2021年08月22日「神に熱中して生きる」
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神に熱中して生きる
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出エジプト記 20章1節~17節
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聖書の言葉
1神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」出エジプト記 20章1節~17節
メッセージ
キリスト者の生活の中心にあるのは「礼拝」です。特に神様が「ここでわたしと会おう」と約束してくださった主の日の礼拝が、いつも私どもの歩みの出発点となります。そして、遣わされて生きる日々の歩みもまた、神様の御前にあり、それゆえ神を礼拝する歩みを重ねているということでもあるのです。礼拝をささげる時、何が重要になってくるのでしょう。これがないと礼拝が礼拝でなくなってしまうものとは何でしょうか。例えば、御言葉が語られ、聖礼典が執行されることも大事なことでしょう。主の日の礼拝に向けて、信仰の姿勢を整えることも大事です。悔い改めと同時に、赦されていることへの感謝を携えて礼拝に出席するのです。他にも、礼拝における大切な要素はたくさんあることでしょう。しかし、その中で、これがないと礼拝が礼拝にならないもの。それは、今も生きておられる神様がこの礼拝の場に共にいてくださるということです。そして、礼拝に集う私どもが「あぁ、本当にここに神がおられる」ということを信じ、その恵みにあずかることです。来るべき主の日の礼拝に向けて、色々と準備して望むことは大事なことですが、それ以上に主なる神様がここにいてくださること。このことが決定的に重要になります。そうしませんと、何を礼拝しているのかということもなりますし、説教も礼典も結局牧師の業、人間の業になってしまいます。悔い改めても、感謝をささげても、ここに神様がいてくださらなければ、どうしようもありません。空しいだけです。もちろん私どもは次の日曜日の礼拝には、神様がいてくださるだろうか?と心配しておられる方はおられないのではないかと思います。私どもを礼拝に招いてくださる主は、礼拝の場においても、最後まで共にいてくださいます。私どもは今教会員と共に礼拝をささげています。でもそれだけではないのです。何よりも神様と一緒に、また復活の主と共に、今ここで礼拝をささげているということです。
キリスト者は、礼拝において主が共にいてくださるということを信じています。しかし、まだ神様を知らない人たちにとっては、少し難しい話かもしれません。ある本にこんなことが記されていました。昔、教会が誕生したばかりの頃、ギリシアやローマの人たちは、キリスト者たちというのは、「無神論者」だと勘違いしていたようです。なぜ、イエス様を信じている私どもが「無神論者」と呼ばれるのか?まったく理解できないのですけれども、理由を聞くとなるほどと思うわけです。つまり、キリスト者たちが集まる教会や礼拝堂の中には、信じている神の像というものがまったくないのです。誰もが目で見て、「あぁ、これがこの人たちが信じている神なのか」とはっきりと分かるような物が何もないのです。人間が集まらないと、まるで空っぽの部屋に過ぎないのです。それで、ギリシア人やローマ人は、キリスト者というのは何を信じているのかよく分からない人たちだ、無神論者なのだ。そう思ったというのです。
人間は心の深いところで、神を慕い求めている存在です。しかし問題は、その神はどこにおられるのかというのです。「ここにいますよ!」と肉の目ではっきりと見ることができなかったり、自分の手で触れることができなければ、不安になって、神様をちゃんと信じることができなくなるのです。そしてこのことは、まだ洗礼を受けていない人に限った話ではないということです。もう既に洗礼を受け、キリスト者としての歩みを長く重ねている者にとっても、神様が見えないということに不安を覚えてしまうということがあるのだと思います。その時に、つまり、神が見えないという不安に襲われる時、人をどのように変わってしまうのでしょうか。
夕礼拝では6月から十戒について学んでいます。本日は「第二戒」に当たる部分、聖書で言うと出エジプト記第20章4〜6節です。少し長い箇所ですが、短くまとめますと「あなたは自分のために刻んだ像を作ってはならない。」あるいは、「あなたはいかなる像も造ってはならない。」ということができます。神がどこにおられるか分からない時、人は像を造るのです。偶像を自らの手で造るのです。そのようにして、いつも神がおられるという安心感を自分の手で造り出そうとするのです。それは先程も申しましたけれども、キリスト者であっても同じです。具体的に大きな像を造るようなことをしなくても、これがあれば神様がおられることが分かるという物を造ろうとします。具体的な形にする人もいれば、心の中に形作る人もいるでしょう。そして、神様御自身ではなく、自分が造った像を神とするのです。
