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マルコによる福音書 7章31節~37節
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聖書の言葉
31それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。32人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。33そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。34そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。35すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 36イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。37そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
マルコによる福音書 7章31節~37節
メッセージ
信仰の歩みを重ねていきますと、自分にとっての愛唱聖句と言える御言葉がいくつも与えられます。それこそ、すべてを暗記して、事あるごとに心の中で、あるいは、実際に口ずさむということがあるのではないでしょう。自分を救いへと導いてくれた決定的な神様の言葉。試練の中にあった時、慰め励ましてくれた主イエスの言葉。それらの御言葉をいつも心に留めて、いつもそこに立ち帰るようにして、自分の歩みを新たに始めていくのです。
そして、このことは自分一人だけではなく、教会共同体にとっても大切なことです。2千年前、教会が生まれた頃、今のように旧約聖書、新約聖書すべてが整っていたわけではありませんでした。当時聖書と言えば旧約聖書を意味しました。人々は旧約聖書の御言葉を聞き、福音書の原型となる文書や使徒たちからの手紙をとおして、信仰が養われ、共に教会を造り上げていきました。当時の人たちはどのような聖書の言葉を愛していたのでしょうか。アンケートが残っているわけではありませんので分かりませんが、一つ手掛かりになる言葉があるのです。新約聖書はギリシア語で記されているのですが、その中にアラム語と呼ばれる言葉が訳されることなくそのまま記されていることがあるのです。アラム語というのは、主イエスが地上の歩みの中で話されていた言葉です。つまり、主イエスの肉声を敢えてギリシア語に翻訳することなく、そのまま記したということです。
本日、お読みしたマルコによる福音書の中にも、主イエスがお語りになったアラム語がいくつかそのまま記されています。第5章の「タリタ、クム」という言葉があります。これは「少女よ、わたしは言う。起きなさい」という意味です。主イエスが死んだ少女を甦らせてくださった時におっしゃった言葉があります。第15章には、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉、これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。主が十字架の上で叫ばれた言葉です。そして、本日の第7章において、主イエスは耳が聞こえず、舌の回らない人に向かって、「エッファタ」とうめくような声でおっしゃったのです。これは「開け」という意味です。「タリタ、クム」「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「エッファタ」、こういった主イエスが口にされた言葉が、ギリシア語に訳されることなくそのまま聖書に残されたのでしょうか。それは、福音書を記した人もそうですし、生まれたばかりの教会にも言えることですが、主イエスの肉声、主イエスの声の響きをそのまま自分たちの心に刻みたいと思ったらからです。別の言い方をすると、彼らにとっての愛唱聖句であったということです。主の言葉を覚えただけではなく、主のこれらの言葉によって、実際に生かされ励まされてきたのです。「エッファタ」「開け」という言葉、これはとても短い言葉です。たった一言です。すぐにでも覚えることができるでしょう。忘れっぽい私どもであっても、「エッファタ」という言葉だけはちゃんと心に刻むことができるのではないでしょうか。心に刻むだけではなく、主イエスがお語りくださった言葉によって生きることができるのです。
