2021年08月01日「あなたの帰りを待つ神」

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あなたの帰りを待つ神

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 15章11節~32節

音声ファイル

聖書の言葉

11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」ルカによる福音書 15章11節~32節

メッセージ

 私どもの人生にはそれぞれ向き合うべき課題というものがあります。自分の年齢や今置かれている状況によって、その内容も変わってくる部分もあるかと思いますが、それでも共通する一つのことがあります。それは「自分を見つける」ということです。自分とは誰であるか?自分は何のために生きているのか?今ここですべきことは何なのか?安心した将来を手に入れるために、何をすべきなのか?そのような一つ一つの課題というものが、私どもの歩みの中にはいつもあるのではないでしょうか。そこで、「あぁ、これだ!」と言って、自分が生きるべき道、自分がなすべきことを見出した時は、特別な喜びというものがあります。たとえ目の前に壁が立ちはだかっていたとしても、それに向き合う勇気が自然と与えられるのではないでしょうか。自分が見出した道であり、生き方が目の前にあるならば、それに向かって生きる力が与えられていくものだと思います。

 聖書をとおして、神様が私どもに伝えようとしていることもまた、「自分を見つける」ということです。間違った仕方で自分を見出し、その自分を生きていくのではありません。本当の自分の姿を発見し、その自分を喜んで生きてほしいということです。先程、ルカによる福音書第15章11節以下の御言葉を共に聞きました。この第15章には主イエスがお語りになった3つの譬え話が記されています。その最後にあたる譬え話です。一般的に「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる物語です。印象深い物語が聖書の中にはたくさん記されているのですが、それらの中でもとりわけ有名な物語の一つではないかと思います。「聖書の中の聖書」「福音書の中の福音書」と呼ばれることがあります。極端に申しますと、この物語をよく理解し、受け入れることができさえすれば、私たちは救われるということです。だから、教会で求道者は新来会者を対象にした特別伝道礼拝を行う時には、よくこの放蕩息子の譬え話が取り上げられます。初めてこの物語を聞く者にも大きなインパクトや共感を与えると共に、神様の愛の素晴らしさが見事に語られているからです。だから、放蕩息子のたとえは、決して求道者だけに向けて語られた物語ではなく、長く信仰に生きている者にとっても、聞く度に嬉しくなるような御言葉であると思います。ここに私どもの物語が語られている。ここに神の愛の物語が、ここに神の救いの物語が語られている。そのように、多くの人たちが心打たれてきたのです。

 しかしながら、この物語の魅力や不思議さというのはこれだけに留まりません。どういうことかと申しますと、誰が聞いても感動するようなこの譬え話を初めて聞いた人たちは、感動するどころか腹を立てて、ついには、この物語をお語りになった主イエスを捕らえ、十字架につけて殺したのだということです。本日と次週、2回に分けてこの放蕩息子のたとえから御言葉に聞きたいと思いますが、私どもはそこでただ単に感動して終わるわけにはいかないのではないかと思います。もちろん、御言葉を聞いて、心から喜びたいと願うのですが、その喜びというのは私たちが想像するような喜び、私たちが簡単に受け入れることができる喜びではないということです。一歩間違えると、主イエスに対して殺意を覚えるほどの怒りを抱いてしまうということになりかねないということです。ですから、この譬え話は初心者向けの「分かりやすい話だ」と言うのではなく、誰もが神様の前にある畏れ、緊張をもって聞くべき聖書の物語です。

 さて、本日はおもに譬え話の前半部分、つまり24節までに焦点を当てて、御言葉に聞きたいと願います。主イエスが私どもの前に見せてくださる一つの光景は、ある家族の姿です。父親がいます。二人の息子がいます。母親や他の家族がいたかどうかは分かりません。また、家族ではありませんが、父親の家で仕える雇い人たちがいます。しかしながら、この家族において、何の前触れもなく急に大きな出来事が始まることから、この譬え話が始まります。主イエスはこのように語り始めます。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち…」(11〜13節)。二人の息子のうち弟のほうが行動を起こします。父の家を出て行きたいというのです。それはもう大人になったら、家を出て独立したいという話ではありません。父の家にいるのが嫌だったのです。この家に居て、父や兄と暮らしていては何も楽しいことはない。人生の喜びも生き甲斐もこの家に居る限り絶対に見出すことができない。自分が父の子であるということ自体がもう絶望的だ。新しい自分を見つけるためには、どうしてもこの家を出なければいけない。父親のもとから離れなければいけない。この家の外には希望がある。そう信じて疑わなかったのです。ただそうは言うものの、外での生活をする術がありませんから、父親に財産を分けてくれるよう申し出るのです。生前分与と呼ばれるもので、息子が二人の場合、弟のほうには財産の三分の一が与えられることになっていました。まだ父親が生きているのに「財産を分けてください」と申し出るのも失礼な話かもしれませんが、父は何も言わず、財産を分けてあげました。弟は、それをすべてお金に替えて、遠い国に旅立ったのです。遠い国というのは、外国、異邦の国ということもありますが、要するに父親の目が届かないところに行ったということです。父のもとを離れるところに、自分のまことの自由と喜びを見出すことができると信じていたからです。

