エノシュは九十歳になったとき、ケナンをもうけた。 10 エノシュは、ケナンが生まれた後八百十五年生きて、息子や娘をもうけた。11 エノシ ュは九百五年生き、そして死んだ。12 ケナンは七十歳になったとき、マハラルエルをも うけた。13 ケナンは、マハラルエルが生まれた後八百四十年生きて、息子や娘をもうけた。 14 ケナンは九百十年生き、そして死んだ。15 マハラルエルは六十五歳になったとき、イ エレドをもうけた。16 マハラルエルは、イエレドが生まれた後八百三十年生きて、息子や 娘をもうけた。17 マハラルエルは八百九十五年生き、そして死んだ。18 イエレドは百六 十二歳になったとき、エノクをもうけた。19 イエレドは、エノクが生まれた後八百年生き て、息子や娘をもうけた。20 イエレドは九百六十二年生き、そして死んだ。21 エノクは 六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。22 エノクは、メトシェラが生まれた後、 三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。23 エノクは三百六十五年生きた。24 エノク は神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。25 メトシェラは百八十七歳になった とき、レメクをもうけた。26 メトシェラは、レメクが生まれた後七百八十二年生きて、息 子や娘をもうけた。27 メトシェラは九百六十九年生き、そして死んだ。28 レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。29 彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の 手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付け た。30 レメクは、ノアが生まれた後五百九十五年生きて、息子や娘をもうけた。31 レメ クは七百七十七年生き、そして死んだ。32 ノアは五百歳になったとき、セム、ハム、ヤフ ェトをもうけた。
創世記 5章1節~32節
メッセージ
先週の月曜日に、我が家に二人目の子が産まれました。新型コロナウイルスの影響で、 立会い、また出産後の面会はかないませんでしたが、無事に守られたことを感謝していま す。病院から戻って来たのは、金曜日でしたが、直接自分の目で、我が子を見たときに、 とても単純なことかもしれませんけれども、赤ちゃんは小さいなぁ、可愛いなぁと改めて 思わされました。そして、小さいがゆえに、たいへん重みのあるいのちであることを思わ されるのです。赤ちゃんというのは、誰よりも、親から守ってもらわなければ生きていけ ない存在です。私どもの救い主であられる主イエスもまた、誰よりも親に守っていただか なければ生きていくことができない存在、正確に言うならば、神に守っていただかなけれ ば、決して生きていくことができない人間の象徴として、この世界に乳飲み子として産ま れてきてくださったことを思い出します。それは、もう何十年もいのちの歩みを重ねてき た大人の人たちにも言えることです。誰もが神の守り、助けなしに、そして愛されること なしには生きていくことはできません。そのこと明らかにしてくださるために、主イエス はこの世界に産まれてきてくださいました。
少し話は変わりますが、私が牧師の道を進もうという思いが与えられたのは、大学4年 生になったばかりのことでした。あまり詳しく皆様に献身のきっかけについてお話したこ とはありませんが、とても短くまとめると教会や中会、また大会での奉仕をとおして、神 様にお仕えする喜びを与えられたというのが、その大きな理由でした。今、考えると神様 に仕えて生きる道は、様々な道があるかと思いますが、まだ若かったという理由もあった かもしれませが、「神様にお仕えする=牧師になる道」だと思い込んでいたところもあった のでしょう。しばらく祈り求めた後、母教会の牧師に相談しに行ったことを思い起こしま す。そして、牧師とはどういう働きをするのか。そのことをも当時は十分に知らなかった ところがあったと思います。でも、神学校に入学して、学びを重ねたり、派遣教会での奉 仕や交わりなどをとおして、牧師の働きについて、その重さにについて少しずつではあり ますが、教えられていきました。