さて主イエスはこの時、31節に記されている場所を順に巡りながら、ガリラヤ湖にやって来られたのです。ティルス、シドン、デカポリス、ガリラヤ湖というルートです。しかし、このルートを選択するというのは、普通あり得ないことだと多くの聖書学者は指摘します。日本で例えると、小田原を出発して東京に、東京から信濃川に向かって、そこから琵琶湖に行くようなものです。なぜ小田原から西に向かうのではなく、東に行き、北に行くのかという話に普通はなります。主イエスはあり得ないほどの大回りをして、ガリラヤ湖に戻って来られたのです。ある人は、福音書を書いたマルコがガリラヤ周辺の地理をよく知らないから、こんな滅茶苦茶なルートを書いたという人もいますが、しかし、多くの人は敢えて主イエスがこのような大回りするような順番で町々を生き巡られたことに意味があるのだと指摘します。ここに出て来ますティルスやシドンやデカポリスという町は、ユダヤから見るとすべて外国に当たる場所です。異邦の地であり、異邦人が住む町です。それゆえに、神の救いの光が届かない暗黒の地だと考えられていました。しかし、主イエスはそれらの町に向かわれるのです。そして、その町で出会った人々を救いへと導いて来られました。例えば、第5章の初めには、デカポリスという町で悪霊に取り憑かれたゲラサ人の男を癒されます。癒された男は、神を賛美し、それだけでなく主の御業を人々に宣べ伝える伝道者になったのです。もしかしたら、この男が本日の箇所に出てくる耳が聞こえず、舌が回らない人を主イエスのもとに連れて来たのではないか。ぜひ、主イエスに会っていただいて、この人を救ってほしいと願ったのではないか。そのように想像する人もいるくらいです。
32節にもあるように、「耳が聞こえず舌の回らない人」のことですが、舌が回らないからと言って、まったく声が出なかったわけではなかったと思います。35節に「舌のもつれ」とありますように、声が出るには出るのですが、それがはっきりとした言葉になっていないということです。上手く話すことができなかったのです。また、この人は耳が聞こえませんでした。おそらくこのことが原因で、何をどう声にしたらいいのか、何をどう話したらいいのかが分からなかったのでしょう。
主イエスは、「この人だけを群衆の中から連れ出し」ました。「この人だけ」と強調していますように、主イエスは多くの人の中から、この耳が聞こえず舌が回らない人だけを、御自分のもとに呼び寄せられました。つまり、主イエスとこの人は一対一で向かい合うことになったのです。私どもがささげている主の日の礼拝も、一人ではなく、多くの兄弟姉妹方と共に礼拝をささげています。大勢で共に神様の前に立っているのです。しかし、一方で主イエスは私ども一人一人を御前に招かれます。面倒だから皆一度にということではなく、主は一人一人を重んじられます。だから、この時、耳が聞こえず、舌が回らない人だけを連れ出されたように、私だけを主は連れ出してくださるのです。御自分の前に立たせてくださるのです。私どもまた共に礼拝に集いつつ、私を呼んでくださる主の前に立っていること。主と一対一で向き合っていることを覚えたいと思います。「この人だけを連れ出し」「あなただけを連れ出し」というふうに、私に対して、あなたに対して真剣であられる主イエスの御心をしっかりとここで受け取りたいと願います。
主は群衆の中から連れ出したこの人に対して、ご自分の指をその両耳に入れられました。それから唾をつけてその舌に触れられたのです。この人を癒すために、主がしてくださった一つ一つの動作が丁寧に記されていきます。「治れ」とひとこと言って、それでおしまいなのではなく、その人が抱えている痛み一つ一つに触れられるのです。
さらに興味深いのは34節です。「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、『開け』という意味である。」最初の「天を仰いで」というのは、祈りの姿勢を表しています。かつて主イエスは、5つのパンと2匹の魚だけで5千人以上の人々のお腹を満たしたという奇跡を行われました。その時も、主はパンと魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱えられたのです(マルコ6:41)。神が豊かに働いてくださることを祈りつつ、けれども、主イエスはそこで深い息をつかれたというのです。嘆く息と書いて「嘆息」とか「ため息」と訳されることもあります。何かによって圧迫される時や苦難の中に立たされる時につくため息を意味すると言われます。他には「うめく」というふうにも訳されます。使徒パウロは、ローマの教会に宛てた手紙の中でこう言いました。ローマの信徒への手紙第8章22〜23節です。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」また、26節でもこう言っています。