 父が弟息子に分け与えた「財産」という言葉は、「生活」「いのち」を意味する言葉です。ですから、財産を分け与えるというのは、単に家や土地、家畜、お金などの物を与えるというのではないのです。そこに生活があり、いのちがあるのです。父親の思いを知らず、好き勝手に家を出て行こうとする息子に、父は「何を馬鹿げたことを言っているのだ」と言って、怒ったわけでもないのです。「息子に言われるがままではないか」と批判されてもおかしくないほどに、我が子に必要なものをすべて分け与えました。無言のうちではありますが、それは、「お前がどこに行くにしても、あなたの父であるわたしのいのちによって生きるように」というメッセージだったのではないでしょうか。

 しかし、弟息子は父の元から離れた遠い国でどのような生活をしたのでしょうか。父から与えられたものを大切にし、生活していくためにちゃんと働いたのでしょうか。そうではありませんでした。13節の終わりに、「そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった」とあるとおりです。ここから、この譬え話は「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるようになりました。息子は財産をすべてお金に替えたのですから、おそらく相当のお金を手にしていたでしょう。どれだけのお金を持っているか?これもこの世にある一つの価値観かもしれません。息子は財産の中に込められた父の思い、父のいのちそのものなど何も考えていません。お金を手に入れれば入れるほど、自分は好きなことができるし、好きなものも手に入れることができると考えました。そのようにして自分で自分を喜ばせる生活をしたのです。30節では、兄が父に対して「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして」と言っています。お金によって、自分の体と心を喜ばせるような生活を続けたのです。あぁ、自分は幸せだ。自分は本当に自由だということを心の底から感じたことでありましょう。

 しかし、そのような弟の生活は長続きしませんでした。「放蕩の限りを尽くして」とあるように、救いようのない生活そのものだったのです。父の財産を無駄遣いしただけでなく、父のいのちそのものを浪費するという大きな罪をおかします。さらに不幸が重なります。お金を使い果たした時、もう何もできない、もう絶望だという時に、その地方にひどい飢饉が襲って来たというのです。それで食べ物にも困り始めたのです。そんな自分を助けてくれる仲間もいません。おそらく、弟がお金を持っていた時には、たくさんの人が自分の周りに集まって来たことでしょう。しかし、それは彼自身を人々が愛していたというよりも、彼が持っているお金に惹かれて集まって来ていたに過ぎないのです。だから、お金がなくなった今、誰も彼に関心を示しません。食べるに困っても、誰も助けてくれないのです。

 そこで弟はどうしたかと申しますと、15節にありますようにある人のところに身を寄せます。そこで食べ物を分けてもらおうと考えたのでしょう。しかし、その人は弟を見て、かわいそうだと思って、ゆっくり休ませ、美味しい食べ物を分け与えたわけではないようです。自分のところに居させてあげる代わりに、飼っている豚の世話をさせました。ユダヤ人にとって豚という動物は忌み嫌われている動物です。その豚の世話をしなければいけないというのは、弟にとってたいへん屈辱的なことであったに違いありません。もう肉体的にも精神的にも限界の状態に追い込まれたのです。そして、聞いていて苦しくなるのは、16節の御言葉です。「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」弟は食べ物に困り、もう動くことができない、もう倒れそうだという時に、自分たちが忌み嫌っている豚が食べる「いなご豆」が目に入ります。いなご豆というのは、苦くて人間が食べることができるようなものではないと言われます。また、苦いが苦くないかということも食事をするうえで大事かもしれませんが、いったい誰が豚の食べる餌で自分のお腹を満たしたいと思うでしょうか。でも弟にとって、もうそんなことはどうでもよくなっていたのです。自分がユダヤ人であるとか、豚がどうであるとか、いなご豆がどうであるとか…。とにかく何でもいいからお腹に入れたい。そして、生きたいと思いました。