当時は私はまだ22歳でした。神学生になると、日曜日は近隣の教会に派遣神学生とし て遣わされます。最初の年に遣わされた教会は伊丹教会でした。神学生として最初に派遣 教会に行った日は、丁度、イースターの日であったことを今でも思い起こします。神様が 与えてくださった新しいいのちの始まりを覚えつつ、神学校の歩み、奉仕を始めることが ゆるされました。しかし、そこで同時に深く考えさせられたのは、いのちと対極にある「死」 の問題でした。伊丹教会の教会学校に通っていた近所の子どもがいました。当時、まだ小 学4年生でした。何気ない会話の中で、家族の話になり、その子のお父さんのことについ て私が尋ねたのです。でも、その子は急に黙り込んで、すぐに暗い顔になりました。その様子を見ていた教会の長老が私たちのことを察してくださり、すぐに、「お父さんは亡くな ったんだよね。とても悲しかったね。」と言葉を掛けてくださいました。教会には、まだ1 0歳にも満たない子どもが、当時の私よりももっと深いところで死を受け止め、その悲し みを知っていました。また、若く20代にして、我が子を病気で失った長老ご夫妻がおら れました。事あるごとに、亡くなられた息子さんのことお話されていました。キリスト者 の息子さんでしたが、単純に「今は神様のもとにいるのだから」という言葉だけでは慰め を得ることができない。あるいは、自分たちの心が追いつかない。そのような深い痛みと いうものを負っておられました。そのような痛みを追いながら、毎週水曜日には祈祷会に 集い、日曜日には教会に来て、礼拝をささげる生活を大切にしておられました。当時、私 は大学を出たばかりでした。自分のこととしても、家族や隣人のこととしても、「死」とい うことを深く突き詰めて考えるようなことは、ほとんどなかったと思います。そういう自 分が、いったい教会の人たちに対して、世の人たちに対して、何をすることができるのだ ろうか、何を語ることができるだろうか。そのようなことを神学生の最初の時に考えさせ られました。私どもが生きるとはどういうことなのでしょうか。死ぬとはどういうことな のでしょうか。これらの問いは、時代を超えて、年齢や世代を越えて存在し続けてきまし た。
先程、旧約聖書・創世記に記されているずいぶんと長い系図をお読みしました。「アダム の系図」と呼ばれるものです。聖書には、他にもいくつかの系図が記されています。信仰 生活を重ねておられる方は、それらの系図の中に記されている人物について、彼らがどう いう人であったかがだいたい分かるのではないかと思います。今、お読みした系図も最初 に出てくるアダムや最後に出てくるノアは、聖書の中ではよく知られた人物と言えるでし ょう。でも、あとの人物に関しては、名前は出てくるものの丁寧にそれらの人たちの物語 が描かれているわけではありません。しかし、それよりも私どもを驚かすのは、ここに登 場する人たちの年齢、寿命ではないでしょうか。例えば、最初に神によって創造されたア ダムについてこう記されています。「アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分に かたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。アダムは、セトが生ま れた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。アダムは九百三十年生き、そして死んだ。」(3 〜5節)ここに出てくる百三十歳とか、八百歳とか、九百三十歳という年齢は、今日の常 識からして、あり得ない数字です。だから、聖書は信じがたいとか、誇張しすぎるにも程 があると思われてしまうかもしれません。当然昔から、これらの数字、人間の寿命という 点で考えるならば、天文学的な数字とも言っていいこれらの数字をどう理解すべきか、色々 と議論され、研究の対象ともなってきました。例えば、1年というのは、必ずしも今日の ように365日ではなく、もっと短いサイクルで1年を数えていたのではないかと言う人 もいます。あるいは、これらの数字は、一個人の年齢ではなく、その部族、民族に属する 複数の人たちの年齢を合わせた数字ではないかと考えられることがあるのです。例えば、 セト族に属した何人もの人の合計の年齢、あるいは、セト族の最初の世代の人たちから最 後の世代の人たちまでの年齢を合計して、九百何十年というふうな数字を出しているのだ というのです。これを「集団人格説」と呼ばれることがあります。一つ集団をもって、一 人の人格、一個人を表すという考え方です。そういう考えた方がまったくない訳ではありません。しかしながら、聖書をとおして神様のメッセージを正しく聞こうとするとき、複 数の人間で一つと考えるよりも、一個人として、これらの数字を理解し、考えたほうがよ り適当といいましょうか、聖書が伝えようとするところを真っ直ぐに理解することができ るのではないかと私は思うのです。
