2021年08月15日「わたしたちは地の塩、世の光」
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わたしたちは地の塩、世の光
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マタイによる福音書 5章13節~16節
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聖書の言葉
13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」マタイによる福音書 5章13節~16節
メッセージ
本日で戦後76年を迎えました。平和を覚えながら礼拝がささげている教会も多いことでしょう。何も夏の時期だけではなく、いつも私どもが心に留めるべき祈りの課題であり、また同時に私ども一人一人が平和をつくり出す存在として、この世界に遣わされているのだということを覚えながら歩んでいます。私を含めここにいるほとんどの方が、戦争というものを実際に経験したわけではありません。人伝てに聞いたり、映像や文書など様々な資料をとおして知るだけです。しかし、それだけでも戦争が悲惨なものであり、このような悲劇や過ちを繰り返してはいけないと思うものです。戦争という大きな罪、また大きな傷と痛みを負いながら、私ども人間はこれからどのようにして生きていかなければいけないのか。そのことを今に至るまでずっと人々は問うてきました。それは戦後、街が廃墟となり、貧しい中でどう生き抜くかということもあったかと思いますが、それだけでなく私どもが人間として、人間らしく生きるというのはどういうことか。人間の生きる姿勢、人間の心や魂のあり方について深く問うてきたということです。真実に悔い改め、将来に向かって新しい一歩を踏み出していくために、私どもはどうしたらいいのでしょうか。
この世にあって、自分の存在とは何なのか。この世にあって、自分がキリスト者であるということは何を意味するのか。また、この世にあって、教会の存在は何を意味するのか。問うだけではなく、その答えをちゃんと見出さなければいけません。見出すことができなければ、人生は空しいだけです。平和をつくり出すという使命を、責任をもって果たすこともできなくなります。ではどうしたら、一人の人間として、一人のキリスト者として、また教会として存在することの意味というものを見出すことができるのでしょうか。私どもキリスト者にとりまして、また教会にとりまして、何よりも一人一人が神様の前に立つことなしには、人間としての正しいあり方や平和についても考えることはできません。神様を抜きにした平和というものが如何に自己中心的で悲惨なものであるのか、そのことを人間は歴史の中で経験してきました。あるいは、「私たちは人間として、キリスト者として平和をつくりあげていかなければいけない。世の悪と戦わなければいけない」というふうに最もらしいことを言って、どれだけ意気込んでいたとしても、礼拝を中心とした生活、御言葉によって日々励まされる生活をしていませんと、実際、戦う力も勇気も沸いてきませんし、大きな苦難が襲って来たらすぐに倒れてしまうことでしょう。私どもにとって、主の日ごとに神様の前に立って、礼拝をささげることはもちろん特別な恵みですが、わざわざ「特別だ」と言うまでもなく、私たちの生活にとって良い意味で「当たり前」のことになっている、なくてはならないものになっているということ。実はそういうところに、既に人間らしさ、自分らしさというものがあるのです。平和をつくり出すためになくてはならない力を、そこで神様から与えられているのです。
先程、共に聞きましたのはマタイによる福音書第5章13節以下の御言葉です。去年も一昨年も、平和を覚えるこの時期、同じ第5章に記されている「山上の説教」と呼ばれる主イエスの言葉から聞きました。9節の「平和を実現する人々の幸い」、5節の「柔和な人々の幸い」について、主の言葉を聞きました。他にも第5章の初めにはいくつもの幸い、祝福の言葉が続けて語られています。幸いについて語るどの御言葉においても、「平和」という切り口から語ることは可能だと思いますが、本日は13〜16節までの耳を傾けます。八つの幸い、あるいは数え方によっては九つの幸いと言う人もいますが、いくつもの幸いについて主イエスがお語りになった後で、そのことを受けて、本日与えられた言葉が語られるのです。「あなたがたは地の塩、世の光である」と主は私どもに告げてくださるのです。主イエスがお語りになったこの言葉は、自分がいったい誰であるのか。何のためにこの世界に遣わされているのか。その大切なことを教えてくれる御言葉です。そして、自分一人のことだけではなく、キリストの体である教会がこの世界に立てられていることの意味と使命について語っている御言葉なのです。この御言葉が与えられているからこそ、私どもは自分を見失わずに済むのです。自分の生き方、教会のあり方を見失わずに済むのです。「あなたがたは地の塩、世の光である」と主イエスがはっきりとおっしゃってくださっているからです。