 同時に、自分自身の惨めさというものをこの時、嫌というほど痛感したのではないでしょうか。豚の餌を食べたいと思うほどまでに、惨めな姿になりさがった自分を見て、本当につらかったと思います。なぜ、自分はこんな惨めな思いをしなければいけないのだろうか?こんな自分の姿を誰が想像しただろうか?父の家を出る時、自分は希望に満ち溢れていたではないか。やっと自由になることができる。やっと新しい自分を見つけることができる。生きたい自分を生きることができる。そのように期待していたではないか。しかし、今の自分はどうだろうか?なりたい自分に果たしてなることができただろうか。今の自分の姿を望んで、私は父の家を出て来たのだろうか。いやそうではないはずだ。あぁ、本当に私は惨めだ…

 17節に「そこで、彼は我に返って言った」とあります。「我に返る」というのは、本心に立ち返る。自分を見出すという意味です。父の家を離れさえすれば、見つけたかった自分を見出すことができる。自分が願うとおりの生き方をすることができる。そう期待して遠い国に旅立ちました。しかし、そこで見出した事実は、自分らしさを見つけたどころか、自分自身を見失ってしまったという現実でした。弟はこの現実、自分を失ってしまったという現実をどこで気付いたのでしょうか。それが、先程の「豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかった」という悲惨な現実においてです。極限状態において気付いたです。そして、食ベる物がないという現実の中で、もう一つの確かな現実を思い出すのです。それが、父の家において、当たり前のようにあった光景です。弟はこう言います。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」空腹の中で、いつも満腹だった光景を弟は思い出します。家族の一員ではなく、大勢の雇い人でさえ満腹になるほどの食事が与えられていたこと。しかもそれが有り余るほどたくさんあったという事実です。そして、雇い人でさえ安心して生きていける場所が父の家にはありました。まして、父の息子である私はどれほど恵まれていたのだろうか。そのことに気付かされていくのです。私という人間はいなご豆を食べて生きる豚ではないのだ!私は父の家で、父のいのちによって養われている人間なのだ!私は父の息子なのだ!

 自分が今のような惨めな状態になったそもそもの原因は、父のもとを離れたことにありました。そこからすべての歯車が狂い始めたのです。だから、自分が今すべきことは、父の家に帰るということです。父の家に帰ることができれば、飢えは満たされ、死なずに済むのです。そして、父の家というのは幻想でも、偽りでもありません。弟にとって真実な場所です。家に帰るならば、必ずいのちに満たされる確かな場所です。だから、父の家に帰ることの中に、弟の本来の喜びがあるのです。弟は、「あぁ、これで助かった」と思ったかもしれません。しかし、大きな問題がありました。帰るだけの体力やお金があるだろうかとか、帰る道を忘れてしまったとか、そういう問題ではありません。もっと大きな問題です。帰りたいけれども、帰ることができないある事情がありました。それは、帰りたいのだけれども、「父の息子」としてはもう二度と家に帰ることができないということです。かつて、父との関係を断ち切るようにして家を出て行った過去があったからです。与えられた財産やお金も無駄遣いして、本当に好き勝手なことをして、困ったらのこのこと家に帰って来る。いったい誰がこのような人間を「息子」として迎え入れるというのでしょうか。弟もこの時ばかりは冷静で、自分のような者を、父は息子として受け入れてくれるはずはないということが分かっているのです。自分でも呆れ果てるくらいの悲惨な生活をしているからです。

