2021年06月27日「解き放たれて生きる」

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解き放たれて生きる

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
出エジプト記 20章1節~2節

音声ファイル

聖書の言葉

1神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。 出エジプト記 20章1節~2節

メッセージ

 今月から夕礼拝では、出エジプト記に記されている「十戒」の言葉に共に耳を傾けたいと思います。十戒は、「使徒信条」、「主の祈り」と並んでキリスト教会の中で昔から大切にされている言葉で、三つの、要の、文書と書いて、「三要文」と呼ばれています。いずれも、礼拝の中で唱えられ、信仰の歩みを整えるうえでも、とても大切にされてきたものです。自分自身の信仰生活においても、教会共同体を形作るうえでも、大事なのはその健やかさです。神を信じているものの、どうもその生活に喜びがない、感謝がないというのではやはり困るわけで、たとえ、色んな試練を経験してもその中で、なお健やかに生きることができるということ。ここに信仰に生きるものの幸い、キリストの体である教会に連なる者の祝福があるのです。そして、健やかに生きるためには、普段の日常生活においても言えることですが、運動をするとか食生活を整えるというふうに、様々な工夫、トレーニングといったものが必要です。信仰のトレーニングを重ねて足腰を鍛え、しっかりとした骨格をつくっていくのです。それは決して、行いを強調する律法主義ということではなくて、与えられた神様からの恵みを無駄にしないための生き方でもあります。そのために、昔から、使徒信条、十戒、主の祈りの三つの文章が大切にされてきました。

 ただ、その中でもどうも「十戒」というのは、使徒信条、主の祈りほどに前に出ている印象はあまりないかもしれません。礼拝式は絶対こうしないといけないという決まりはないのですが、十戒を礼拝の中で唱えている教会は、どちらかと言うと少ないのではないでしょうか。主の祈り、使徒信条は暗唱できても、十戒は全部覚えていないという人も多いことでしょう。決して、十戒を軽んじている訳ではないと思うのですが、実際は、十戒の言葉が教会の中で、信仰生活の中で大きな位置を占めなくなってきたというのは事実かもしれません。どうしてでしょうか。色々理由はあるかもしれませんが、一つは、ごく単純なことで、「〜してはいけない」というふうに禁止命令の言葉によって成っているからです。まさに「戒め」でありまして、どこか私たちの生活を窮屈にしている。縛り付けている。そのような印象を持ってしまうからです。もう一つは、「十戒」というのは、旧約聖書に記されている掟であり、もう主イエスが来てくださった今は、それほど大きな意味を持たないのだ。十戒よりも、イエス様の言葉、新約聖書の言葉のほうが新しくて正しいのだと思ってしまうからです。

 しかしながら、これらの考えは明らかな誤解であると言わなければいけません。そして、この誤解をちゃんと正すことができなければ、私たちと神様の関係さえもおかしくなってきます。神様だけでなく人間同士の関係においても、必ずおかしくなるということが起こります。神様は私たちに「〜してはいけない」とか「〜しなければならない」というふうにいつも厳しいことをおっしゃる恐い神だ。もし、私たちが十戒を守ることができなければ恐ろしい裁きが待っている。そう思うと落ち込んで、喜んで生きていくことができなくなります。隣人との関係においても、十戒の言葉を取り出して、互いに裁き合うということが起こります。十戒を中心とする律法全体の要約は、主イエスもおっしゃっているように、神を愛すること。そして、自分を愛するように隣人を愛することです。しかし、十戒を重んじることなく、また正しく受け止めない時に、神への愛も、隣人への愛も、そして自分に対する愛も見失ってしまうということです。神を愛することも、自分や隣人を愛することも実に具体的なことです。しかし、十戒を軽んじる時、信仰生活は心の中だけの問題に留まってしまいます。そうすると、キリストの福音というものが生活にまったく根差さないものになってしまうのです。