このことですぐに思い出すのは、「金の子牛」と呼ばれる出来事です(32章)。この時、イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセが、シナイ山の上で、神様から十戒を授かっていました。イスラエルの民は山の下でモーセを待っているのです。しかし、なかなかモーセは山から降りて来ません。それで人々はどうしたかと言うと、モーセの兄アロンに詰め寄るのです。「我々に先立って進む神々を造ってください。」なかなかモーセが山から降りて来ませんから、モーセも私たちを救ってくださった神もどこかに行ってしまわれた。私たちを見捨てられたのだと思ったのでしょう。それでアロンは人々から金の耳輪を集め、それで金の子牛を造りました。「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言ったのです。イスラエルの人々にしろ、アロンにしろ、なぜこんな愚かなことをしたのか。まことの神を知っていながら、なぜ神様を悲しませてしまうようなことをしたのか。私どもは簡単に批判できるかもしれません。しかし、このような誘惑というのが絶えずあることに注意しないといけないと思います。
第二戒は「偶像礼拝の禁止」が語られているのですが、ではこの「偶像礼拝」というのは、いったい何を意味するのでしょうか。普通はこう考えると思います。偶像を礼拝するというのは、まことの神様とは違う異教の神々を礼拝すること。異教の神々を祀った像を神とすることだと。これは当然正しい理解です。イスラエルの民は、常に異教の神々を信じる民族に囲まれるようにして生きていました。だから、そのような中にあって、いつもまことの神のみを見つめ、礼拝をささげる必要がありました。そして、もう一つのことがあります。偶像礼拝というのは、私どもが信じているまことの神様の像を造り、偶像化してはいけないということでもあります。異教の神々というのは元々偶像なのです。問題は、まことの神様を偶像にしてしまう。像を造ってしまうということです。
この関連で少し細かい話になりますが、十個の戒めをどの言葉で区切るか。このことについて教会教派によって少し理解が異なります。私ども改革派教会は、4〜6節の部分を第二戒と数えます。でもカトリック教会、ルター派の教会は、3〜6節が第一戒と数えるのです。そして7節の「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」という言葉を第二戒と数えます。このまま進んで行くと数が合いませんから、17節前半の「隣人の家を欲してはならない。」という部分を第九戒。17節後半の「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」という部分を第十戒と数えます。私どもで言う第二戒は、カトリックやルター派では第一戒の延長あるいは補足のような形で捉えられます。中心にあるのはやはり3節の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という言葉になるです。エジプトからあなたがたを救い出した神は、ただお一人なのだから、その主なる神様を礼拝することこそがあなたがたがなすべきことである。だから、他の神々を礼拝することなどあり得ないのであって、4節にあるように偶像礼拝などということも当然あり得ないことなのです。そう理解するわけです。改革派教会も第一戒とのつながりを大切にして4〜6節を読みます。でも、第一の戒めの一部、補足というふうには考えません。ちゃんと切り離して考えるのです。偶像礼拝の恐ろしさというのは、ただまことの神を知ってさえいれば、簡単に避けることができるものではないということでしょう。あるいは、異教の神々や偶像さえ拝まなければ、偶像を造る罪から簡単に逃れることができるわけではないということでしょう。むしろ、私どもが当たり前のようにまことの神に従い、礼拝しているところで、偶像を造り、神を悲しませてしまう罪をおかす現実があるのだということです。神さえも、私どもはすぐに偶像にしてしまうということです。
私どもが、偶像を造り出してしまうのは、神が見えないという不安から来るものです。でもそれだけではないと思います。神が目に見えても見えなくても、本当のところはどちらでもいいのではないでしょうか。むしろそれよりも大事なのは、神というお方を自分の手の中に収めておきたいということです。神様というお方は、自分の思いどおりの神様でいてくれなければ困るのだということです。4節に「あなたはいかなる像も造ってはならない。」とありました。この新共同訳の翻訳ですが、大事な言葉が一つ抜けているのです。それは「自分のために」という言葉です。つまり、「あなたは自分のためにいかなる像も造ってはならない」というのです。まことの神様であろうと、異教の神々であろうとそれらの偶像を造って拝む行為は、結局のところ何のためなのでしょうか。それは自分のためだというのです。いつも自分が中心にいて、神は自分に仕える神なのだということです。自分に利益をもたらし、自分が思いどおりに生きることができるように助けてくれる、そのような神を求めているということです。像を造って、神とするとはそういうことです。そして、もし自分の役に立たないと思えば、今まで神としていたものを捨てて、新たな神を造り出すのです。