「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」主はそうおっしゃるわけですが、そもそも「塩」とは何なのでしょうか。「光」とは何なのでしょうか?それぞれ、どのような働きをしているのでしょうか。そのことを丁寧に考える時、私どもが地の塩であり、世の光であるというのはどういうことか。その意味をより鮮明に理解することができるでありましょう。まず、13節に出てくる「塩」です。いくつか特徴があるのですが、一つは、料理に味を付ける際に用いられます。塩を入れないと、まさに味気がない料理になります。かと言って、入れ過ぎるとしょっぱくて食べれたものではありません。塩は自己主張してはいけないのです。その料理全体からすれば、ほんのわずかな量でいいのです。しかし、そのわずかな塩が料理の味を引き立たせ、美味しいものとします。また、塩は腐敗を防止する役目があります。だから、食物を保存する際に用いられますし、衛生を保つ時にも塩が用いられます。また、今たいへん暑い季節ですが、熱中症にならないためには水だけでなく、塩分も摂るように言われるようになりました。また、旧約聖書には献げ物に塩をかけるという記述もあります(レビ2:13)。そのように、「塩」というのは、私たちの生活においてなくてはならないものです。塩があったほうが、生活するうえで便利であるという話ではなく、塩がないと生きていけないと言ってもいいくらいに、私どもの生活といのちにおいて、なくてはないものだということです。
そして、主イエスはただ単に「あなたがたは塩である」とおっしゃったのではなくて、「あなたがたは地の塩である」とおっしゃいました。「地」というのは、土地の「地」、地球の「地」という文字ですが、これは次の「世の光」の「世」ということと同じ意味です。あるいは最後の16節で、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」とありました。「人々の前に」とありますように、地というのは「人々」のことでもあります。この世界のことであり、社会や歴史、時代のことを意味するのです。それらの中にあって、あなたがたはなくてはないらない「塩」だと主イエスはおっしゃいます。つまり、わたしの弟子であるあなたがたの存在が、この世の腐敗を防ぐ大切な役割を果たしている。この世界は、罪によって死がもたらされ、最後には滅びる他ないのだけれども、あなたがたキリスト者のゆえに、滅ぼされずに済んでいると言うのです。そして、あなたがたの存在によって、この世界を生きることは空しいことではなく、心から「美味しい」と言えるほどに素晴らしいものである、喜びに満ちたものである。そのことに人々が気付くようになると言うのです。
また、主イエスは「あなたがたは世の光である」とおっしゃいました。「光」というのは、普段、どのように用いられるのでしょうか。それほど難しく考える必要はないと思います。要するに、暗闇を照らすために光が用いられます。光は、先程の塩のように控え目にというのではなく、どちらかと言うとちゃんと自己主張してもらわないと困るところがあります。光は目立たないといけないのです。主イエスはおっしゃいます。「あなたがたは世の光である。」私どもは世を照らし出す役割が主イエスから与えられているということです。ということは、この世には今もなお深い闇があるということです。だからこの世は、光である私どものことを待っているのです。罪というのは一つの言い方をすると、光よりも闇を好むことでしょう。闇の中で自分の存在を隠し、そこで自分の好きなように生きること、闇の中にこそ自由があると思い込んで生きていることです。しかし、闇の中には混乱しかないのではないでしょうか。生き生きとした生命力も、愛も希望も夢もないのです。闇が深まれば深まるほど、人々は混乱し、衝突を繰り返します。まことの自由も失われ、生きる力も萎え果てて生きます。この世に存在する罪という闇、この世界を滅びへと突き落とそうとする悪の力は、今でもこの世に存在します。そういう意味では、この世界はまだ闇なのです。しかし、なぜ闇の世界で生きることがゆるされているのでしょうか。それはこの世に光が存在するからなのです。その大切な光をあなたがたが担っているのだ。主イエスはそうおっしゃいます。
