2021年08月22日「神こそがあなたがたの父」
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神こそがあなたがたの父
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イザヤ書 63章15節~64章4節
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聖書の言葉
63:15どうか、天から見下ろし/輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか/あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしに示されません。16アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。17なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの嗣業である部族のために。18あなたの聖なる民が/継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。19あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。64:1柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように/あなたの御名が敵に示されれば/国々は御前に震える。2期待もしなかった恐るべき業と共に降られれば/あなたの御前に山々は揺れ動く。3あなたを待つ者に計らってくださる方は/神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も/目に見た者もありません。4喜んで正しいことを行い/あなたの道に従って、あなたを心に留める者を/あなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました/わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって/わたしたちはとこしえに救われます。イザヤ書 63章15節~64章4節
メッセージ
私どもは、大きな声で叫びたくなるような辛い現実の中に立たされることがあります。大きな病を患う時、死の恐れを覚える時、愛する者を失う時、思い描いていたような人生の道を歩むことができない時、大きな挫折や失敗を経験する時、人間関係が上手く行かない時、他にも数え上げればきりがないでしょう。決して、ニュースや新聞で取り上げられるような大きな出来事や事件ばかりとは限りません。他の人からすれば、ニュースでも何でもないような小さな出来事であっても、この私にとってはとても身近な問題で、大きな出来事と言えるものがたくさんあるのではないしょうか。自分だけが悩んでいる。自分だけが嘆いている。そういう孤独の中で、目の前の出来事と向き合わなければいけないということ。それはとてもたいへんなこと、忍耐がいることだと思います。
また、神を信じている私どもであっても、嘆かざる得ない現実から完全に切り離された生活をしているわけではありません。嘆く声、叫ぶ声の大きさはそれぞれ違うかもしれませんけれども、やはり叫ばざる得ない現実の中に私どもはよく立たされるのです。今の自分は比較的順調に行っている、特に悩みもないという人も、共に生きる教会の兄弟姉妹を見つめる時、その方の重荷を共に担うようになります。また、神様というまことの光の中に生かされているがゆえに、自分自身はもちろんのこと、共に生きる家族や友人、この国やこの世界を見つめる時、そこにある闇がより一層濃く見えることがあるのです。決して、他人事とは思えない現実を、私どもキリスト者もまた背負いながら生きているのです。
そのような中で、この地に教会が建てられ、こうして礼拝がささげられています。ですから、この世におけるキリスト教会の存在意義、またここでささげられている礼拝のことについて、絶えず問い続ける必要があります。以前ある牧師の方が、本の中で、ただ嘆くためだけに教会に集まるということがあってもいいのではないかと言っています。嘆くためというのは、何よりも嘆きの祈りをささげるためにということでしょう。戦争とか災害とか、まさにニュースになるような悲惨な出来事に襲われたならば、「嘆くため」に教会に人が集まって来るかもしれません。皆で心を合わせて祈りをささげることでしょう。逆に、「今は危ない時だ」と言って、教会に行くことを躊躇する人も出てくるかもしれません。しかし、大きな出来事が起こった時だけでなく、いつも教会や礼拝が嘆きの場所、叫びの場所となっているかどうか。このことはとても重要なことだと思います。なぜなら、嘆くこと、叫ぶこと、また祈ることをとおして、神様とお会いするということ。神様の救いの恵みにあずかるということが実際に起こるからです。教会が絶えず嘆く場所と存在するためには具体的にどうしたらいいのか。今でも私の中で問い続けていることです。私が教会を代表して、嘆きの祈りをすればそれでいいというものでもないでしょう。もしかしたら色んな形があるかもしれませんが、いずれにせよ、絶えず祈りつつ「祈りの家」としての教会、しかも、そこで嘆き叫ぶような祈りがささげられるということ。このことはとても大切なことだと思います。