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」私たちが生きるこの世界はうめかざるを得ない現実を抱えています。何よりもその中心になる問題は人間の罪の問題です。だから、神に造られた被造物も、私たちもキリストによって完全に救われる日を心からうめくようにして待ち望んでいるのです。また、うめいているのは神がお造りになった人間やこの世界だけではなく、聖霊御自身が私どもの代わりにうめいてくださっているというのです。うめきつつ、執り成しの祈りをささげてくださっているというのです。それは、私どもが苦難の中で、祈ることができず、ますます闇の力に引きずり込まれてしまっているからです。聖霊はその苦しみを共にしながら、しかし、そこでしっかりと神を見つめて私どもの代わりに祈ってくださるのです。
主イエスは天を仰いで深い息をなさいました。それは耳が聞こえず、舌が回らないこの人の中に、嘆かざるを得ないような、うめかざるを得ないような現実を見ておられたということです。それは、この人がこれまでずっと耳が聞こえなかった、舌が回らなかったという病や障がいを負って苦しんでいたということもあるでしょうが、もっと深い現実を主は見ておられたということです。その関わりの中で、主イエスは「エッファタ」「開け」とこの人に向かっておっしゃいました。「開け」というたったひとことですけれども、しかし、ここに人間を罪から救う言葉があります。私どもが本当に必要としている言葉があります。なぜ、主が「開け!」と言わなければいけなかったのでしょう。それは開かれることなく、閉じられているという人間の現実があるからです。耳が閉じているように、舌が閉じているように私どもの人間の心や魂が完全に閉じられてしまっているということです。
病気のことを考えてみますと分かるのですが、病気は体の健やかな流れを閉ざしてしまいます。例えば、腸が閉ざされれば腸閉塞になり、脳が閉ざされれば脳梗塞になり、喉が閉ざされると窒息してしまいます。体の健やかな流れが閉ざされてしまいますと、いのちに関わる病気になるのです。だから、病院で医師の手によって、チューブを入れたり、手術で閉じている問題の部分を切って開こうとするのです。そのようにして、健やかな流れ、いのちの流れを回復するのです。このことは私どもの体だけの問題ではありません。私どもの心や魂が様々な力によって閉ざされている。抑圧されている。そういうことがあるのではないでしょうか。人間の深いところにある魂そのものが閉ざされているのです。苦しんでいるのです。うめいているのです。しかも、その魂の痛みを自分で取り除くことができないのです。自分が負っている苦しみを神に対しても、人に対しても上手く言葉にして祈ったり、訴えたりすることができないのです。舌が回らない、舌がもつれるというのはまさにそういうことです。誰かに伝えたいこと、話したいことを言葉にすることができないのです。だから余計に心を閉ざして、自分一人で痛みと苦しみを抱えて生きなければいけなかったのです。
しかし主イエスはおっしゃいます。「エッファタ!」「開け!」閉ざされた魂に向かって、硬直した魂に向かっておっしゃるのです。「エッファタ!」苦しみに支配され、罪に捕らえられている魂に風穴を開けてくださるのです。あなたはもう閉ざされた魂の中で、自分に向かって屈折してうめき続けなくてもいい。わたしがあなたと共に、切なるうめきをもって、代わりに神に祈ってあげるから。だから、あなたもまたわたしの前にしっかり立ちなさい。わたしを真っ直ぐに見つめなさい。そして、わたしを信頼して、わたしに向かってうめいたらいい。嘆いたらいい。エッファタ!開け!
そうしますと、35節にありますように、「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」というのです。ここで多くの人が思い起こしますのは、預言者イザヤが語った言葉です。イザヤ書35章5、6節に次のような御言葉があります。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。」このイザヤの言葉が、まさに今主イエスの前で、主イエスの言葉と御業によって成就しています。マルコには記されていませんが、耳が聞こえ、舌のもつれが解けた人はイザヤが語ったように、まさに鹿のように踊り回り、喜びを心と体で表したのではないでしょうか。そして、これまで舌が回らず、閉じられていた口が主によって開かれた時、その人はいったい何を最初に語ったのでしょうか。きっと神を賛美する言葉を口にしたのではないでしょうか。
