2021年08月29日「初心に立ち帰ろう」
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使徒言行録 26章1節~29節
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聖書の言葉
1アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。2「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。3王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。4さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。5彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。6今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。7私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。8 神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。9実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。10そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。11また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒瀆するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」12「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、13その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。14私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。15私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。16起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。18 それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」19 「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、20ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。21そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。22ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。23つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」24 パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」25 パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。26王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。27アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」28アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」29パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」使徒言行録 26章1節~29節
メッセージ
世の人々は、「キリスト者」「クリスチャン」と呼ばれる人たちのことをどのように思っているのでしょうか。一般的に言えば、クリスチャンというのは、「キリスト教」と呼ばれる宗教の一つを信じている人だと思われています。そして、何かの宗教を信じるというのは、結局のところ弱い人間がすることなのだと思っている人が多いのではないでしょうか。どうしても助けてほしいことや救ってほしいことがある時、人は宗教や神を求めるということがあるのです。人は弱さや深い悩み陥る時、その弱さを補ってくれるより強いものを求めたくなります。自分の中に色んな欠けを覚える時、それを満たしてくれる豊かなものを手に入れたくなります。何に向かって手を伸ばすかは、人によって違うかもしれません。その中に、宗教があったり、キリスト教があったりというのはよくあることなのだと思います。