つい先日まで夜の祈祷会では『祈り』という本を毎週読み続けていました。左近豊という日本キリスト教団の先生が書かれたものです。多少難解な文章ですが、落ち着いて丁寧に読めば、本当に多くのことを教えられます。祈りについて記された書物はたくさんある中で、左近先生が特に意識されたのは10年前の東日本大震災です。震災を経験した私どもキリスト者の祈りはどのような祈りになるのか。どのような祈りに変えられていくのか。そのことに関心を持って、御言葉に聞きながら、この祈りを書物を書いておられます。その本の初めのほうに中に、こういう話が紹介されていました。76年前の戦争時の体験談であり、信仰の証です。その人は秋月辰一郎という長崎に住む医師です。長崎に原爆が投下された時、爆心地に近い病院の院長をされていました。1945年8月9日以降、家も家族も失って重傷を負った人たちが次から次へと崩れ落ちた病院に逃げ延びてきたというのです。焼け残った木陰にも避難してきます。灼熱の太陽が沈み、真っ暗闇に覆われる中、体中やけどで覆われて痛みと渇きに苦しむ人たちの呻き声があちこちに聞こえたのだそうです。
ところが、どこからともなく祈りの声が聞こえてきたのです。もう言葉など喋れるような状態ではないのに、カトリック教会でいう「ロザリオの祈り」と呼ばれる祈りをささげていたのです。その中には、私どももささげている「主の祈り」も含まれています。「イエス・キリストよ、われらの罪をお赦しください。地獄の火よりお守りください。われらの霊魂を天国に導いてください。」「われらに罪を犯すものをわれらが赦す如く、われらの罪をもゆるしたまえ。」長い夜が明け、朝日が昇る頃、ほとんどの人が亡くなっていました。死に瀕して、地上の最後の息を祈りと共に引き取ったことを知った秋月医師は圧倒されます。地獄のような現実の中で祈る人たち、すべてが塵芥となった地で、毎晩祈る人たちをとおして、秋月医師は教えられるのです。祈りで病気が治るようなことではなく、「祈ること自体が救いなのだ」ということを。祈りながらが息を引き取っていった、その人たちの祈りに導かれるようにして、秋月医師はのちに洗礼を受け、キリスト者になりました。秋月医師が言うように、「祈ること自体が救いだ」という証は、祈りをとおして自分はイエス・キリストと真実に出会ったということです。私どもにはそれぞれ願いがあり、望みがあり、憧れがあります。しかし、それらの望みがついえたとしても、それでも、いやそこでこそ、キリストはあなたと本当に出会ってくださるということです。
本日は旧約聖書イザヤ書第63章15節以下の御言葉を共に聞きました。今から約2500年前、主イエスがベツレヘムお生まれになる約500年前の出来事を記したものです。「イザヤ書」という名前にもあるように、預言者イザヤが最初から最後まですべて記したものだと言われてきましたが、どうも一人の人物が全部書いた訳ではないだろうと最近では言われています。終わりのほうにあたる第56章から第66章までは、「第三イザヤ」という無名の預言者が記したものだと言われます。神の民イスラエルにとって最大の悲劇とも言える出来事は、「バビロン捕囚」と呼ばれるものです。大国バビロンに敗れ、イスラエルのおもだった人たちがバビロンの地に連れて行かれました。異国の地、異教の地で約70年もの間、捕囚の民として生きていかなければいけませんでした。周りからすれば、イスラエルがバビロンとの戦争に敗れ、その結果、捕囚の民となっただけではないかというふうに思われるかもしれません。しかし、バビロン捕囚の背後にあるのは、信仰の問題です。神様との問題です。神様に背を向けるイスラエルの民に、何度も「立ち帰るように」と命じるのですが、まったく聞く耳を持たないのです。やっと帰って来たと思ったら、またすぐ離れてしまう。そういう歩みをイスラエルの民は繰り返しました。神様はついに、バビロン捕囚という出来事をとおして、イスラエルの民に裁かれたのです。赦しが与えられるまで、70年もの時が必要でした。
赦されるというのは、捕囚から解放されることを意味しました。つまり、自分たちの故郷であるエルサレムに帰ることができるということでもあったのです。ペルシアのキュロス王によって、バビロンが倒され、捕囚の民はエルサレムに帰ることができました。いつか必ず帰ることができる日を信じ、祈りつつ待ち望んでいたことでしょう。そして、ついに故郷に帰ることができました。70年もの月日が経っていますから、バビロンで生まれ育った人たちも多かったことでしょう。若い時にバビロンに連れて来られた人たちもすっかり老人になっています。ずっと帰りたいと願っていたエルサレムに帰ることができました。どれだけ大きな喜びが彼らを包み込んだことだろうかと私どもは想像します。しかし、現実はそうではありませんでした。