主イエスにお会いするまで、この人は耳も口も閉じられていました。これは単に病気のことではなく、私ども人間の心と魂の問題だと先程申しました。具体的にどういうことかと申しますと、耳が閉じられるというのは聞くべき言葉を聞くことができないということです。口が閉じられているというのは、語るべきことを語ることができないというのです。人間が聞くべき言葉とは神の言葉であり、人間が口にすべき言葉とは神様をほめたたえ、賛美する言葉です。しかし、耳や口、魂が閉じられてしまうということ。つまり、罪の力に捕らえられてしまった人間というのは、御言葉に耳を傾けることができず、それゆえ神を賛美したり、あるいは、共に生きる人たちに対して愛の言葉を語ることができなくなってしまうということです。そして、これらのことは洗礼を受けて、キリスト者になったからと言って、すべての問題が解決するわけではないと思います。救いの恵みにあずかっているのに、まだ自分の都合を優先させてしまうこともあるでしょう。隣人を愛する生き方に召されているのに、相手を建て上げる言葉をなかなか口にすることができずに苦しむことがあります。相手を批判し、裁く言葉ならばいくらでも口にできるのに、愛をもって人を造り上げていくこと。これは本当に忍耐がいることです。でも、その愛の重荷を担うことができず、自分が抱えている重荷を主イエスの前で降ろすことすらも忘れてしまうのです。それほどに、心が苦しみでいっぱいになってしまうことがあるのです。でも、主イエスはいつも「エッファタ!」「開け!」と語り掛けて下さいます。まだ洗礼を受けておられない方に対しても、既に洗礼を受けておられる方に対しても、すべての人に対して、「エッファタ」と語り掛けておられます。神様があなたに与えてくださったいのちの流れが止まることのないように。救いの恵みがいつもあなたの魂の奥にまで行き届くように、主はいのちの御言葉を与えてくださるのです。
そしてこの「エッファタ」という言葉が、教会の人たちに愛された理由は、主イエスが語ってくださった言葉であると同時に、私たちもまた「エッファタ」という言葉を口にしなたら信仰の歩みを続けていくことができるということ。その恵みに気付かされたからではないでしょうか。例えば、「エッファタ」「開け」という言葉をそのまま自分たちの祈りの言葉として用いたということです。「主よ、わたしの魂を開いてください」「主よ、わたしの唇を開いてください」というふうに。
本日はマルコによる福音書に先立って詩編第51編の御言葉を朗読していただきました。悔い改めの詩編の一つに数えられる歌ですが、その17節で、イスラエルの王ダビデはこのように祈っています。「主よ、わたしの唇を開いてください この口はあなたの賛美を歌います。」自らの罪を神様の前で告白し、赦しを祈り求めます。そのダビデが願ったこと、それはもう一度、私の内に清い心を創造してくださいということでした。新しく確かな霊を授けてくださいということでした。そして、もう一度、あなたによって新しい者とされ、神を神として賛美することができますように。そのために私の唇を開いてくださいと祈るのです。
ある説教者は、この詩編第51編の言葉をとても大切にされていて、自分が説教する時はこのように祈るのだそうです。「主よ、わたしの唇を開いてください。そうでないと説教できません。わたしの唇を開いてください。」そして、説教を語る側だけでなく、聞く側にとっても大切な祈りの言葉がここにあります。「主よ、わたしの耳を開いてください。心を開いてください。今ここで語られるあなたの言葉を聞き取らせてください。…」主が私どもの唇も耳も心も開いてくださるそのところに、救いの恵みが確かに届けられていくのです。
私どもには罪の問題をはじめ、うめきたくなるような現実を抱えています。下手をしたらますます闇の中に引きこもってしまうことでしょう。しかし、そこでなお信仰にしっかりと立つことができるのは、いつも主イエスが語ってくださる言葉、「エッファタ」という言葉が与えられているからです。そして、自分たちもまた、主イエスの言葉を口ずさみつつ、祈ることができるのです。うめくような苦しみの中にあるのですから、多くの言葉を口にすることなどできません。でも、たった一言、「私の魂を開いてください」と祈ることができるのです。「エッファタ」という主の言葉を思い起こすことができるのです。そして、神様はその小さな祈りに耳を傾け、答えてくださるのです。再び、耳が開かれ御言葉を聞き、御言葉に生きる者とされます。再び、神を賛美する者に変えられていきます。そのような恵みの経験を、教会の人たちは昔から重ねてきたのです。