いずれにせよ、この驚くような数字はいったい何を意味するのでしょうか。ある神学者 は、「この時代は、まさに黄金時代だ」と言いました。今日の常識では考えられない寿命の 長さが、そのまま、生命力に溢れているしるしだと言うのです。生き生きとしたいのちの 躍動がここにあると言います。確かに、実際にここまで長く生きることができたならば、 普段できない経験をたくさん積むことができるかもしれません。その経験がその人の人生 をより豊かにするということもあるでありましょう。しかし、同時に思いますことは、反 対にこの系図に記されていないような人たちはどうなるかということです。この系図のリ ストに含まれない人たちはどうなってしまうのでしょうか。例えば、長寿の反対、短命で、 若くして亡くなった人であるとか、結婚せずに独身でいる人であるとか、子どもが与えら れなかった夫婦であるとか、身体や心に障がいや病を負っている人たちはどうなるのでし ょうか。彼らは「黄金」の名に値しない地味で暗い人生を送り、神様から祝福されていな い人たちだったということなのでしょうか。もし、そうであるならば、キリスト教会が語 るメッセージの本質というのも、ずいぶん変わってくるのではないかと思うのです。要す るに、神を信じると、長生きすることができるとか、失敗のない成功した人生を送ること ができるとか、病も、苦しみも、涙することもない人生を送ることができる。だから、こ れまでの生き方を改めて、神のもとに立ち帰るようにというメッセージになってしまうと いうことです。そして、実際にそのような教えを語る宗教というのは、たくさんあります し、キリスト教と名乗るグループであっても、「成功」を謳う教会が存在するのも事実です。
それゆえに、私どもはキリストの教会に生きる者として、改めて人生の意味を問わずに はおれません。自分が自分の人生を生きるうえでも、誰かにキリストの福音を伝えるうえ でも、何をもって私どもの人生は意味あるものとされるのか。そのことに絶えず、聖書を とおして聞き続ける必要があるのではないでしょうか。創世記第5章に記されているアダ ムの系図は、さっと目をとおすだけでは、正直ピンと来ないところがあるかもしれません。 でも、繰り返し読んでいただけるならば、可能ならば声に出して読んでいただけるならば、 本日の御言葉の中における、ある一定のリズムのようなものに気付いていただけるのでは ないかと思います。3〜8節だけをもう一度お読みします。「アダムは百三十歳になったと き、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。 アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。アダムは九百三十年生 き、そして死んだ。セトは百五歳になったとき、エノシュをもうけた。セトは、エノシュ が生まれた後八百七年生きて、息子や娘をもうけた。セトは九百十二年生き、そして死ん だ。」9節以降もだいたい似たようなリズムで言葉が繰り返されます。それゆえに、耳に残 る言葉があります。それは、まず始めに「○○をもうけた」という言葉です。次に「(子ど もが産まれた後)○年生きた」という言葉があります。そして、最後にその人物の寿命が 記され、「○○は死んだ」という言葉で終わっているということです。「産んで」「生きて」「死んだ」ということが繰り返し語られているのです。「産んで」というのは、「産まれて」 と言い換えたほうが分かりやすいかもしれません。いずれにせよ、「産まれて」「生きて」 「死んで」というこれら3つの言葉で、人の人生が語られているということです。このこ とに抵抗を覚える方ももちろんおられると思います。3つの言葉でまとめることができる ほど、人間は単純ではないのだと...。
しかし、聖書ははっきりと告げるのです。私どもに問い掛けるのです。人生というのは、 ある意味、産まれて、生きて、死ぬだけではないか。そして、この系図は、人間の最後に ついて、「死んだ」という言葉を幾度も繰り返すのです。つまり、人間の最後に残るものは 「死」だということなのです。長寿が与えられ、その長い歩みの中で、多くのものを手に することができたことでしょう。人生が長ければ長いほど、豊かな経験をすることができ る。たくさんのものを得ることができるということがあるかもしれません。しかし、私ど もが持っているもの、手にしてきたものをすべて手放した時に、いったい最後に何が残る のでしょうか。そこで初めて見えてくるものが、あなたのいのちの正体そのものだという ことです。あなたのいのちの正体は何か?あなたのいのちの根本は何か?ということです。 それは、死すべきいのちだけではないかというのです。神様は御言葉をとおして、いつも 問い掛けておられます。あなたのいのちの正体は何なのか?それをあなたが見出した時に、 そのいのちはあなたに喜びをもたらすものは何なのか?