帰ることができたこと自体は嬉しかったに違いありません。でも、目の前に広がる町は荒廃しているのです。家や他の建物も廃墟と化しています。イスラエルの誇りであったエルサレム神殿も崩れ落ちたままです。町は瓦礫の山でいっぱいです。かつてのような美しさはもうエルサレムにはありません。荒れ果てたこの状態からすべてを建て直して行かなければいけないのです。気が遠くなるような再建への道のりです。ついに帰って来ることができたという喜びも束の間、自分たちを取り囲んでいるのは、目を覆いたくなるほどに厳しい現実でした。そういう中で町や神殿を造り直していかなくてはいけません。また、エルサレムに帰るというのは、神様のもとに帰るという信仰的な意味がありました。ですから、神様の前に心から悔い改め、エルサレムの地でもう一度、神の民としてふさわしく歩むことができるように、自分自身を建て上げていく必要があったのです。
けれども、彼らにとってあまりにも驚くべき現実を前にして、どうしたらいいか分からなくなりました。この悲惨な現実から何をすればいいのか、何から手をつければいいのか。そのことが分からなくなりました。神様の栄光がこのエルサレムの地に示されているようにはまったく見えないのです。神様が本当に生きて働いておられるのか。そのことさえも疑ってしまうような現実の中で、イスラエルの民の信仰は弱くなっていきます。神を信頼することができなくなってしまいました。神様の名を呼ぶことさえもできなくなります。つまり、祈ることすらできなくなってしまったということです。そして、再び自分勝手に生きるようになったのです。バビロンにいた時は、「70年経てば必ず帰ることができる」という希望がありました。その希望や憧れというものがバビロンでの苦しい生活を支えてきました。けれども、実際その願いが実現し、エルサレムに帰ってみると自分たちが思い描いていた町ではなかった。バビロンにいた時のほうがいい生活をすることができたのではないかと思うほどに、悲惨な光景が目の前に広がっていました。いったいどこに神がおられるというのか…。
そのような中、預言者イザヤが立ち上がり、口を開くのです。祈り始めたと言ったほうがいいかもしれません。静かな祈りではありません。叫ぶような、嘆くような祈りです。第63章15〜16節にこのようにあります。「どうか、天から見下ろし/輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか/あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしに示されません。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」預言者というのは、人々に伝えるべき言葉を神様から与えられ、その言葉を曲げることなく真っ直ぐに伝える人です。「神様、あなたがおっしゃっていることは少しおかしいです。あまりにも厳し過ぎます。だから、私のほうで違う言葉に変えて伝えておきます。」もしそのように言ったならば預言者失格です。与えられた御言葉を真っ直ぐ語り、人々を悔い改めに導き、正しく神に従う者へと導かなければいけません。預言者としての大切な務めを担っているイザヤが、しかし、ここでは驚くべきことに神に向かって問いを投げかけています。神を訴えていると言ってもいいのです。このエルサレムの現実を見てください。これのどこにあなたの栄光が満ち溢れているというのですか。これのどこにあなたのたぎる思いと憐れみが表れているのですか。神よ、あなたは私たちに対する熱い思いを抑えているのではないかです。何もしていないことと同じではないですか。そんなことしなくていいですから、神様今こそ、生きて働いておられることをここですぐに明らかにしてください。
そして、17節の終わりでこう叫んでいます。「立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの嗣業である部族のために。」また、19節でこう言っています。「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」神様に向かって、私たちのところに立ち帰るようにお願いしています。普通は逆ではないでしょうか。立ち帰るべきは私どもです。神様から離れていた私どもが、神様の御声を聞いて、神様のところに帰って行くのです。でも、イザヤはまるで神様が、自分たちのところから離れてしまったかのような言い方をしています。だから、「立ち帰ってください、あなたの僕たちのために」と言うのです。そして、「天から降ってください」と叫ぶようにして懇願します。要するに、輝かしい天の住まいにずっと居ないで、この地上に、この世界に降りて来てください。神の輝きなど見ることができないこの場所に来てくださいとお願いするのです。まるで、神を引きずり降ろそうとするような、ずいぶん激しい祈りでもあります。決して、上品な祈りではないでしょう。でも、このイザヤの叫びこそが、あなたがた信仰者の祈りであり、教会の祈りでもあるのだと聖書は語ります。イザヤの言葉は決してきれいなものではありません。しかし、イザヤの心は常に神に向いています。誰か他の人間に向けて語っているのではありません。あるいは、一人で考え込んでいるのでもないのです。あるいは、何も考えられないと言って、一人うずくまって絶望しているのでもありません。イザヤはいつも神のほうを向いています。神に心を向けて問い、そして訴えています。「どこにあるのですか/あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしに示されません!」「立ち帰ってください!」「どうか、天を裂いて降ってください!」