 あるいはまた、十戒の掟をこの世的な法律や規則の延長線のように考えてしまっているということがあるかもしれません。あるいは、人間社会における倫理や道徳の一つとして考えてしまうのです。法律や規則を守ることによって、社会や人間関係が成り立つように、十戒を私たちが守ることによって、神との関係を築き上げていくことができる。そのように考えてしまうのです。神様との良い関係を築き上げていくうえで、何が一番大切になってくるのでしょうか。いずれにせよ、神様との正しい関係の中で、十戒の言葉に聞かなければいけません。その時に、十戒は私どもの生き方を縛り付け、窮屈にするものではなく、むしろ私たちを自由へと解き放つ、喜びの知らせ、福音として聞こえてくるはずです。十戒をとおして、救いの恵みは心の問題だけでなく、生活全体に具体的な喜びをもたらすものであることを学び、実際にその喜びに生きることができるはずなのです。そのような福音に根差した一つ一つの生き方、生活というものが、福音宣教ということにも深く結びつきます。十戒に喜んで生きている者の姿は、この世にはない素晴らしい魅力があるからです。だから、キリスト教会は昔から十戒を礼拝の中で、信仰生活の中で重んじてきたのです。

 本日は出エジプト記第20章1〜2節の御言葉を読みました。2節に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とあります。ここはいわゆる、十戒の「前文」とか「序文」と呼ばれる部分にあります。戒めそのものは、次の3節「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という言葉から始まっていくのです。しかし、十戒を理解するうえで、この前文と呼ばれる2節の言葉はとても重要な意味を持ってきます。神様との関わりの中で、十戒を理解しないと、大きな誤解が生じ、神様との関係も隣人との関係も崩れてしまうと先程申しました。そういうことにならないためにも、2節の御言葉をよく理解したうえで十戒の言葉に耳を傾ける必要があります。ここで言われていることは、神がどのようなお方であるのかということです。しかも、私どもとの関わりの中で、神はどのようなお方であるかということです。

 最初に神様がおっしゃられたことは、「わたしは主」という短い言葉です。「わたしは主」という言葉をもって、御自分の名前を私どもに紹介してくださる神であるということです。私ども人間の一人一人がそれぞれの名前を持って生きています。ただ、神様はただお一人しかおられないのですから、わざわざ名前を持つ必要はありません。イスラエルの周りには、偶像の神々がたくさん存在しましたから、それらと区別する意味で「わたしは主」と言って、御自分の名前をおっしゃられたのかもしれません。しかし、もう少し積極的に考えるとただそれだけではないと思うのです。名前を持っておられる神が、同じように名前を持っている私ども人間と向き合ってくださるということが大事なのです。

 私どもはもしかすると、自分の名前なんかそれほど重要でないと思ってしまうかもしれません。生活するうえで名前がないともちろん困りますけれども、でももっと大事なのは自分の肩書き、役割といったものないでしょう。名前だけあっても、そこで何もできなければ、何も役に立たなければ、どうしようもないと自分でも思い込んでしまいます。他人を見る時にも、その人の名前が何であるかということはたいした関心事ではないのです。どこの出身であるとか、どこの学校を出て、何の仕事をしているとか、家庭の事情はどうなのか、そういったことばかりに目が向いてしまうのではないでしょうか。自分は名前だけ持っていてもしょうがない。ただ生きているだけでは意味がない。名前や存在の上に何を背負っているか。何を持っているか。人間の価値はここで決まるのだと思い込んでしまいます。しかし、私ども人間の価値は名前を持っているだけではダメなのでしょか。生きているだけではダメなのでしょうか。もちろんそんなことはありません。「そんなことはない」とおっしゃってくださるのは、私どもをお造りになり、いのちを与えてくださった神様です。本来ならば名前を持つ必要のない神様が、「わたしは主」とおっしゃってくださり、私ども一人一人と向き合ってくださいます。たとえ、私どもがすべてを失い、肩書きも何もない。もう生きる希望もないと言って、心沈む時にも、主は私どもを愛してくださるのです。私と一対一で向かい合い、主であるわたしとの関係に生きるように招いていくださるのです。だから、「わたしは主」と自己紹介した後に、「あなたの神」とおっしゃってくださいました。「わたし」と「あなた」という関係性をいつも重んじていてくださるのが、主なる神様です。

 そして、ここでもう一つ覚えたいのは、「わたしは主、あなたの神」とおっしゃる時、それはただ、神様が自己紹介をなさった、名前を私どもに明らかにしてくださったということに留まらないということです。どういうことかと申しますと、神様が御自分の名を名乗るということは、そこに神御自身が臨在する。共におられることを意味するということです。同じ出エジプト記の中に、神様が名前を名乗られた場面があります。第3章にそのことが記されているのですけれども、ここはモーセが指導者として立てられていく場面です。燃える柴の間から神か語り掛けられる場面でもあります。第3章13〜15節です(旧約97頁)。「モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。」