神が見えない時、神がおられることが不安で分からなくなる時、私どもは神を見える像や形にしようとしてしまいます。自分の手の中から神様が落ちてしまわないように、神を小さくしてしまいます。自分の思い描く範囲内でしか、神のことを考えることができなくなります。自分なりに一所懸命、神について理解しようと努めるのです。でも、そこで過ちをおかすことがあるのだということです。神様のためにと言いながら、本当は自分のために神を造り出しているに過ぎないことがあるのです。そして、これはキリスト者にも言えることなのです。神様のことについてもっと知りたいと思いますし、試練の中で神様のお姿が見えないと思ったら不安になります。どうしても神様をはっきりと見出したいと願います。でもなかなか思うようにいかない時、知らず知らずのうちに神を小さくし、神様とはこういうお方なのだと勝手に言って、結論を自分で導き出すのです。でもそこで、神様について大きな思い違いをしてしまっているということがあるのではないでしょうか。
偶像の特徴について聖書は色々なことを語ります。一つは、空しいものであり、無力であるということです。自分の役に立つ神を造りたいと思って、人は偶像を造るのですが、そんなものは何の役にも立ちません。もう一つの特徴は、口を利くことができないということです。エレミヤ書第10章(5節)では、偶像はきゅうり畑のかかしのようで、口も利けないし、歩くこともできないと批判しています。ただ、人間にとっては、神が口を利けないというのは実に好都合なのです。それは自分の思いどおりに生きることができるからです。神様に「あなたはこのように生きなさい」とか、「それはしていけない」というふうに、絶えず口出しされては困るのです。自分に生きたいように生きることができないからです。だから、人間は偶像の神を求め、その像や形を造り続けてきました。
では、私どもキリスト者が、第二戒の言葉に正しく生きるためにはどうしたらいいのでしょうか。それは、やはり神様の言葉にこれからも聞き続ける姿勢を大切にすることです。「十戒」というのも、これは「十の言葉」という意味でした。十戒をとおして神様はイスラエルの民と契約を結んでくださいました。「わたし」と「あなた」という人格的な交わりと築こうとしてくださいました。その中心にあるのが十の言葉である十戒なのです。御言葉によって、神様は御自分の御心を明らかにしてくださり、救いに招き入れてくださり、共に生きようとしてくださるということです。
私どもも神様のことについて知っていることはたくさんあります。けれども、分からないのに分かった振りをしたり、もうこれ以上聖書から学ぶ必要はないという人はいないと思います。分かっていたつもりでも、違う角度から光が差し込み、新たな発見をすることがあります。また、私どもはいつも同じ状況に置かれているわけではありません。その時々によって、御言葉の聞こえ方、響き方はまったく違ってきます。理解しようとすること、分かろうとすることは大事です。でも、最後は御言葉をとおして、私どもはいつも教えられてきたのではないでしょうか。その度に、神様が共におられるということを信仰の目ではっきりと見ることがゆるされてきたのです。また、出エジプトの出来事もそうですし、イエス・キリストによる救いもそうですが、神様の思いというのは、私どもの思いを遥かに超えています。私どもが考え、私どもが望む前に、神様はすべてのことを計画してくださいました。そして、救いの恵みの中に入れるために、神様のほうですべてのことをしてくださったのです。
礼拝においても、普段の生活においても、神様が目の前におられるのにもかかわらず、偶像を造ること。これほど空しいことはありません。聖書の最初に記されている「創世記」を見ますと、私ども人間がどのように造られたが記されています。人間が人間であるということ、私が私であるということはどういうことなのでしょうか。それは、私ども人間が神にかたどって創造されたということです。あるいは、神に似せて造られたということです。「似る」に「像」と書いて、「似像」と呼ぶこともあります。人間は神に似ている像なのです。しかし、このことが逆転し、今度は人間が神の像を造り始めてしまうということ。これはもう神様から見れば、人間が人間でないということ、あなたがあなたでなくなることと同じだということです。私どもは何よって存在するのか。何によって生きるのか。それは神様であり、キリストの救いによるということです。そして、キリストによって新たに創造された人間とされていることであり、神にかたどられた存在であるということです。このことをしっかりと心に留めたいのです。
さて、この第二戒の戒めについて、聖書ではもう少し丁寧な説明が加えられています。5節の途中までお読みします。「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。」ここで、2節の前文の時と同じように、神様が「わたしは主、あなたの神」と御自分のことを私どもに紹介しておられます。神様というお方は、わたしとあなたという交わりや関係といったものを大切にしてくださるお方です。あなたの存在なしに、わたしがわたしでいることができない。それほどにあなたのことを愛しているとおっしゃってくださるのです。だからこそ、イスラエルの民をエジプトから救い出してくださいます。その神様がこの5節では「わたしは熱情の神である」と御自分を紹介されます。「熱情の神」というのも、字の如く、熱いものを感じるかもしれません。ただ、以前の口語訳聖書などでは「妬む神」となっていました。実際、「妬む」と訳したほうがいい言葉なのです。なぜ「熱情の神」となったのかは分かりません。もしかしたら、「妬む」という言葉はあまりいい言葉ではないと思ったのでしょう。人間ならば、誰かを妬むことはあります。そういうドロドロしたところが人間にはあるのです。でも、神が妬むというのはどういうことなのだろうか。神にふさわしくない言葉ではないか。そう思って「熱情の神」と訳したのかもしれません。しかし、「熱情の神」というふうに訳しますと、これは神様のご性質を表す言葉になります。相手が人間であろうとなかろうと、神様は熱情に溢れているお方ということになります。けれども、「妬みの神」というのは、明らかに「相手」がいるということです。妬む相手、それは他の誰でもない私ども人間であります。神はいつも私どもの関わりを大切にしておられるということです。