そして、イザヤは神様のことをこのように呼ぶのです。16節「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。」19節にあるように人々は、神の御支配がここにあることを信じることができなくなっています。もう神をどう呼んだらいいか忘れてしまっていたかもしれません。たとえ、呼ぶことができても何の喜びも生まれなかったかもしれません。でも、イザヤはここではっきりと神の名を呼ぶのです。「あなたはわたしたちの父です」「主よ、あなたはわたしたちの父です。」2回も「父よ」と呼んでいます。もうずいぶん前ですが、文語訳聖書と呼ばれるものがありました。そこでは2回目の「父よ」と呼ぶところを、次のように訳しています。「されど、エホバよ、汝はわれらの父なり。」「されど」という短い言葉を記します。小さな言葉ですが、とても大事な言葉です。16節には、アブラハムやイスラエル(ヤコブ)といった、イスラエルの民にとって誇りとも言える信仰者の名前が出てきました。神様も御自分を人々に紹介される時、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われることがよくありました。けれども、今の自分たちは先祖であるアブラハムやヤコブから見放されてもおかしくない生き方をしてしまっている。人々は自分たちの罪には気付いているのです。しかし、イザヤは罪の現実に逆らうようにして言うのです。尊敬している先祖たちから見放されて当然の罪をおかしている、そのような現実に立ち向かうようにして言うのです。「されど、エホバよ、汝はわれらの父なり。」「しかし、主よ、あなたはわたしたちの父です。」
神に祈るということはどういうことでしょうか。宗教改革者にジャン・カルヴァンという人がいます。このカルヴァンという人は、祈りについて「自分の外に出ることだ」と言いました。自分の内に留まり続けることではないのです。自分の心の中でブツブツとつぶやくことではないということです。それは神様との対話でも何でもありません。ただの独り言です。たとえ、同じようにつぶやいたり、嘆いたりということがあっても、自分の外に出て神に向かって叫ぶならば、それが祈りになるということです。自分の外に出るというのは、目に見える現実に目を背けるわけではありません。誤魔化すことなく現実を見つめます。でも、そこで心を奪われたり、怯えたりしてはいけません。すべての現実に対して、「されど」と言って、自分の外に出て行くのです。そして、神を信頼して祈るのです。この神が私たちの「父」でいてくださるという信仰の真実の中にこそ、私たちの救いがあるのです。イザヤは、「あなたはわたしたちの父です」と祈った後、すぐに「『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」と言っています。神が私どもの父でいてくださるならば、私どもは救われます。私どもの罪は赦されます。私どもは望みを持って生きることができます。だから、父でいてくださるわたしたちの神から目を反らすことなく、祈り続けるのです。
「主よ、あなたはわたしたちの父です」ということですが、この「父」という呼び名は、旧約聖書の中ではそれほど多く用いられているわけではありません。旧約聖書では神が父と呼ばれることは少ないのですが、新約聖書になりますと至るところで神を「父」と呼んでいます。今日の私どもも、例えば、祈りの時などに「天の父なる神様」と呼ぶことに何の抵抗も覚えません。小さな子どもたちも、親や教会の大人たちの真似をして、「父なる神様」と祈り始めます。本日はイザヤ書と合わせて、ローマの信徒への手紙を先に朗読していただきました。この手紙を書いたのはパウロという伝道者です。手紙の冒頭の挨拶の部分から、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」というふうに神を父と呼んでします(ローマ1:7)。そして、読んでいただきました第8章の14,15節には次のような御言葉がありました。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」