 元々、モーセは神の召しを断っていたのです。あまりにも重荷で、自分には指導者としての務めを果たすことなどできない。それで、主は「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束してくださいました(出エ3:12)。しかし、それでもモーセは納得できません。主が共にいてエジプトから救い出してくださることは分かるけれども、イスラエルの人々にどう説明したらいいか分からないと言うのです。イスラエルの人々は自分たちの先祖が信じていた神様のことを忘れているからです。きっとこう言うに違いないと言うのです。神が共におられるというけれども本当だろうか。こうして今、エジプトの奴隷として苦しんでいること、叫んでもどうにもならないということは、神がいないということではないか。モーセよ、あなたは私たちの先祖が信じていた神から遣わされたと言っているが、その神の名は何と言うのか。その神は本当にここにおられるのか。そうやって私に尋ねてくるに違いない。そこで何と答えたらいいのですか。あなたの名は何ですか。あなたは本当に私たちと共におられるのですか。

 神様はモーセにお答えになります。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」不思議な名前、不思議な自己紹介の仕方ですね。そして、「わたしはある」という言葉は、色んな言葉に訳されてきました。「わたしはいる」「わたしはなる」「わたしは共にいる」「わたしだ、そうだ、わたしだ」というふうに。神様は「わたしはある」「わたしだ」とおっしゃる時、神様はそこにおられます。そして、神様の臨在を覚える時、私たちは深い慰めと平安を覚えます。「わたしだ」という神様の一言、それだけで安心できるのです。そういう力が神様の言葉にはあるのです。

 福音書を読みますと、弟子たちだけで舟に乗って湖を渡ろうとする場面があります。しかし、強風のために前に進むことができずに困ってしまいました。すると主イエスが湖の上を歩いて弟子たちのもとに近付いてきます。けれども、弟子たちは主イエスを見つめながら、主だと信じることができず、幽霊だと思って恐れたというのです。主イエスが目の前にいるのに信じることができず、怯えたままでいます。しかし、主は弟子たちに語り掛けるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マルコ6:50)主イエスもまた、「わたしだ」と一言おっしゃってくださっただけでした。でも、それで十分安心できるのです。私たちにとって、神がどのようなお方であるか、主イエスがどういうお方であるかを知っているならば、そして、その神様と私たちがどのような関係・交わりに置かれているのかを知っているならば、多くの言葉はいらないのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」それだけももう十分なのです。

 神様はイスラエルの民に、そして、私たちにもおっしゃいます。「わたしは主、あなたの神」。この神様の言葉に込められているメッセージを、十戒の言葉はもちろんですが、聖書全体をとおして聞くことができます。聖書が語る神がどういう神であるのか。私どもは毎週、また毎日のように御言葉から聞いているのです。「わたしは主、あなたの神」と急に言われても、私どもはいったい何のことか分からなくなってしまうこともあるでしょう。神様と真実にお会いすることや御言葉を聞くことは、喜びと同時に、畏れや戸惑いを私どもに与えることがあるからです。御言葉を聞いて、「神様、あなたがおっしゃりたいことはすべて分かりました」というふうは単純に言えないのです。しかし、「わたしは主、あなたの神」という御言葉を聞いて、戸惑いつつも、神様のほうを向き、神様の前に立つことが大切ではないでしょうか。自分の信心であったり、自分の誠実さによって信じるのではなく、神様御自身の誠実さに信頼するということです。