ここにおれる皆様は、どのようにして信仰に導かれていったのでしょう。信仰の家庭で育ち、幼い頃から親に連れられて教会に来ている人もいるでしょう。キリスト者の友だちや家族に連れて来た人もいると思います。特に深い悩みがあった訳ではないけれども、気付いたら教会の礼拝に出るようになり、洗礼を受けた人も多いのではないでしょうか。また、一方で先程申し上げたように、藁にもすがるような思いで教会の門を叩いたことがきっかけとなり、救いに導かれた人もおられると思います。誰かから「あなたは弱いから、神を信じているのだ」「教会に行っているのだ」と責められたとしても、本当にそのとおりであって、何も自分は恥ずかしがる必要はないのだ。自分は本当に弱くて、罪深くて、神様の助けなしには生きていくことができないからこそ、洗礼を受けてキリスト者になったのです。そう答えるに違いありません。これ以外に人間の道、私の道はないのです。自分は人間として当たり前のことをしただけであり、その恵みに導いてくださったのは神様なのです。はじめは頭の中でだけ神様の救いを理解していた人も、信仰生活を重ねる中で、神様の恵み深さを味わうことができるように導かれていきます。神様の救いの恵みはこれほど素晴らしかったのかと驚くことが、信仰歴が長いキリスト者であっても、事あるごとに経験するということがあるのです。
このイエス・キリストによる救いの恵みを宣べ伝える働きが教会には与えられています。伝道は喜びの業です。けれども、同時に困難を覚えることがあります。その理由の一つに、自分は強い人間だ。自分には何の不足もない。すべてにおいて満足している。そのように今の自分に満足してしまい、イエス・キリストの救いなど必要ない。教会に行く必要もない。私には神も宗教も何もいらない。自分の力だけで何とかなる、私は強い人間なのだから。そう信じている人がいるということです。「すべてにおいて満ち足りている」というのは大袈裟かもしれませんが、案外、神を信じなくても何とかなるのではないかと思っている人は多いのではないしょうか。教会はそのような人に対して、「そうですね。あなたを見ていると本当に幸せそうです。別に教会に行かなくても何とかなりそうですね。」などとは言いません。しかし、問題は自信に満ち溢れている人、弱さをまったく見せないような人に対して、教会はどのように伝道したらしいいかということです。
13年程前に、アメリカのウィリアム・H・ウィリモンという牧師が書いた『教会を必要としない人への福音』(日本キリスト教団出版局)という興味深いタイトルの本が日本語に訳されました。たいへん読みやすい翻訳です。タイトルにあるように、「教会を必要としない人」というのは、先程申し上げました「自分は強い人間だ」「私の人生は満ち足りている」と言って、教会もキリストの救いも自分には必要ないと感じている人たちのことです。ウィリモンが指摘することは、教会はこのような人たちに対して、いや本当はいわゆる強い人に対してだけでなく、弱い人に対してもどのように伝道してきたか、どのように福音のメッセージを語ってきたのか。そのことを改めて問うのです。そのほとんどは、おそらく相手の弱さを指摘することから始めてきたのではないかということです。つまり、「あなたは罪人だ」「あなたには問題がある」と言って、あなたがどれだけダメな人間であるかをひたすら語り続け、自分の足で立つことができないようにしてしまうということです。膝から崩れ落ちて、罪の中でどうしようもできないと思っているところに、まるでアニメのヒーローが登場してきたかのように、イエス・キリストが出てくるのです。罪、イエス・キリスト、悔い改め、救いというふうに、誰に対してもいつも決まり切った順序なのです。このことが決して悪いとは思いません。ただ、自分は何の助けもいらないと言っている人に、初めからいくら罪の話をしても届かないのではないかというのです。
また、この本を読んでいて面白かったのは、ウィリモンが、「自分はキリスト者の証を聞くのが嫌いだ」と言っていることです。証しというのは、色んな証しがありますが、なかでも入信の証し、救いに導かれた証し、証言です。証しを聞いて不愉快になる人はあまりいないと思います。普通、多くの恵みを受けるものですし、私も皆さんの証しを一人一人聞いてみたいものです。でも、なぜウィリモンが証しを聞くのが嫌なのかと言うと、証しをすると皆一斉に、自分の惨めな話をし出すからです。まるで過去の不幸を競い合うように、如何に自分は悲惨な環境で育ってきたか、如何に自分は大きな病気や怪我で苦しんできたか、如何に自分は大きな罪を犯してきたか…。そのように自分で自分を最初おとしめておいてから、イエス・キリストのことを語り出すのです。証をするとはこういうことだ、救われるとはこういうことだといわんばかりに、皆お決まりのパターンで話し出します。しかし、ウィリモンは言います。私どもがどのように救いに導かれてきたのか。本当は人によってそれぞれ違うではいかと。いったい救われるとはどういうことでしょうか。その救いの恵みを人々の前に証言し、届けていくためにはどうしたらいいのでしょうか。キリストと出会う前、自分が如何に惨めであったかということをどこか自慢げに語ったり、相手の中にある罪や弱さなどの問題を見出して、相手がひざまずくまで罪の恐しさを語り続けることなのでしょうか。