「あなたがたは地の塩、世の光である。」この主イエスの言葉を聞いて、とても嬉しくなる思いがいたします。この世界に塩であり、光であるあなたの存在が必要なのだ。あなたがいないとこの世界は本当にダメになってしまう。だから、地の塩、世の光として生きてほしい。そう言われると、どこか自分のことが誇らしく思えてきます。しかし、一方で私どもは、「あなたがたは地の塩、世の光である」という主の言葉を聞いて、恐れを抱くということがあるのではないでしょうか。主の言葉の前にたじろいでしまうのです。それは自分がこの世において、主が期待しておられるような地の塩として、世の光として生きることができているだろうかと思ってしまうからです。自分の存在によって、この世が本当に明るくなっているだろうか。罪や悪の力が以前よりも小さくなっているだろうか。そのようなことをつい考えてしまいます。良くなるどころか、ますますこの世の闇は深まっているのではないかと思って落ち込んでしまうのです。
また16節には、「あなたがたの立派な行い」とありました。自分は果たして立派な生き方をしているだろうか。人の心を変えるほどの立派さ、この世界を変えるほどの立派さに生き抜いてているだろうか?いや、とんでもない。自分は地の塩、世の光としての役割を少しも果たすことができていないではないかと言って、落ち込んでしまうのです。むしろ、このように主イエスから言っていただいたほうがしっくりくるかもしれません。「あなたがたは世の闇である。あなたがたのせいでこの世が暗くなっている。だから、悔い改めなさい!」自分は「世の光」と言っていただけるような立派な人間ではない。むしろ神様を悲しませてしまっている人間である。イエス様から「お前は闇だ」と言われても何も言い返せない。本当にそのとおりだ。主がおっしゃるように、これからはまことの光であるイエス様を見つめて生きていこう。悔い改めて、生きる姿勢をちゃんと正そうということになるでありましょう。
しかし、主イエスは私どものことを決して「闇だ」などとは言いません。「どうしようもない」とか、「役に立たない」というふうにもおっしゃらないのです。あるいは、「地の塩」「世の光」となることができるように一所懸命努力しなさいとも命じられません。主イエスは私どもに地の塩、世の光となるように命令しておられるのではないのです。私どもが目指すべき目標を示しておられるわけでもないのです。「あなたがたは地の塩、世の光である」とはっきりと告げておられるのです。宣言しておられるのです。誰が何と言おうと、あなたがたが自分で自分のことをどう思おうと、どう評価しようと、あなたがたは既に「地の塩、世の光なのだ」と断言しておられるのです。もうあなたがたは塩になって、しっかりとした味がついた人間になっている。もうあなたがたは光輝いているのだとおっしゃいます。「あなたがたは地の塩、世の光」、この姿こそが、私どもを見ておられる主イエスのまなざしなのです。
主イエスは「あなたがたは」というふうに呼び掛けておられます。「あなたがた」という言い方は、「あなたがたこそは」というふうに、より強調されている言葉でもあります。あなたがたこそが、地の塩、世の光である。そのあなたがたというのは、この時、主イエスの周りにいた弟子たちや群衆ですが、さらに深く掘り下げると彼らは主イエスから見てどのような人たちだったのでしょうか。それは、第5章3節以下に記されていますように、主イエスから「幸いである」と告げていただいた人たちであるということです。そして、「幸い」という時に、その幸せというのは、普通人間が考えることができないような幸いではないということです。主はおっしゃいます。「心の貧しい人々は、幸いである…」。心が貧しいというのは、謙遜な人であるとか、自分を誇ろうとしない人のことではありません。神の前に立つことができないほどに、貧しいこと。つまり、心が罪の闇で覆われている人のことです。そんな人がなぜ幸せなのでしょうか。「悲しむ人々は、幸いである…」。なぜ悲しい人が幸せなのでしょうか。どう考えても理解できない言葉です。「柔和な人々は、幸いである…」。優しいというのは良いことかもしれません。しかし、暴力に満ちた世界において、優しさだけで何とかなるのでしょうか。そして、幸いについて告げる最後の10〜11節にはこのようにありました。「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」美味しい塩味を違う味に変えようとする人たちがいます。光を消そうとする人たちがいるのです。ののしられ、迫害され、悪口を浴びせられることがどうして幸いなのでしょうか。誰もがそんな嫌な目に遭いたくないと願います。もし、自分がキリスト者でなかったならば、余計な苦しみを負うことはなかったのにと思う人もいるかもしれません。