 しかし一方で、弟はどうしても家に帰りたい。家に帰って、食事にありつき、生き延びたいという思いがありました。家に帰りたい。しかし、父の息子としては家に帰ることができないという葛藤がここにあります。どうしたら、帰ることができるのでしょうか。どうしたら、いのちをつなぎとめることができるのでしょうか。弟は考えます。そして、ついに分かったことがありました。「息子」としては帰ることができないかもしれない。しかし、「雇い人」としてだったなら帰ることができるかもしれないということです。自分はもう父の息子としての資格はない。あれだけ父を悲しませてしまったのだから…。私は息子ではなく、「雇い人」のように扱われて当然だ。そう言って、ある意味、弟は自分で自分をちゃんと認識し、自分に対して「お前は父の息子としての価値はない。雇い人の一人に過ぎない!」という処罰を与えています。あれだけのことをしたのだから、雇い人とされて当然だと言って、彼なりに一本の筋を通そうしているのです。そして、雇い人の一人として、父の家に帰って行く決意をします。父の前で悔い改め、謝罪する言葉もちゃんと考えています。18〜19節です。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」この謝罪の言葉の中で、弟が重要だと考えていたのは、最後の一文です。つまり、「雇い人の一人にしてください」という言葉です。この言葉にすべてがかかっていました。自分のいのちそのものがかかっていたのです。おそらく、家に帰る道の途中、何度も謝罪の言葉を繰り返したのではないでしょうか。「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください…。」

 そして、段々と家が近付いてきます。弟の心は緊張で満ちていたことでしょう。父から怒られるのは当然のこと。けれども、雇い人としてならば受け入れてくれるだろうか。受け入れてくれなければ、私は死んでしまう。何とか、私を家に置いてほしい。家に近付くにつれ、様々な思いが湧き上がってきたことでしょう。しかし、ここから弟が考えてもみなかった驚くべき出来事が次々と起こるのです。それは父の姿。父の行動でした。ここまで私は何も言ってきませんでしたが、キリスト者の方であるならば、この譬え話は何度も聞いてきた物語であり、弟が誰であり、父が誰であるのかということをよく分かっておられると思います。初めてこの物語を聞く人も、何となくではあるかもしれませんが、これは人間のことを言っているのかな?これは神様のことを言っているのかな?というふうに想像して聞くことはできると思うのです。主イエスがお語りになった譬え話は、ユダヤのどこかにある一つの家族のお話を紹介された訳ではありません。主イエスはこの譬え話を通して私どもに伝えたかったことは、あなたの神はどのような神であるかということです。神様の愛というものがどれほど大きいかということです。そして、あなたが救われるために神様は何をしてくださったかということです。主イエスがなさったこの譬え話は、一般的には「放蕩息子のたとえ」と呼ばれます。けれども、譬え話の本質から言えば、「憐れみ深い父のたとえ」「父の愛のたとえ」、そう呼んだほうが適切であると思います。この譬え話に登場する父こそ、あなたの神であるということです。その父の家から離れたあなたを救うために、神様は何をしてくださるのでしょうか。

 20節にこのようにありました。「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」弟息子が想像を遥かに超えた父の姿がそこにはありました。それは自分の帰ってくることを信じ、ずっと待ち続けていた父の姿です。遠くにいるのが息子だと分かった途端、父の心は激しく揺さ振られます。息子はこれまで十分に食べることができなかったのですから、体力もなかったことでしょう。痩せ衰え、ふらふらになりながら帰って来たのではないでしょうか。身だしなみも立派な服を着ているのでもなく、ボロボロになった服を身に着けて帰って来たのではないでしょうか。父の家を離れた人間。つまり、神様のもとから離れ、罪に陥った人間の悲惨をご覧になり、父は憐れに思ったというのです。「憐れに思う」というのは、内臓がひきちぎれそうなほどの痛みを覚えることです。24節と32節で、「この息子は死んでいたのに生き返り」とありますように、自分のもとからいなくなった息子は、もはや死んだも当然でした。父にとって息子と共に生きることができないということ、いや息子はもう死んだのだという事実が、どれほど父を苦しめたことでありましょうか。それこそしっかりと立つことができず、膝から崩れ落ちるような悲しみであり、痛みであったことと思います。しかし、それでも父は必死に耐えながら、家の門の外に立ち、我が子の帰りを待ち続けたのです。そして、息子だと分かった途端、なりふり構わず息子のもとへと走り寄って行きました。そして、息子をしっかりと抱きしめ、接吻したのです。