 神様は御自身の名を名乗り、私たちと共にいてくださるお方です。名を明らかにしてくださるほどに、私たち一人一人の存在そのものを重んじてくださるお方です。そして、あなたがたにとって、わたしは誰であるのか。そのことを具体的に、次の言葉で言い表しています。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」十戒に生きる根拠となる言葉がここにあります。神様との関係、その土台にあるのは、神様が私たちに何をしてくださったか。その神様の御業です。神様の御業と言いましても、たくさんあるのですけれども、ここで言われている神様の中心的な御業が、エジプトの奴隷からイスラエルの民を導き出したという救いの御業です。神様はここで、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と御自分のことを紹介しておられます。あるいは、御自分のことを定義しておられると言ってもいいでしょう。神が神であるというのはどういうことでしょうか。本来は、神様が御自分で御自分のことを定義する必要などないと思います。それこそ、「わたしはわたしだ」と言えば、それで十分なのです。しかし、神が神であるというのがどういうことかを定義する時、私どもの人間を抜きにして考えようとはなさらなかったということです。神様お一人だけで十分に満ち足りておられるお方です。私どもが何かを付け足さないと神様らしくならないというのではありません。「わたしはわたしだ」。それで十分なのです。しかし、そのような神様が身を低くするようにして、「あなたなしに、わたしは存在することなどできない。わたしにとってあなたは欠くことできない存在。わたしがわたしでいられるのは、あなたとの関わりに生きているからだ。」神様は本当に驚くべきことをここでおっしゃってくださるのです。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

 また一つ前の第19章で、神様はこうおっしゃっています。第19章3〜6節です。「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。』」ここには、いくつも心に留まる御言葉があるかもしれません。第19章5節では、「わたしの宝になる」とイスラエルの民について語っています。「宝になる」という意味ですが、大切なものであるとか守るべきもの、そう言った意味もありますが、それよりももっと大事な意味がここに込められているのです。それは、宝であるイスラエルの民を、私どもを手に入れるためにどれだけの犠牲を払ってきたかということです。ただで私たちという宝を手に入れたのではないのです。そのために多くの犠牲を払ってきたのです。すべてを捨ててまでして、神御自身のいのちを注ぎ出してまでして、私どもの存在を宝としてくださいました。そこまでの犠牲を払って、御自身のものとしてくださった。宝としてくださった。だから、どんなことがあっても、その宝を手放すようなことは絶対になさらないのです。イザヤ書43章(4節)にあるように、「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し(ている)」。これが神様の私たちに対する思いです。

 イスラエルの神であるお方は、私どもの神でいてくださいます。私どもはエジプトの奴隷から解放されたわけではありませんが、「罪」という奴隷から解放されたのです。イエス・キリストが私どもの罪を背負って十字架で死んでくださったことによって、私どもは罪と死から救われました。私どもを罪から救い、宝としてくださるために、キリストは御自身のいのちを十字架でささげ尽くしてくださったのです。あなたの価値は、キリストのいのちと同じだ。神様はそうおっしゃってくださるのです。キリストによって、罪の奴隷から解き放たれ、私どもは自由な者とされました。自由にされるというのは、自分中心に生きることではありません。罪赦された私どもはどこに向かって自由に歩き出していくのでしょうか。それは、いつも神様のところに向かう歩みをするということです。キリストの救いは、神を礼拝する生き方へと私たちを向かわせるのです。この神がキリストをとおして与えてくださった自由を妨げるものはどこにもありません。色んな力が私たちを取り囲み、抑えつけようとするかもしれません。しかし、この世のどんな力にも屈することのない自由に私どもは生かされているのです。キリストを与えてくださったほどに愛なに満ちた神様が、宝である私どもをしっかりと捕らえていてくださるのです。だから、神様の御心を喜び、感謝して、従っていくことができます。神様の私どもへの思いが表されている十戒を心から感謝し、十戒をとおしてまことの自由を学び続けます。神様に従う歩みにおいても、罪や弱さを覚える私どもですが、「主よ、憐れみたまえ」と祈りつつ、十字架のもとに立ち帰る自由さえも私どもには与えられているのです。お祈りをいたします。

 神よ、あなたは遥か高いところにおられながら、私どもに対する愛のゆえに身を低くして、私どもと共に生きることを願っていてくださいます。御子イエス・キリストによって、罪と死から解放され、復活のいのちの喜びに生かしていてくださることを感謝いたします。その愛と恵みに満ちておられる神様が、私どもに御言葉を与えてくださり、十戒を与えてくださいます。あなたの深い御旨を知り、神と隣人を愛する喜びに生きることができるようにしてくださるためです。感謝して、あなたの言葉に戒めに耳を傾け、神様と隣人とのより良い関係を築き上げ、御国の前進のために仕えていくことができますように。感謝して、主の御名によって祈ります。アーメン。