人によって、どういう人生を生きるかは、人それぞれですが、産まれること、生きるこ と、死ぬことのうちで、最もその人の個性がよく表れるのは、真ん中の「生きる」という ことだと思います。だだ、この系図の中で、肝心の「生きるとはどういうことか」という ことについて、具体的なことは一切記されていないのです。でも、私どもにあるヒントを 教えてくれている箇所があります。その一つが、28節に登場するレメクです。28〜2 9節をお読みします。「レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。彼は、『主 の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、 その子をノア(慰め)と名付けた。」レメクは百八十二歳の時に、男の子をもうけました。 百八十二歳というのも、今日の常識では考えられないような数字ですが、もし分かりやす く理解したいと思われる方は、それぞれの人たちの年齢を「十」で割れば良いと言われる ことがあります。そうしますと、レメクは18歳というたいへん若い年齢で子どもが与え られたということになります。そして、31節に「七百七十七年生き、そして死んだ」と ありますから、77歳で死んだということになります。18歳という若い年齢で、子が与 えられたレメクですが、注目していただきたいのは、そのすぐ後に、「『主の呪いを受けた 大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア (慰め)と名付けた。」とあることです。我が子を「ノア」と名付けたのです。これは「慰 め」という意味です。そして、ノア(慰め)と名付けたのは、息子がこの先、大人になっ て色々とたいへんな経験をした時に、神様から唯一の慰めをいただくようにという願いを 込めて付けたのではないということです。誰よりも親のレメク自身が、我が子によって慰 められたいと願って、「ノア」と名付けたということなのです。わずか18歳というは、大 人というよりも、若者、青年と呼べるような年齢です。しかし、そのレメクが「私は慰められたい」と心から切に願って生きていたということです。それは、レメクが若くして、 既に生きることに疲れ果て、日々、労苦と悩みの中にあったということなのです。
29節に、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を」とありました。レメクにと って、働くこと、生きることは苦労することに過ぎないのだというのです。私が生きると は何かということを自問自答する時に、それは「苦労」すること、「思い悩む」ことだと言 うのです。そして、このことはレメクだけに当てはまることではなく、この系図に記され ている他の人たちにおいても言えることだと思います。なぜかと申しますと、働くこと、 生きることが苦労でしかない。我が子に慰められたいと願うほどに、苦労多い人生を送ら なければいけなくなったのは、決して、自然の成り行きでそうなったのではないからです。 生きることも、働くことも苦労が多いというのは、年齢を重ねれば誰もが「そうだ」とう なずく当たり前の話です。でも、聖書は語ります。私どもが苦労しなければいけないこと は、自然のことでも、当たり前のことでもない。それは、神の裁きによるのだと。29節 にも、「主の呪いを受けた大地」とありました。更に、聖書を遡って見てみますと、創世記 第3章17〜19節(旧約聖書4ページ)まで戻ることができます。そこにはこう記され ているのです。「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い/取って食べるな と命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物 を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べよう とするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取 られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。』」創世記第3章は、神のかたちに創造され、 祝福のうちにあった人間アダムとエバが、罪を犯し、堕落したことを記す箇所です。その 罪に対する裁きとして、人は呪われる者、死ぬべき者となりました。人間だけではありま せん。私どものいのちを支える大地そのものまでも呪われるものとなり、作物を生み出す ために、人は苦労しなければいけなくなりました。そして、やがて人は、呪われた大地に、 塵に返る運命にあるのです。アダムの系図は、私どもに何を語り掛け用としているのでし ょうか。祝福なのでしょうか。それとも呪いなのでしょうか。第5章の最初には、創世記 第1章でも記されていたように、アダムが神に似せて造られたことがもう一度語られます。 そして、アダムだけではなく、彼の子孫までも、神の似姿・かたちにしたがって創造され ている。そのように、神の祝福はアダム以降の世代にも確かに受け継がれていると理解す ることもできます。それはそのとおりで、すべての人間は神のかたちに造られているので す。神を神として崇め、神との交わりを喜びつつ生きることのできる祝福が、ここでも語 られています。しかしながら、そのような祝福に満ちた人間が、実は地上において悩みと 苦労が耐えず、疲れ果て、やがては死んで、塵に返る定めにあるという事実を誤魔化すこ となく告げるのです。だから、本当は、この系図は祝福のリストではなく、「死のリスト」 と言う人たちもいるのです。