本日、共に聞きました御言葉は使徒言行録第26章です。使徒であり、伝道者であるパウロが登場いたします。パウロの働きによって、キリストの福音がユダヤだけでなく、異邦人が住む小アジアと呼ばれる地域に(今のトルコ)、そしてヨーロッパに届けられることになります。やがて、そこから日本へ福音を伝えるために宣教師が遣わされます。そういう意味で申しますと、2千年前のパウロの働きのおかげで、今の日本の教会があると言っても過言ではないのです。伝道者パウロはどのように救いの証しを語り、福音を人々に宣べ伝えていったのでしょうか。
その前に本日の第26章の背景について簡単に説明します。パウロはこの時、アグリッパ王というユダヤの王の前で弁明をするという場面です。他にフェストゥスというユダヤをまとめていたローマの総督が一緒にいます。少し遡って第22章を見ますと、その時、パウロはエルサレムの神殿にいたのですが、ユダヤ人たちからいのちを狙われ殺されそうになりました。エルサレムで大きな騒動が起きているという知らせを聞いたローマ兵たちは何事かと言って、この騒ぎを鎮めます。おかげでパウロのいのちは助かりましたが、逮捕されることとなり、ローマに護送されることになるのです。パウロという男は別に死罪などに当たる罪をおかしているわけでないけれども、人々を混乱させ、何か良からぬ陰謀を企んでいるのではないかということで、色々と取り調べや裁判を受けることになったのです。そして、本日の第26章において、アグリッパ王の前で弁明する機会が与えられています。1節で「そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した」とあります。「弁明」とあるのですけれども、パウロが実際ここでしていることは、弁明することによって無実を証明して見せるというよりも、キリストの福音を語っていると言ったほうがいいかもしれません。世の権力者であり、王であるアグリッパに対して伝道説教をしているのです。
幸いアグリッパ王というのは、3節にあるようにユダヤ人の習慣や今回の騒動のもとになった論争点をよく理解していた人物でした。パウロはまず自分のことについて、自分の過去について話し出します。これは単に過去の自分の話というのではなく、如何にして自分はキリストに救われたかという信仰の証しであります。もう一度3〜5節をお読みします。「王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。」パウロは元々ユダヤ教徒であった人です。しかも熱心なユダヤ教徒で、自分の名前を知らない人はいないというほどによく知られた人物でありました。福音書にもよく出てきますが、ユダヤ教徒の中でも「ファリサイ派」と呼ばれる厳格なグループに属していた人です。幼い頃から、今で言う旧約聖書に学び、学びだけでなく、信仰生活の実践においても自他共に認めるほどの立派さに生きていたのです。パウロという人をこの世的な物差しで測るならば、まさに強い人間です。エリートであると言えます。自分に欠けなどない。すべてにおいて私の人生は満たされている。今の自分の力で十分に救いに至ることができるという自信に溢れた人間でありました。
その強いパウロが目の敵としたのがイエス・キリストです。そして、イエスを救い主と信じるキリスト者であり、教会でありました。9節以下で、「実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。…」とあるように、キリスト教会を迫害することに生き甲斐すら感じました。強いパウロ、すべてにおいて完璧なパウロにとって、イエス・キリストを救い主と信じることなどあり得ない話でした。特に、神の呪いである十字架につけられて死んだイエスをどうして「救い主」と呼べるのかというのです。十字架というものは、救いでも何でもない。あんなものはとんでもない罪、どうしようもない罪をおかした人間が殺される死刑の道具であり、それゆえ十字架には弱さしかない、死や滅びしかないというのです。強さを誇るパウロには当然受け入れがたい話でした。さらに、その十字架で死んだイエスが甦ったなどとキリスト者はおかしなことを言って人々を惑わしている。キリスト者など皆滅んでしまえばいいと本気で思っていました。この11節までが、いわば、イエス・キリストに救われる前のパウロの証しです。パウロはここで自分の罪や弱さを敢えて語るようなことはしていません。なぜなら、主イエスと出会うまで、本当に自分は強い人間だと思っていたからです。この世的な身分や立場が強かったというのもあったかもしれませんが、信仰という面において神様の前でも人々の前でも恥ずかしくない生き方をしているという自信があったからです。自分の中にある罪や色んな問題や悩みについて嘆くといことは、過去のパウロにとってあり得ないことだったのでしょう。