主イエスが告げてくださる幸いというのは、私どもの努力次第でどうにかなるものではないのです。「地の塩、世の光になろう」という目標を掲げ、それに向かってあなたがたは走り出しなさいということではありません。きっとそんなことをしたら、あの人は地の塩、世の光だ。でも私はまだまだと言って落ち込む人が出てくるでしょう。あるいは、自分の行いを誇り、他者を見下す人たちも出てくることでしょう。そんなことでは、キリストの体である教会を建て上げていくことなどできません。主イエスはおっしゃるのです。「あなたがたは既に地の塩であり、世の光である」と。だから大事なのは、私どもが地の塩、世の光であり続けることです。どんなことがあったとしても、ののしられ、迫害され、悪口を言われることがあったとしても、地の塩であること、世の光であることを決してやめないことです。やめないということよりも、やめることなどできるはずはないのです。
ドイツにマルティン・ニーメラという牧師がいました。ナチの時代に生きた人です。1937年ベルリンのダーレムにある教会に教会員が集まりました。土曜日の夕べのことです。そこで説教をしたのがこのニーメラ牧師でした。この日、説教をしてから2週間後、ナチに逮捕され、敗戦までの約8年間強制収容所に入れられていました。ニーメラ牧師は自分が逮捕されることを覚悟して、説教を語ります。いわば、告別説教と言えるものです。実に緊張に満ちた礼拝だったと言われています。説教の冒頭で、ニーメラ牧師は既にナチによって捕らえられた172人もの人々の名前を一人一人読み上げます。名前の朗読だけで15分もかかったと言います。そして、ニーメラ牧師は語るのです。逮捕された人の名簿はこれで終わるわけではない。これからもっと長くなるだろう。この名簿の中に、やがて私たちも名前も加えられるだろう。
そして、ニーメラ牧師が告別説教として語った御言葉こそ、今、私どもも聞いているマタイによる福音書第5章13〜16節の主イエスの御言葉だったのです。あまりにも暗く、あまりにも見通しがきかないという状況の中でこそ、この主イエスの言葉が届き、聞こえてくる。今こそ聞かなければいけない御言葉がここにあると言います。教会員もまた不安に満ちた日々を過ごしていました。自分たちもいつ捕まるか分からない。最後まで地の塩、世の光として信仰を貫き通すことができるだろうかと心配になっていました。しかし、そのような不安や心配は、本当は必要ないのです。なぜなら、もう既に地の塩であり、世の光とされているからです。
ニーメラ牧師は説教の中でこのように言います。少し長いですが書き抜いてきました。「『あなたがたは地の塩である』。イエス・キリストがこのことをおっしゃっているのは、私どもが私ども自身の手で塩を人びとのなかに持ち込まなければならないということではないのです。そうではなくて、主キリストは私どもに別の責任を持つようにとおっしゃっているのです。『塩が塩味を失うならば、何をもってそれに塩味をつけることができるだろうか。どのようにしてふたたび塩を塩にすることができるだろうか。』私どもが自分でどうやって更に運んで来ようかというのではないのです。そうではなくて、塩がほんとうに塩になること、塩であり続けること、それが私どもの責任です。そうすれば主キリストが-この沸き立つような料理を作ってくださっているのはキリストご自身です-この塩をご自身の目指すところのために用いてくださる、使ってくださることができるようになるのです。」時代や状況は違っても今日この国に生きる私どもキリスト者にとっても大切な言葉ではないでしょうか。私どもはもう地の塩とされているのです。だから、どうしたら自分は地の塩になれるのか?どうしたら自分はこの地において塩としての役割をきちんと果たすことができるのか?そのことで不安がらなくてもいいと言うのです。大事なのは、キリストによって既に地の塩とされたあなたが、これからも「塩」としてあり続けることです。塩を用いるまことの料理人はキリストなのです。キリストがいつも私どものうちに働いていてくださるのです。だから、迫害を恐れて、信仰の戦いをやめてはいけないと、ニーメラ牧師は訴えます。