最後にこの様子を見ていた人々はこのように言いました。37節です。「そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」「この方のなさったことはすべて、すばらしい」そう言って、人々は主イエスの御業をほめたたえました。しかも、主をたたえているのは神の民イスラエルではなく、救いから遠いと考えられていた異邦人たちでした。主の業を「すばらしい」と言って、たたえます。「すばらしい」というのは、「良い」とか「美しい」と訳すことができる言葉です。旧約聖書・創世記の初めに、「天地創造」の物語が記されています。「光あれ」という言葉をもって創造の御業を始められた神は、一日一日、その御業を終える度に「良かった」と言って満足されたのです。そして、すべての業を終えられた時、神様は「極めて良かった」と言って、これ以上にない喜びと満足を表されました。だから、この世界も私ども人間も神に喜ばれ、愛されている存在であり、生きるに値する喜びがこの世界には満ち溢れているのです。
しかし、罪というのはその神の愛と喜びの御声に耳を塞ぎ、自分の思いに生き始めたということです。人は美しいものを求めながら、それは神の思いを忘れた美しさであり、自分を満足させる美しさに過ぎないのです。そのような生き方が、神様だけでなく、共に生きる人々を悲しませ、痛みを負わせてきました。そして、自分自身をも見失ってきたのです。そのような悲惨の中に、主イエスが来てくださいました。「エッファタ」「開け」と言って、神のいのちを再び注ぎ込んでくださったのです。キリストの十字架によって救われるというのは、私どもが再び新しい人間に創造されることなのです。キリストにあって、私どもは神様の目に極めて良い存在として、極めて美しい存在として生きることができるようになりました。この神の救いの御業を覚え、私どももまた、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と言って、神を賛美します。ここに人間の本当の美しさがあります。
また、私どもがこの耳で聞きたい言葉、それはもちろん神様の言葉ですが、同時に神の救いの恵みに生かされている人たちの賛美の言葉、証しの言葉でもあると思います。私のことで恐縮ですが、自分自身のことを振り返ります時に、私が牧師の働きへと召された理由も突き詰めればここにあるのだと思います。学生の頃でしたけれども、キリスト者として自分なりに一所懸命に教会生活をしながら、一方では奉仕のたいへんさや責任の重さに耐え切れず、不平ばかり漏らしながら歩んでいたことがありました。「これはよくないぞ!」と気付いてはいましたが、どうすることもできなかったのです。けれども、本当に貧しい奉仕、貧しいどころか神様にお見せすることなどできないような罪にまみれながら、しかし、そのような者さえも神様が用いてくださいました。本当に驚くべきことです。その時何が起ったのか。それは、神様の業に仕えることをとおして、多くの人たちが神様のすばらしさを知り、神様を賛美し、神様から与えられた一つ一つの恵みを口にする言葉を聞いたのです。その時、本当に美しい言葉がここにあると思いました。「この美しい言葉をもう一度聞かせてください。もう一度聞くために、神様のために、教会のために自分を用いてください」という祈りを、悔い改めとともにささげたことを今でもはっきりと覚えています。
牧師が神様の言葉をとりついで説教するのも、教会が福音を宣べ伝えるのも、その人が救われることを願ってのことですが、それだけでなく救われたその人が開かれた口で賛美するその美しい声をいつも聞きたいからではないでしょうか。そして、私どもも御言葉を語り続けるとともに、神を賛美する群れとして、ここで歩みを重ねていきます。時に、自分の耳も唇も閉ざされるような苦難を経験することがあるかもしれません。けれども、共に生きる教会の仲間は賛美の歌を歌うことをやめることはありません。だから、心が沈んだからもう教会に行かないというのではないのです。苦難の時にこそ、ぜひ教会の礼拝に来ていただきたいと願います。自分の口で祈ることができなくても、賛美することができなくても、共にいる兄弟姉妹が心を高く上げて、祈っているその声を、賛美しているその声を聞くことができるでしょう。私どもは神に向かって賛美をしているのですが、実はそのことが兄弟姉妹のために、また神様のことをまだ知らない人のために大きな意味を持つということがあるのです。神賛美というこの世のどこにもない美しい声によって、共に再び立ち上がり、神を賛美する者とされるのです。お祈りをいたします。
主よ、私どもの心を開いてください。開かれた魂の奥から溢れ出るあなたのいのちによって、私ども歩みを最後まで祝福してください。開かれた唇で、主を賛美し続ける教会としてこの場所に立ち続けることができますように。また、神の言葉を聞き、新たにあなたを賛美する者を私たちの群れに加えてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。