そんなパウロが主イエスと真実にお会いし、救われる場面がやって来ます。そのことが12節以降で記されて行くのです。この時もダマスコという町にある教会を迫害するために意気揚々と向かっていたところでした。そこに天からのまぶしい光が差し込み、思わず倒れ込んでします。すると、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という復活の主の声が聞こえてきたのです。サウルというのはパウロの以前の名前です。パウロは主の呼び掛けにました。「主よ、あなたはどなたですか」主はお答えになります。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」そして、主イエスはこの後、パウロを罪から救われただけでなく、パウロに福音伝道という使命をお与えになり、使徒として遣わすのです。いわゆる「パウロの回心」と呼ばれる出来事は使徒言行録に3度も記されています。第9章、第22章、そして、最後は第26章です。パウロが救いに導きいれられたのはまさに劇的な出来事でした。キリスト教会を迫害する者がキリストの福音を宣べ伝えるものへと変えられていったのですから。回心というのは向きを変えるということですが、パウロもまさにこれまでとの生き方とは180度違う生き方へと、キリストによって召し出されて行ったのです。
使徒言行録を記したルカという人は、3度もこのパウロの回心の出来事を記すのですが、それぞれに特徴というものがございます。最後の第26章において、他の2回の記事には記されていいなかった言葉がありました。それが復活の主がパウロに語った言葉であります。ここでは、たいへん丁寧な仕方で主イエスの言葉が記されています。いくつかのことに注目したいと思います。順序は逆になりますが、まず注目したいのは、16節冒頭「起き上がれ。自分の足で立て。」という主の言葉です。細かいことを申しますと、「しかし」という言葉が頭に付きます。「しかし、起き上がれ。自分の足で立て。」あなたはわたしを迫害している者。しかし、起き上がりなさい。自分の足で立ちなさいと主はおっしゃるのです。主はパウロが如何に罪深い人間であるかを語り続けたのではありません。初めから主イエスは復活の光の中に、パウロを招くことから始められるのです。
そしてお語りになります。「起き上がれ。自分の足で立て。」よく考えて見ますと、とても興味深い言葉です。なぜなら、パウロという人間ほど、私は自分の足で立っていると自負していた人間はいなかったからです。自分はいつもしっかりと立っているとパウロは思っていました。どんな困難や試練に襲われても、倒れることなく、自分の足で立つことができると信じてきたし、事実そのように生きてきました。しかし、そのパウロがついに膝から崩れ落ちるような経験をしました。それが、復活の主イエスとの出会いです。目を開けることができないほどの復活の主のまぶしい光の前にパウロは倒れ込みました。復活の主の前でひざまずく経験をしたのです。そして、主イエスは御自分の前で、ひざまずき、倒れ込むパウロに、「起き上がれ。自分の足で立て!」と呼び掛けます。復活の主イエスがパウロに伝えたかったこと、そして、私どもに対しても伝えたいこと。それは、「自分の足で立て!」ということです。これは決して、救いはあなたの行い次第、努力次第だということではありません。復活の主の光の中で、起き上がって、立つということ。主の御声によって立つということです。それは、あなたが立つべき足場、あなたが生きるべき足場をしっかりと見出すということでもあります。丁寧に言えば、自分で立つべき足場を見つけるというよりも、復活の主イエス御自身が私どもが立つべき真実の足場を与えてくださるのです。
人間にとって、自分の足で立つことは大事な問題です。つまり、自立するということです。いつまでも親や他人の世話になったり、迷惑を掛けるわけにはいかないのです。人の助けによってではなく、自分の力でちゃんと立つことができるように、一人でちゃんと生きることができるように。そういうことを子どもの頃から色んな人に教えられているのだと思います。しかし、聖書が語る大事なことは、あなたの人生の真実の足場はどこかということです。立つべきところに、ちゃんと立っているかということです。何によってあなたは立っているのかということです。神様からご覧になったらならば、たとえ、自分はしっかりしている。誰の世話にもなっていないし、迷惑も掛けていない。むしろ、人々に良い影響を与えて生きることができている。人間関係も仕事も、経済的な面も健康面も特に心配することはない。どんな時もちゃんと起き上がって、立つことができる余力がある。そのように言うことができたとしても、神に背を向け、神を信じなければ、それは空しい生き方だということなのです。