他にも旧約聖書・詩編第90編には、次のような御言葉があります。「わたしたちの生涯 は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のもの です。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に 時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(詩編90編9〜10節)詩人は歌うのです。70年、80年生きても、その人生の中で得たものは何であろうか。結局は労苦と災いに過 ぎないではないか。あっという間に終わってしまう人生は実に虚しい。それに神の前に立 った時、罪のゆえに、ため息のように消えてなくなってしまう儚い人生に過ぎないではな いかと歌うのです。私どももまた、「あっという間だ」とよく口にすることがあります。そ れは、ただ時の流れの早さを嘆くのだけでなく、与えられた人生において、為すべきこと を為すことが十分にできなかったという後悔や嘆きのような思いが込められているのだと 思います。
しかしながら、聖書というのは、そのような人生の儚さや虚しさだけを伝えたいだけな のでしょうか。先に挙げた聖書の箇所だけに焦点を当てますと、そういう理解になってし まいます。でも聖書は、本日の箇所でもそうですけれども、もう一つの事実を告げるので す。この系図の中に、もう一人、注目すべき人物が存在します。ここに確かな光が差し込 んでいるのです。それが、21節に登場する「エノク」という人物です。このように記さ れています。「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシ ェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生 きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(21〜24節)エノク について語るこの箇所を読んでいて、分かることは、他の人に必ず記されている「死んだ」 という言葉が一切記されていないことです。その代りに、「いなくなった」と記されていま す。その理由について、神が取られたから、いなくなったというのです。「神が取られた」 というのは、神がエノクを受け入れられたということです。
しかも、このエノクの年齢は「三百六十五年」でありました。普通に考えると、これも 驚くべき数字なのですが、この系図に記されている他の人々の年齢に比べますと、短命で あることが分かります。長い人たちで、九百六十九年とか、九百六十二年とありますから、 エノクはそれらの人たちの三分の一ほどのいのちだったということになります。三百六十 五という数字を、十で割れば、三十六歳ということになるでしょう。これは明らかに、ま だ若い年齢です。今で言うと、例えば、結婚をして、子どもが何人か与えられ、仕事やや りたいこともこれからという年齢でしょう。このあと、自分の人生に、色んなことを期待 できる年齢であるかもしれません。たとえ、これまでの歩みが上手く行っていなかったと しても、まだやり直しが効く、そういう可能性が十分に残されている年齢であるかもしれ ません。しかし、エノクは他の人たちより、ずいぶん若くして死んでしまったということ です。しかし、創世記の著者は、エノクは「三百六十五年生き、死んだ。」とは記しません でした。「神が取られたのでいなくなった。」と記し、その前に、一言、「神と共に歩み」と いう言葉を記しました。
私ども人間の歩みというのは、この系図が繰り返し、語りますように、産まれて、生き て、死んで行くだけの存在です。しかし、聖書は、それだけではないのだということを語 るのです。もう一つの人生の歩みというものがあるのだということです。それは、結局は 虚しいであるとか、儚いという人生ではなく、確かな意味をもつ人生。この地上において だけ意味や価値をもつ人生ではなく、永遠の意味をもつ人生があるのだということです。そのことを聖書は、聖書は、「神と共に歩(んだ)」と記すのです。地上の歩みの最期の日 に、それぞれの歩みの中で与えられたもの、手にしてきたものがすべてなくなる時、私ど ものいのちの正体というものが見えてくると申しました。その時に、人は何も誇ることが できず、ただ死んで、塵に返って行くだけのいのちしか見えないのです。しかし、神が共 に歩む人生を送って生きることがゆるされたならば、それは、死んで終わるという悲しい 現実を見ることはありません。私どもが見ているよりも、遥かに確かな現実、そして、い のちに満ちた現実、永遠の喜びを神様が見せてくださるからです。
新約聖書ヘブライ人への手紙の中では、エノクについてこう語るのです。「信仰によって、 エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくな ったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」(ヘブラ イ人への手紙11章5節)。エノクという人が具体的にどういう人生を送ったかは分かりま せん。まだ自分は若いのに...。まだ自分はこれからなのに...という思いの中で、神のもと へ移されたのかもしれません。でも、確かな事実は、エノクは神に喜ばれた人生を送った ということです。エノクのことを神が喜び、愛されたということです。この神様の思いに 包まれて生きる時、死んですべてが終わるという運命から解き放たれるのです。そして、 神様の喜び、愛というのは、人間の地上の歩みに限ったことではないということです。死 を越えて、永遠に、私のこと喜びとしてくださる。永遠に私と共にいてくださるのです。 そして、神が共にいてくださる時、私どもは死んでも生きるのです。