「アッバ」というのは、主イエスが普段会話の中で口にしておられたアラム語です。「父」を意味する言葉ですが、この「アッバ」というのは、小さな子どもがお父さんのことを呼ぶ時の言葉です。英語で言えば、「パパ」という言葉になります。我が家にも子どもがふたり与えられて、生まれた時から少しずつ、しかし確かに成長している姿をいつも見えることができるのは親として嬉しいものです。嬉しい瞬間というのはいくつもありますが、なかでも私のことをちゃんと「パパ」と呼んでくれた時の喜びを忘れることはできません。他の言葉はほとんどと言っていいほど何も喋れないのです。しかし、私の顔を呼んで「パパ」とたった一言呼んでくれる。もうそれだけで他の言葉は何も必要ないくらいに嬉しいものです。そして、父親も母親も我が子の名前を生まれた時から、いや生まれる前から呼び続けます。赤ちゃんであっても親は子どもに、話したいことや伝えたいことがたくさんあります。でも、どれだけ言葉を重ねても、当然、赤ちゃんは言葉を理解しませんから、長々と話し続ける親はあまりいないと思います。けれども、言葉が分からない赤ちゃんに対して、その子の名前だけはずっと呼び続けるのです。名前というのも短いものです。でも、我が子の名前を呼ぶその声の中に、親の色んな思いが込められていると思うのです。何よりも「私の愛する子よ」というふうに、愛を込めて呼ぶのです。そして、赤ちゃんや子どもたちもまた、親から名前を呼ばれる度に、「自分は親から愛されている子どもなのだ」ということを知るのだと思います。そして、子どもは親を愛し、信頼していくようになるのです。
救われるというのは、私どもが神様のことを「父よ」と呼ぶことができるようになったということです。つまり、神様の子どもとされるということが、救われるということなのです。そして、神様というお方は、私どもが「父よ」と神様のことを呼ぶ前に、私どもの名前を呼び続けてくださいました。愛をもって私どもの名を呼び、愛をもって「わたしのもとに立ち帰るように」と呼び掛けてくださいました。ついに、その神様の思いが私どものところに届き、私どもも神様を「父よ」と呼ぶ時に、そこにどれだけの喜びが溢れていることでありましょうか。神様というお方は、私どもに対して、立派で美しい言葉によって、わたしのことを褒めたたえるようにとか、誰よりも長い言葉で祈りなさいとか、そういうことを求めておられるわけではありません。たった一言、「アッバ、父よ」と呼んでくれさすれば、それで十分なのです。「父よ」と祈るその声の響きの中に、私どもが何を思っているのか、何を願っているのか、神様は私どもが祈る前からすべてご存知です。たとえ預言者イザヤのように、神を問い詰めるような激しい言葉であっても、わたしのことを「父よ」と呼んで祈るならば、神様は必ず耳を傾けて聞いてくださるのです。
事実、神様は預言者イザヤの祈りに答えてくださいました。しかも、イザヤが願い求めていたことを遥かに超えた仕方で、神は答えてくださいました。イザヤは第63章19節でこのように祈っていました。「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」「神よ、天から降り来て、私たちを助けてください」と言ったのです。神が天の栄光の住まいにどっしりと腰を据えて座っておられるように思えたのかもしれません。神よ、今地上は安心して居られるような状況ではありません。あなたもご存知でしょう。だったら、天を裂いて降りて来てください。この世界に来て、私たちをお救いください。
初めから神様の御計画にあったことですが、まるでイザヤの祈りに答えてくださったかのように、この祈りがささげられてから約500年後、ユダヤのベツレヘムの町に救い主イエス・キリストがお生まれになりました。天を裂いて、神が本当にこの世界に来てくださいました。それも、まことの神でありながら、まことの人として私どもと共に歩んでくださいました。そして、イエス・キリストほど、心から神のことを「アッバ、父よ」と呼ばれたお方は他にいません。「アッバ」、それは幼子が父を呼ぶ言葉です。お父さんに甘えるような言葉に思えるかもしれません。でも、主イエスが「アッバ」と呼ぶ時に、ただ神に甘えておられたわけではありません。甘えてなどいられないような状況であっても、つまり、御自分が苦難の中に立たされる時、神の助けをいただきつつ、なすべき働きをしっかりと果たさなければいけない時、主イエスは神のほうをしっかりと見つめ「アッバ!」と呼ばれました。
十字架にかけられる前の夜です。主イエスはゲツセマネと呼ばれる場所で、もだえ死ぬような苦しみを覚えながら、激しく祈られたのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)主イエスは十字架を本当に恐れたのです。だから、この杯、つまり十字架の死を免れさせてくださいと祈りました。イエスもまた私たちと同じ人間に過ぎないではないか。死を恐れているではないか。そう言って、嘲笑う人々もいるかもしれません。しかし、主イエスから見れば、私どもこそ本当の人間(本当の罪人)として生きることができていないということです。どういうことかと申しますと、神によって罪を裁かれ、見捨てられるということ。このことがどれほど恐ろしいことか、そのことを私ども人間は知らないのです。しかし、主イエスは神の子であられるがゆえに、十字架で神に捨てられていく恐ろしさを知っていました。それに耐えることなどできないと言いました。しかし、わたしの願いではなく、父よ、あなたの御心が行われますように。わたしはあなたの御心に従います。そう祈られて、十字架に向かわれたのです。神が天を裂いてこの世界に降って来られたというのは、クリスマスの出来事だけを意味しません。天を裂いて降るということ、それは十字架の死に至るまで低く降られるということです。