だから、主イエスはパウロにこのようにも言いました。14節「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う。」「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」という言葉は、ギリシアの格言の一つだと言われます。当時、牛を使って農地を耕す時、農夫はとげの付いた棒を鞭のようにして使っていたのです。牛が立ち止まったり、脱線してしまう時です。たまに牛が反抗して、棒を蹴り返すのだそうですが、とげがついていますから、痛いだけなのです。人間もまた、自分よりも大きな力に逆らうことは無力であり、余計に自分が傷付くだけだということです。パウロが教会を迫害し、復活の主に逆らうということもこれと同じです。「パウロよ、いくらお前が自分の生き方に誇りを持っていたとしても、わたしに背を向けるならば、それは実に愚かなことである。空しいことである。結局、自分で自分を苦しめているだけではないか、傷を負っているだけでないか。その傷は死に至るほどに致命的なものになっている。だから、復活の光に照らされて、わたしのところに来るように。わたしを信じるように。」復活の主イエスはそのようにパウロを招かれるのです。パウロがどれだけ主に背を向けても、逆らっても、違うところに行こうとしても、復活の主はパウロを救いへと導き、主の御旨にかなった歩みへと導かれるのです。
そして、パウロにしろ、私どもにしろ救われるというのは、同時に私を救ってくださった主イエスの使命に生きるということでもあります。パウロが与えられた使命というのは、福音を宣べ伝えるという使命でした。伝道者として生きることでした。「起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」人々の心の目を開くこと、そして、闇から光に、サタンの支配から神の支配に招くこと。神のもとに立ち帰らせること。これがパウロに与えられた使命でした。自分が幸せだと思っていても、不幸だと思っていても。また、自分が強い人間だと思っていても、弱い人間だと思っていても、いつも神様の支配の中に置かれていることを信じ、その恵みを見つめて真っ直ぐに生きていくことができるように導いていくのです。そして、聖なる者とされた人の集まりである「教会」に生きること。ここに、神の救いに生きる喜びがあります。このことはパウロだけではなく、すべての伝道者に、教会に与えられている使命でもあります。
さて、この後もパウロはアグリッパ王に対して、自分の証しを語ります。本当はまだまだ話を続けたかったのでしょうけれども、いいところで横槍が入ってしまいます。24節です。「パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。『パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。』」フェストゥスという人はローマの政治家です。政治にも法律にも詳しい人物です。何が正しいのか、何が正常なのかということを冷静に判断することができた人でありましょう。この世の常識を誰よりもよく弁えている人です。そのフェストゥスから見て、パウロの言動というのは、明らかに「頭がおかしい」としか言いようがなかったということです。パウロだけでなく、キリスト者の生活はそうでない人と違って、やはり変わったことがあるのも事実です。誰にでもすぐに受け入れてもらえれば、教会はもっと大きくなっていたことでしょう。
そういう意味で、私どもは「頭がおかしい」と言われるから、伝道が思うように進まないという面もあるのですが、パウロはフェストゥスの言葉を受けて、どう言っているかと言うと、こう言うのです。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。」パウロは決して、自分がおかしなことを言っているつもりはまったくありません。信じがたいほどの驚くべき福音の知らせを告げていると自覚はあったでしょうが、それは頭がおかしいからそう言っているのではないのです。そうではなくて、「真実で理にかなったこと」とパウロは言います。自分の気は確かであり、正常であり、ちゃんと分別があるということです。極めて自分は正気であり、現実的な話をしているというのです。
19節で、「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず」とありました。信仰というのは自分の思いつきではありません。「鰯の頭も信心から」ということでもないのです。信仰というのは、天から示されるものです。神様が「わたしはこういう者だ」と自らを示してくださり、神様御自身から救いの御言葉を語り掛けてくださることによって、信仰は生まれるのです。つまり、私たちの側で一所懸命になってというよりも、神様のほうが私どもに関心を持ってくださり、愛してくださり、私どもを救うためにすべてのことをしてくださるということ。そのことを信じるということです。