 死んでいた息子が生き返り、いなくなっていたものを発見した喜びの中にいるのは父親です。息子ではありません。おそらく、息子は最初いったい何が起こっているのかさっぱり分からなかったのではないでしょうか。父親は異常なまでに喜んでいます。しかも、帰って来たこの自分のことで喜んでいるのです。ルカによる福音書第15章には、本日の譬え話に先立って二つの譬え話が記されていました。3節以下には、100匹いた羊のうち1匹がいなくなってしまったという譬え話。8節以下には、ドラクメ銀貨10枚のうち1枚を無くてしてしまったという譬え話です。しかし、羊飼いも銀貨を持っていた女の人も、いなくなったもの、なくしてしまったものを諦めることなく必死に探すのです。そして、ついに見つかった時、友達や近所の人々まで呼び集めて、「見つかったので、一緒に喜んでください」と言って、声を掛けるのです。失ったものが見つかったという喜びは私たちにも分かるのですが、異常なまでに喜んでいる姿がたいへん印象深い譬え話だと思います。私たちの神様は、御自分のもとからいなくなってしまった者が再び戻ってくること、つまり、罪人が御自分のもとに帰ってくることを心から望んでおられるということです。そして、帰って来たならば、異常なまでに喜んでくださるということです。

 本日はルカによる福音書に先立って、旧約聖書エゼキエル書の御言葉を聞きました。主なる神様はこうおっしゃるのです。「私は悪しき者の死を決して喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたがどうして死んでよいだろうか。」(エゼキエル33:11)神様が望んでおられることは、私たちが死んで滅びることではありません。どうしようもない悪人であっても、神様はその人が死ぬことではなく生きることを望まれるのです。だから、立ち帰れ!立ち帰れ!と繰り返し呼び掛けるのです。神様のもとにだけ、赦しがあり、いのちがあり、再生の道があるからです。「…むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたがどうして死んでよいだろうか。」

 弟は思っていました。絶対に父は自分のことを許してくださるはずなどない。家に帰って行っても追い返されて当然である。だから、もし自分を家に入れてくれて、話さえ聞いてくれれば、もうそれだけで奇跡である。もし雇い人として家に置いてくれたら、それこそ奇跡の中の奇跡だ。もう自分は食べるに困ることはない。何とかいのちをつなぐことができる。そう考えていたのです。そして、自分の帰りを異常なまでに喜び、抱きしめてくれた父の前にして言うのです。つまり、悔い改めの言葉、謝罪の言葉です。21節をご覧ください。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」帰り道、何度も口ずさんでいたであろう悔い改めの言葉をしっかりと伝えます。しかし、お気付きの方もあるかと思いますが、弟が父親に本当に伝えたかった言葉が記されておりません。悔い改めの言葉の鍵になると考えていた大切な言葉です。それが、「雇い人の一人にしてください」という言葉です。この言葉をもって悔い改めるかどうか、ここに弟のいのちがかかっていたと言ってもいいのです。たとえ、息子として受け入れてもらえなくても、雇い人の一人としてなら家に置いていただける可能性があったのです。このわずかな可能性に、自分のいのち、自分の存在のすべてを賭けたのです。罪をおかし、惨めさを嫌というほど味わう中で、我に返りました。そして、こんな惨めな自分でも、なお生きる道があることを見出しまたのです。それが雇い人の一人になるということです。弟にとって、雇い人こそ自分が見出した本当の姿だったのです。

 しかしどういうわけか、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」ここで言葉は終わっているのです。どうしてなのでしょうか。単純に言い忘れたということなのでしょうか。父親の予想外の姿に驚き、言葉を失ったのでしょうか。そうではないと思います。父親が弟息子の言葉を遮ったのです。22節の冒頭で、「しかし、父親は僕たちに言った」とありますように、弟息子に「雇い人の一人にしてください」という言葉を絶対に言わせなかったのです。どうしてでしょうか。それは、父親にとって、今家に帰って来たのは「雇い人」などではないからです。紛れもなく「わたしの子」「わたしの息子」であるからです。父のもとを離れ、放蕩の限りを尽くした罪人であっても、雇い人としてならば、何とか食いつなぐことができるというふうに中途半端な悔い改めしかできないような者であっても、父親からすれば愛する我が子であることに何の変わりもないのです。弟息子は「雇い人の一人」ということに強いこだわりを持ち続けていました。そこに生きるための最後の望みがあると思ったからです。しかし、父親はそんなふうにはこれっぽっちも思っていないのです。帰って来た弟息子がもう一度立ち上がることができるたった一つの根拠、それは息子が「わたしの子」であるということ、それだけです。自分で自分を罰したり、自分で自分の価値を下げさえすれば、父に赦してもらえるとかそういう話ではないのです。「お前はわたしの愛する子」、そのことを弟息子に気付かせるために、ここで父親は僕たちに命じて言うのです。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」「良い服」というのは、祭りや祝い事の際に着る服です。労働から解放された時に着る服とされていました。つまり、良い服を着る度に、今自分は自由であることを知りました。そして、この良い服を僕たちは着ることはできません。家の者だけが着ることが許されました。また、「指輪」が与えられているということは、父親の権威が自分にも与えられているということのしるしです。「履物」もまた上等なものであったと言われます。そして、22節では「この子」と呼び、24節でも「この息子」と父親は言葉を重ねます。「帰って来たのは、雇い人ではない。わたしの愛する息子である」と。弟息子も「わたしは父から愛されている息子なのだ」、そのことが分かる時、再び立ち上がることができるのです。本当の悔い改めというのもまた、自分の功績や努力でもなく、自分の価値を下げるのでもなく、ただ父なる神様の憐れみ、神様の愛と赦しの中で初めて可能になるのだということです。弟息子は最初何が何だか分からなかったことでありましょう。しかし、自分のことを憐れに思い走り寄って、しっかりと力強く抱きしめる父親の腕の中で、自分に対する深い愛と赦しを初めて知ったのではないでしょうか。