主イエスもこのようにおっしゃっています。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」信仰の戦いをやめてしまうならば、味がしない塩、効き目がない塩になってしまうというのです。ここで言われている塩というのは岩塩のことです。海水の塩ではありません。ですから、塩に土がついていたり、湿った塩というのは使い物にならないと言って、捨てられることが実際あったのです。裁きを連想させるようなたいへん厳しい言葉ですが、しかし、よく考えてみますと塩自体がその味を失うというのはあり得ないことなのではないでしょうか。塩が塩気を失ってしまうというのは、あなたがあなた自身でなくなってしまうということと同じだからです。「塩に塩気がなくなる」というのは、言葉はわるいですが「塩が馬鹿になる」という意味があります。私どもも色んな場面で、自分を見失ったり、愚かな振る舞いをしたり、正気を保つことが難しくなることがあります。後から振り返って、「あぁ、本当に自分は馬鹿だった」と思うことがいくらでもある訳です。あの時、賢く振舞うことができたらよかったのに、周りに流されることなく信仰者として毅然とした態度を取ることができたらよかったのにと思うことがあるわけです。それは私どもの弱さであり、罪であるかもしれません。しかし、忘れてはいけないのです。私どもはもう既に地の塩なのです。塩気を失うことなどあり得ないのです。だから、本当は賢く生きることができます。苦難や迫害の中でも神様を見失うことなく、主イエスの言葉を聞き損なうことなく、地の塩として生きる者とされています。信仰の戦いを戦い抜くことができるのです。
また、私どもが「世の光」であるということにおいても同じです。主イエスはおっしゃいます。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」夜、山の上にある町はその光を隠すことなどできません。また、ともし火を升の下に置くような無意味なことをする人もいないのです。光やともし火は闇を照らすために存在するからです。だから、塩が塩であり続けるように、光が光としてあり続けること、既に与えられている光を隠すようなことをしてはいけないのです。ともし火を燭台の上におくように、私どもに与えられた光を輝かせて生きるのです。
そして、世の光として生きるということについて、主イエスは最後の16節でこうおっしゃいました。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」世の光として生きることは、立派な行いをして生きることです。「立派な行い」というのは、「善い行い」とか「美しい行い」と言い換えることができます。しかし、いずれにせよ、たじろいでしまう言葉です。立派な行いができているだろうか?と自己点検をして、その度に、落ち込んでしまう言葉であるかもしれません。ただ、この場合の立派な行いというのは、決して、自分を誇るための行いではないということです。「立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるため」とありますように、目的は父なる神が神としてあがめられることです。だから、立派な行いというのは、誰かが自分の行いを見て、「あなたは立派な人ですね」と褒められることが目的ではありません。私たちの生き方、行いそのものが神様を指し示すものとなるということです。私どもは神様の思いをこの地上に映し出す器として選ばれたのです。その神様の御心というのは、私どもを滅ぼすことではなく、私どもを救うこと、まことのいのちに生かすことです。そういう意味では、毎週ここで礼拝をささげることを、教会に仕えること、福音を宣べ伝えること、それらのことが立派な行いであると言うこともできるのです。私は何によって生きているのか?それはただ神の恵みによって生かされているということを証しする生活に励むことです。キリストの十字架を指し示す生き方をするということです。ですから、立派な行いというのは、あの人にはできるけれども私にはできないというのではないのです。キリストのものとされているならば、皆できるのです。神の恵みによって、地の塩、世の光として立派に、美しく生きる者とされるのです。