私どももキリストの福音に生き、福音を宣べ伝えながら生きています。伝道の困難やキリスト者としてこの世で証しする生活の難しさを覚えることもあります。家族や周りから、「付き合いが悪い」などと言われて、冷たい目で見られることもあるかもしれません。しかし、私どもは確かに周りとは違うということを認識しながらも、一方では、私が私として生きるというのはこういうことだったのかと言って、救いの喜びに生きているのではないでしょうか。キリストによって救われるというのは、もちろんこれ以上にない特別なことですけれども、別の見方をすると、また神様の思いからすると、「わたしを信じて、わたしのことを喜んで生きることこそが、あなたのあるべき姿、自然な生き方なのだ」ということです。また、自分は弱いから宗教が必要で、自分は強いから宗教など必要ないという話でもありません。周りからあの人はキリスト教という宗教を信じている人だと言われることがあっても、主を信じている私どもは、宗教を信じている人間だとは思っていません。キリストに救われ、キリストの福音に生かされているだけであって、自分としてはごく普通の生き方、真実で理にかなった生き方をしているだけなのだと思います。
パウロはここぞとばかりに、アグリッパ王に対して信仰を迫ります。27節「『アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。』アグリッパはパウロに言った。『短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。』」この時、パウロの目に、アグリッパ王がどのように見えたのでしょうか。本当に信じようかどうか迷うところまでいっていたのでしょうか。詳しいことは分かりませんが、パウロには神に近づいているという感触を得たのかもしれません。パウロの言葉に思わず、「私をキリスト者にしてしまうつもりか」とアグリッパ王は言い返すのですけれども…。このアグリッパ王のような人たちというのは、実に多いのではないかとある人は指摘します。主イエスもまた、ある律法学者に「あなたは、神の国から遠くない」とおっしゃったことがありました(マルコ12:34)。また、富める青年に対して、「あなたに欠けている者が一つある」とおっしゃいました。遠くないのです。あと一つのところまで来ているのです。でも、その一歩を踏み出して行くことができないのです。これはもはや距離の問題ではありません。その人の勇気の問題です。神様と私との間の溝は、もはや問題ではありません。すぐにでも飛び越えることができます。しかし、その谷底のような深いところに落ちたらたいへんだと言って、恐れに捕らわれ、なかなか前に飛ぶことができないのではないでしょうか。そのような方には、ぜひ祈りつつ、自分を完全に神様に明け渡していただきたいと心から願います。あと一歩で飛び越えて行くことができるのですから、主イエスを見つめ、主の懐に飛び込んでいただきたいと願います。主イエスは喜んで私どもを受け止めてくれるのです。
パウロは最後にこう言いました。29節「パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」パウロの願いは、それはアグリッパ王に対してだけでなく、すべての人に向けられた願いでもあります。それは、すべての人が「私のようになってほしい」ということです。イエス・キリストの甦りの光の中で、神のもとに立ち帰り、罪赦された喜びに生きてほしいということです。キリストによって開かれた目で、神様をしっかりと見つめて生きてほしい。主イエスからの与えられた使命に向かって歩き出すために、あなたもぜひ起き上がってほしい。自分の足で立ってほしい。
またパウロは、「私のようになってほしい」と語りつつ、一番最後に「このように鎖につながれることは別ですが」と半分ユーモアを込めて信仰の証しをし、福音のメッセージを閉じています。キリスト者であるという理由で、捕らえられ、鎖につながれてします。こんな理不尽なことはないかもしれません。しかし、パウロはユーモアを口にできるほどのゆとりを持って生きていました。それは、鎖につながれているという現実を、遥かに越える素晴らしい現実に生かされていたからです。つまり、イエス・キリストにつながれているという現実こそ、私にとっての真実であるということです。主につながれているならば、この世に鎖もまた、苦しいには違いないのですが、一つの過程に過ぎないということです。やがては朽ちて行くものだということです。キリストという鎖こそが確かなもの、絶対的なものなのです。お祈りをいたします。
主の御声によって、私どもが自分の足で立つことができますように。強くても弱くてもすべての人が、主よ、あなたの救いを必要としています。キリストの救いの光に照らされ、開かれた目で主が示してくださる道をしっかりと見つめ、前に進んで行くことができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。