そして、何よりもイエス・キリストの地上の生涯を思い起こす時に、改めて何が人生に 意味をもたらすのかということがはっきりすると思うのです。馬小屋でお産まれになり、 飼い葉桶に寝かされた幼子の主イエスは、父であり大工であるヨセフのもとで働き、三十 歳になった時に、救い主としての働きを公に始められました。しかし、その歩みは決して 華やかな歩みではありませんでした。耐えず、自分に敵対する者が存在し、いのちを狙わ れていました。枕するところがないと言うほどの忙しさにありましたが、一筋に神と人に 仕える歩みを続けられました。そして、最後には、人々に捕まり、十字架にかけられたの です。その時、まだ主イエスは三十数歳という年齢です。しかし、神は主イエスの十字架 の死を無駄にすることなく、三日後に甦らせてくださいました。そして、天に昇られ、今、 神の右の座におられるのです。ですから、主イエスの地上の歩みは、十字架の死で終わる 虚しいものではありません。主イエスの歩みはまさに永遠の意味をもつのです。そして、 このことは、主イエスにとってだけ意味をもつというのではなくて、主を信じる私ども一 人ひとりにとっても、永遠の意味をもつものとなりました。私どもは主イエスの救いにあ ずかっているからです。主イエスの復活のいのちの中を生きているからです。
旧約聖書に先立ってルカによる福音書に記されている「シメオンの賛歌」と呼ばれる箇 所を読んでいただきました。シメオンはクリスマス物語の最後に登場する人物です。シメ オンは昔から老人ではなかったかとも言われてきましたが、具体的な年齢が記されていな いため、実は若い青年ではなかったかと、色々と推測されてきました。しかし、どの世代 の人たちも耳を傾けるべき御言葉であることには何の変わりもありません。このシメオンは、救い主イエス・キリストにお会いするまでは、決して死ぬことはないと、聖霊から告 げられ、その御霊に導かれるように、神の民イスラエルが慰められることを長く待ち望ん だ人でありました。そういう意味では、レメクが我が子に「ノア」(慰め)と名付けたよう に、慰められることをひたすら待ち望んだ人でありました。ただ一つ違うことは、我が子 によってではなく、ただ神によってのみ慰められることを待ち望んだということです。人 間が生み出し、人間が自分の力によって得ようとする慰めよりも、遥かにまさったまこと の慰めを、シメオンは祈り求めてきました。主イエスにお会いするまでは死なないという 使命に生き、祈りに道に生きたのです。そのシメオンが、ついに神殿で幼子イエスにお会 いした時に、歌った賛美が、「シメオンの賛歌」、ラテン語で、「ヌンク・ディミティス」と 呼ばれる歌です。この歌の中で、いくつかのことが歌われていますが、その中心は、ラテ ン語の題にもなっていますように、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安ら かに去らせてくださいます。」という言葉でしょう。「安らかに去らせてください」と言う ことができるほどに、今、私の人生は満たされた。私の人生において、成すべきことを完 全に成し遂げた。目的に達したということです。そのように言うことができる理由は、た だ一つ、救い主イエス・キリストにお会いしたということです。ここに私の人生のすべて が掛かっているということです。その時に「わたしはこの目であなたの救いを見た」(ルカ による福音書2章30節)と賛美して、人生が喜びに包まれるのです。
イエス・キリストこそ、私どもにとって、生きる時だけでなく、死ぬ時においてもただ 一つの慰めであり、救いであるからです。エノクは神と共に歩みました。それゆえに、神 に喜ばれ、神がエノクを取られたのです。でも、少し見方を変えますと、「私が神と共に歩 んだ」と言うよりも、「神が私と共に歩んでくださった」と言ったほうが、より丁寧かと思 います。歳を重ねていようが、若かろうが、成功しようが、失敗しようが、身体や心に色 んな弱さや罪を抱えていようが、神は私どもの神として、共に生きてくださいました。神 様は、愛する御子イエス・キリストを指し示しながら、「ここに、わたしがあなたと共にい るしるしがある」とおっしゃってくださいます。ここに確かな光があり、私どもの人生が 永遠の意味をもつものとされるのです。お祈りをいたします。
神様、あなたとの出会いを与えてくださり感謝いたします。産まれて、生きて、死ぬと いう人生ではなく、神に喜ばれ、神と共にある歩みをこれからも重ねていくことができま すように。自らの貧しさに、思い悩むことの多い私どもですが、御言葉の光が私どもを明 るく照らし、主にある確かな希望に生きることができますように。既に、復活の主によっ て、いのちの望みに生かされているがゆえに、与えられた生涯の日々を賢く生きることが できるように、知恵を与えてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り 願います。アーメン。