そもそも私どもが地の塩、世の光として主に選んでいただいたのは、自分の中に誰にも負けない才能や力があったわけではありません。選ばれたというのは、ただ恵みによって選ばれたということです。自分で獲得したものではなく、神が与えてくださったということです。そして、キリストにあって選ばれ、救われたということは、神様が私ども一人一人を必要としておられるということでもあります。この世において、あなたの存在、あなたがたの存在がどうしても欠かせないのだと神様はおっしゃってくださるのです。もし、私が神様に選ばれなかったならば、いったい誰が自分の家族のために、家族の救いのための祈るというのでしょうか。もし、自分が選ばれなかったら一体誰が職場や学校の仲間のために、また共に生きる者たちのために祈るというのでしょうか。神様は小さな私どもを用いて、この世界に救いを届けようとなさるのです。小さな私どもを用いて、この世界にまことの平和をつくりだそうとしておられるのです。主イエスは「ともし火」ということをおっしゃいました。ともし火、それは決して激しく燃え盛る炎でも、目が開けられないほどに眩しい光でもありません。ともし火、それは小さな光です。けれども、部屋の中を明るくするには十分な光なのです。何の不足もないのです。だから、私どもはともし火でもいいのです。小さな光でもいいのです。大切なのは、そのともし火を隠さないことだけです。神様の前に立ち続けることです。
初めにも申しましたが、本日で戦後76年を数えました。戦時中、神様の前にしっかりと立ち続けることができなかった罪を深く悔い改めつつ、神様だけが与えることができる確かな赦しの中でもう一度立ち上がることができました。同時に、教会やキリスト者たちに与えられた神様からの使命とは何であるのか。何のためにこの世に遣わされ、何のために私どもは生きるのか。そのことを深く心に刻みながら、戦後新しい歩みを始めていったに違いないと思います。その思いは76年経った今でも変わることはないのです。今も私どもがこの世に遣わされている理由は、なおこの世を覆っている闇があるということです。神に敵対する者が多いのです。だから、教会はこの世からも外に投げ捨てられ、踏みつけられるような経験さえしてきたのです。
しかし、そこでなお希望をもって立ち続けることができるのは、この世界が闇で覆われていたとしても、まことの光、まことの救いを求めているという事実があるからです。皆、心では思っていても、口にしないだけかもしれませんし、救いが必要なことにまだ気付いていないだけかもしれません。「闇の中のほうが居心地がいい」と言いながら、本当は苦しんでいるのです。どこかで空しさを覚えているのです。だから、本当は救われたいのです。「この世界に闇はあるかもしれないけれども、小さなが光が確かに輝いている。だから、私は真っ直ぐ歩むことができる。」そう言って生きていきたいのです。本当は皆、平和を望んでいるのです。救われたいのです。皆、神を待ち続けているのです。
だから、私どもはまことの光であられる神様のお姿をしっかりと指し示しながら生きていきます。主イエス御自身もまた「わたしは世の光である」とおっしゃってくださいました(ヨハネ8:12)。世の光であられるイエス・キリストの輝きに照らされながら、私どもは地の塩、世の光としての歩みを続けます。時に人々からののしられたりというふうに、良く思われないこともあるでしょうか。迫害されたり、キリスト者として生きづらくなる時代が来るかもしれません。しかし、どれだけ強い風が襲って来たとしても、「福音」という名のともし火を消すことはできません。福音の光を覆って隠してしまうことなどできないのです。だから、忍耐しつつ、信仰の戦いを続けていきます。闇の中を手探りするようにして歩むのではなく、神様と御言葉に信頼し、確かな歩みを重ねていきます。平和をつくり出し、御国の前進のために、私どもは福音を宣べ伝えます。自分にとって神が必要であるかどうか?というふうに問うのではなく、神があなたを必要としていること、神があなたを救いたいと願っておられるという福音を、世の人々に語り伝えるのです。たとえ、目の前の敵対する者たちと戦わなければいけない時にも、私どもはそこで相手と同じように怖い顔をする必要はありません。なぜなら、戦いつつ、喜びの福音を伝えているからです。私どもが地の塩、世の光とされていることは本当に嬉しいことなのです。お祈りをいたします。
「あなたがたは幸いである」とおっしゃってくださる主が、私どもを「地の塩、世の光」としてくださいました。あなたを知らない人々が多いこの世にあって、私どもがこれからも塩として、光としての務めを喜んで担っていくことができますように。父よ、あなたのみがまことの神としてあがめられますように。そしてまことの平和が早く訪れますように。そのために、キリスト者一人一人のうえに、教会のうえに豊かな祝福をお与えください。あなたの憐れみによって救っていただいた私どもが、神を神とする生活を喜び、大切にしていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。