そして、十字架の上でも主イエスは大声で叫ばれました。叫びながら息を引き取られました。マルコによる福音書第15章の御言葉です。「昼の十二時になると、全地は暗くなり、 三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコ15:33~34)十字架刑による肉体的な苦しみが、叫びを上げさせたのではなく、ゲツセマネの祈りの時と同じように、十字架で死ぬということは、神に呪われることであり、神に捨てられることであり、そのことが恐ろしいからです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」わたしの神よ、わたしの父なる神よと呼んでおられます。しかし、その父から十字架の上で突き放され、捨てられています。神の子であるイエスが、父である神から捨てられています。深い絶望がここにあります。預言者イザヤが経験した絶望よりも、もっと深いものがここにあります。人間が経験する本当の絶望とは何であるかということを、主イエスは十字架の上で経験しておられるのです。私どもは、神が私を見捨てたと叫びながら、本当は自分が神を捨てているという事実を知りません。神の御心に生きるよりも自分の思いに生きようとするところに生まれる悲惨を人々は気付いていないのです。しかし、主イエスは十字架の上で、私どもが死ぬべきはずの罪人としての死を死んでくださいました。私どもが神に捨てられることがないように、主イエスが十字架の上で代わりに神の裁きをすべて受けてくださいました。
そして、マルコはキリストの十字架の叫び、十字架の祈りの後に何が起こったかを記します。それは、十字架の側にいた百人隊長と呼ばれるローマ兵が、十字架上の主イエスの様子、そこで語られた言葉、そして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という祈りを聞いて、こう言ったというのです。「本当に、この人は神の子だった。」(マルコ15:39)神の救いから遠いとされていた異邦人であったこの隊長は、主イエスというお方が誰かということが分かったのです。十字架という悲惨の中で息を引き取った方、絶望の死を遂げられた方を、「このお方こそ神の子だ」と叫びました。神に出会いに、神に救われた者の叫びです。主イエスの十字架上の叫び、これはまさに喜びの叫び、望みに満ちた叫びとなりました。このことは、キリストのものとされている私ども一人一人にも言えることです。十字架の叫びによって、私どもは罪と死から救われたのです。私どもはもう主イエスのように、神に見捨てられ、神に呪われて死ななくてよくなりました。十字架の叫びによって、私どもは神に祝福された者として生きることができるようになりました。
父であられる神は、十字架で死んだ御子イエスを三日目に甦らせてくださいます。この神を、今、私どもは「父よ」と呼んで礼拝をささげています。今日だけではなく、いつも折あるごとに「天の父よ」と呼び続けるのです。悲しみで心がいっぱいになる時、途方に暮れる時、「なぜですか」と父なる神に問います。「あなたの御業を見せてください」と祈ることができます。そして、本当はそこで決して絶望することはないのです。絶望の只中にも十字架の主が共におられるからです。私どもに代わって父なる神に叫び、祈ってくださる主イエスがおられるからです。どんな深い闇に囲まれたとしても、十字架の言葉は聞こえるのです。そして、この十字架の言葉が聞こえる場所こそが教会であり、礼拝なのです。
復活の主は天に昇られ、この目で見ることができなくなりました。けれども、もう一度この世界に来てくださることを約束してくださいました。その時から、教会は「マラナ・タ」「主よ、来たりませ」と祈り続けて来たのです。この世界は、いまだ暗いニュースや先行きが見えないニュースばかりかもしれません。しかし、私どもは、私どもの父でいてくださる神を信頼し、望みを捨てることなく祈ることができます。地上の息を引き取る最後の時にも、父なる神の名を呼びつつ、神の子としての歩みをまっとうするのです。この神の子とされた祝福の歩みは、地上を超えて天にまで通じるのです。お祈りをいたします。
天の父なる神様、祈る度に、あなたを「父」と呼ぶ度に、救いにあずかっている喜びを覚えることができますように。どのような現実に置かれても、あなたが私たちの父でいてくださるならば、望みを持って最後まで生きていくことができます。それゆえに、叫ばざる得ない中にあっても、「父よ」と呼び続けることができますように。父でいてくださるあなたの御支配を早く来たらせてください。あなたの御心が行われますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。