だから、私どもが神に対して、何をしてもいい。好きないようにしてもいいというのではないのです。神様とイスラエルの関係はしばしば夫婦関係にたとえられることがあります。夫婦の関係にあるのに、何をしてもいいということではありません。目の前に夫や妻がいるのに、別の相手を好きになる。そのようなことが許されるはずはありませんし、耐えられないことです。そして、妬むというのは、よく「妬むほどその人のことが好きだ」というふうに説明されることもありますが、単に程度の問題がここで言われているのではないと思います。そうではなくて、お互いの信頼関係が壊れてしまうということに神様は耐えられないというのです。あなたが私を裏切ったならば、わたしがわたしでいることができない。そのことに耐えられるはずがない。それほどにわたしは妬む神なのだというのです。ある人はこのようなことを言っています。「人間は神なくして済ますことができる。しかし、神は人間なくして済ますわけにはいかない。」そのようにおっしゃってくださる神であるからこそ、私どもは罪の奴隷から救っていただいたのです。偶像を造っては壊し、造っては壊すという空しい生き方から解き放たれ、自分のためにではなく、神様のために生きることができるように変えられたのです。
最後に、神様はこうおっしゃいました。5節の後半から6節。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」罪をおかしたら、その責任をあなたの子孫にまで問う。しかし、わたしを愛するならば、慈しみが与えられるだろうというのです。これはいわゆる「因果応報」ということではありません。強調したいのは、神様の慈しみが幾千代にも及ぶということです。神の否んだ場合の「3」「4」という数字と、神を愛した場合の「1000」という数字ですが、これは両者比べ物にならないほどのアンバランスな数字です。罪に対する怒りにとは比べ物にならないほどの祝福が、神を愛する者には与えられるというのです。正確に数えることはできませんが、神がイスラエルの民に十戒をお与えになった時から、今に至るまで果たして千代も数えたのでしょうか。まだ千代にさえ達していないと思います。それほどに神様の慈しみは今に至るまで真実であるということです。その真実をもって、神様は私どものことを見ていてくださいます。今だけではなく、将来のこと、私たちの子どもや子孫、教会のこれからについて見ていてくださるのです。
また、最後の神様の言葉は、子どもたちへの信仰継承、家族への伝道についても教えられる御言葉です。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う。」神様は厳しいことをおっしゃいました。でもよく考えて見ると、もし家族の中で、特に父親などが神を否むようになり、神を憎むようになったならば、その影響は当然その家族全体に、子どもたちや子孫にまで及ぶのだと思います。脅しでも何でもなく、あなたが神を否めば、家族も自然に神を否んでいくのだと思います。しかし、家族の中で、自分だけがキリスト者として生きているという人も教会の中にはたくさんおられます。家族の中でたった一人かもしれません。しかし、その自分が神を心から愛し、心から神を礼拝し、神の戒めに生きるならば、その祝福というのは、本人の願いや思いを超えて自分の子どもたちに、家族全体に、そして、まだ見ぬ子孫たちにまで及んでいくのだと神様は約束してくださいます。子どもや家族の救い、若い世代への信仰継承というのは、どのキリスト者にとっても、どの教会にとっても大切な祈りの課題です。自分の子どもだからといって、自分の夫、妻だから、簡単に伝道できるわけではないでしょう。むしろ、近い存在であるがゆえに、余計に難しいとことがあるかもしれません。しかし、神を愛し、御言葉によって真っ直ぐ生かされる時、そこに神の慈しみが家族の中にすでに広がっていることを、私どもは信じることができます。自分のために生きるのでもなく、自分の益のために神を信じているのでもなく、ただ神様の御栄えが現されるために生きていきたいと願います。そのような歩みの中に、神様は新たに救われる者を起こしてくださるのです。お祈りをいたします。
神様、あなたのお姿をこの目で見ることはできませんが、肉の目で見るよりももっと鮮やかな仕方で、私どもの前に御自身を明らかにしてくださいかました。どうかこれからも、礼拝において、御言葉において、あなたが生きて働いておられることを知ることができますように。御心を知り、ますますあなたを愛し、喜んで主にお仕えする信仰をお与えてください。主イエス・キリストの御名によって、祈り願います。アーメン。