 その父なる神様の愛の御腕に抱きしめられ、捕らえられることによって、私どももまた立ち上がって歩み出すことができるのです。自分は取り返しのつかないことをしてしまった。大きな挫折や失敗を経験した。もう自分に将来も希望もない。そう言って、自分自身に絶望してしまうことがあります。もう私の人生に喜びも希望も無関係だと思い込んでしまうことがあります。しかし、そのような私どものところに走り寄って来てくださる神様がおられるのです。だから、私どもはどんなことがあっても、自分で自分の生き方を決める必要などありません。良い時も悪い時も、まるで自分の人生は自分が一番知っているかのような生き方をしなくていいのです。私どもは、私どものことを憐れんでくださる神様の愛の中で、神様の愛に満ちた言葉の中で本当の自分の姿を見出すことができるからです。神様の恵みの中で、自分がいったい誰であるのかということを喜びとともに気付くことができるからかです。

 そのために、この譬え話をお語りくださった主イエスは、十字架に向かう道を歩まれます。神様御自身の、その存在の奥底から湧き上がってくる激しい憐れみの心が、キリストの十字架によって示されました。神様の前に死んだ者が生き返り、いなくなっていた者が再び見出されるために、キリストはいのちを私どものために献げてくださり、私どもを神様のもの、神様の子どもとしてくださったのです。ここに私どもの常識を超えた愛があり、救いがあります。そして、ここに集う私どももまた、キリストの十字架によって罪赦され、神様のものとしていただきました。

 帰って来た弟息子のことを喜び、祝うために、父は良い服を着せ、指輪をはめ、上等な履物を履かせてくださいました。そして、最後に言うのです。「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。」私どもが主の日ごとに集う礼拝は、まさにこの神の喜びが満ち溢れる場です。神の懐そのものである教会に集う時、私どもは神の愛と赦しの御腕によって抱きしめられ、祝福されるのです。もちろん、私たちも神様を賛美し、感謝をささげるのですけれども、私たち以上に喜んでおられるのは神様であるということです。このことを忘れてはいけません。礼拝そのものがまさに神が開いてくださる喜びの祝宴なのです。そして、この祝宴をよく表しているのが、今から共に祝う聖餐の食卓です。復活の主は、譬え話に出てくるような、肥えた子牛ではなく、パンとぶどう酒を備えてくださいます。聖餐において、私どもは罪を赦すために十字架についてくださったイエス・キリストの体と血を味わいます。つまり、神の救いを体と心、全存在をもって共に味わうのです。ここで私どもはキリストによって「神の子」とされていることを思い起こします。私どもはもういなご豆を食べてでも腹を満たしたいなどというふうに、惨めな思いに捕らわれなくてもいいのです。もう罪に支配されることもないのです。なぜなら、私どもはキリストのゆえに、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見出された者だからです…。私どもを捕らえるのは、ただ神様の愛だけなのです。お祈りをいたします。

 天の父よ、あなたは人間の常識を超えた愛をもって私たちを罪から救い出してくださいました。御子が十字架でいのちを献げてくださるほどに、あなたの愛が大きく深いものであることをいつも覚えることができますように。望みを失ってしまうような時でも、自分で自分を見出そうとするのではなく、あなたの憐れみの光の中で、もう一度、神様の子とされている自分の姿を見出し、再び立ち上がることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。