2021年06月27日「あなたも家族も救われます」
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あなたも家族も救われます
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使徒言行録 16章25節~34節
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聖書の言葉
25真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。26突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。27 目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。28パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」29看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、30二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」31二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」32そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。33まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。34この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。 使徒言行録 16章25節~34節
メッセージ
一人の看守が死の淵から救われた物語がここに記されています。救われたというのは、いのち拾いしたとか、生き延びることができたということではありません。主イエスと真実にお会いし、心も魂も体もまるごと救っていただいたということです。罪赦され、キリストにある新しいいのちに生きることができるようになったということです。このキリストにあるいのちの喜びは、パウロやシラスが牢獄の中から神を賛美したように、どのような闇の力にも負けることのない確かなものです。光など射し込むはずがないと思うようなところにも光を見出すことができ、なおそこで神をたたえ、希望を持つことができるような素晴らしい生き方に変えられたということです。
そして、さらに驚きを覚えますのは、この看守だけではなく、看守の家族全員もまた救われたということです。自分だけでなく、愛する家族までもがキリストのものとされました。自分だけでなく、家族全員が主イエスによって人生を大きく変えられ、主によって家族が一つとされ、同じ一つの方向を向いて共に歩み始めたのです。家族はいつも一つであるというのは、ある意味、当たり前のことかもしれません。しかし、実際は夫婦であっても、家族であっても一つの絆で結ばれているどころか、同じ屋根の下に住みながら、バラバラであるということはいくらでもあることです。そういうところに、人間が抱える闇というのが何であるか。そのことが明らかにされているような思いがいたします。しかし、少なくとも使徒言行録に登場する看守とその家族はバラバラではありません。一つになっています。何よって一つにされているのでしょうか。それは、主イエスによって救われているということにおいてです。洗礼を受けて、キリストのものとされているということです。神によって救われ、その祝福の中を生きるというのは自分一人の問題ではありません。家族をはじめ共に生きる人たちを同じキリストの道に招き、心を一つにして共に歩んで行くことができる。そのような幸いが与えられるのです。
キリスト教会に与えられている大切な使命の一つに「伝道」ということがあります。キリストの福音をまだ神様を知らない人、まだ信じていない人に宣べ伝えることです。その時に、具体的に誰に伝えたらいいのでしょうか。誰にまずイエス・キリストのことを知ってもらいたいと願うのでしょうか。おそらく、家族や友人をはじめ自分にとって大切な人、親しくしている人たちの顔を思い浮かべるに違いありません。自分にとって一番大切なキリストの福音というものを、自分一人のものにするのではなく、愛するあの人とも分かち合いたいと願うのです。私はこれを信じているけれども、あなたはこのことを信じているから、別に福音を伝えなくてもいいというふうにはならないはずです。私は私、あなたはあなたとして、大事なことを大事なこととして生きていけばいいというのではなくて、イエス・キリストというのは私にとっても、あなたにとっても、誰にとっても必要なただ一つの真理、そして確かな救いである。そのことを信じて伝道の業に、教会として、キリスト者として励んでいくのです。
使徒言行録第16章31節に次のような御言葉がありました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」きっとこの御言葉に励まされて、家族の救いのために祈っておられる方は多いことでしょう。家族の中で幸いにも私一人が救われている。だから、わざわざ家族に福音を伝えなくても大丈夫だろうなどとは思っていないと思います。むしろ、愛するあの人にも主イエスを信じてほしい。救いを確信して洗礼を受けてほしい。そして、私と一緒に、教会の人たちと一緒に、福音の喜びに最後まで生きてほしい。そう願うのではないでしょうか。
さて、本日は第16章25節からお読みしました。先週、先々週とフィリピの信徒への手紙から御言葉を聞きましたけれども、使徒言行録のこの箇所も舞台になっているのはギリシアにあるフィリピの町です。そのことが11節以下に記されています。そして、16節から新しい段落が始まります。今、パウロと彼と伝道の働きを共にしているシラスは、フィリピの町で投獄されています。なぜ投獄されることになったのでしょうか。その経緯がお読みしませんでしたが、16節から丁寧に記されています。そこを見ますと、パウロたちは占いの霊に取り憑かれている女奴隷に出会ったというのです。女奴隷ですから、主人がいるわけです。その主人が占いの霊に取り憑かれているこの女を商売の道具に利用して、金儲けしていたというのです。そして、どういうわけかこの女奴隷はパウロたちの後をついて来まして、「この人たちは救いの道を宣べ伝えているのです」と大きな声で毎日のように叫び続けたというのです。彼女が言っている言葉の内容自体間違いはありません。本当に救いの道を宣べ伝えるためにフィリピの町にパウロたちは遣わされたのです。しかし、パウロにとってはいい迷惑でした。内容が正しい正しくないという問題ではなく、この女性は何よって「この人たちは救いの道を宣べ伝えているのです」と叫んでいるのかということです。神の力によってではありません。占いの霊に取り憑かれてそう言っているだけなのです。占いというのは、自分の幸福を求めるもので、そのためには神さえも利用します。神を利用しても自分の役に立たないと思えばすぐに捨てます。そして、女奴隷の主人の姿にも表れているように、占いを商売とするために、女を利用して儲けることしか考えていないのです。明らかに神様の御心と反することですし、この問題は今日の社会にも深く根付いているのではないでしょうか。まことの神を知らないということがどういう生き方に結び付くのでしょうか。結局、神と人を自分の都合に合わせて利用するだけだということです。自分の益のために、金儲けのためにここでは占いが用いられたのです。
だからパウロは、占い自体に対してもそうですが、占いの霊に取り憑かれて、如何にも神が喜びそうなことを叫ぶ女奴隷に対して、我慢することができませんでした。それで、占いの霊を女から追い出してしまいました。女はもとの状態に戻りましたから、主人にとっては使い物になりません。金儲けができなくなりました。腹を立てた主人はパウロとシラスのことを、「この人たちは人々を惑わしている」と言って訴えるのです。その訴えを聞いた高官たちもちゃんとした取り調べすることなく、鞭打ちを命じ、牢に投げ込んでしまいました。23,24節にはこうありました。「そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。」この時代の牢というのは、洞窟のような場所を利用していたと言われます。地下牢のようなものをイメージすることができるかもしれません。昼間でもほとんど光が射し込まない牢の、さらに一番奥に看守はパウロとシラスを連れて行き、足枷をはめて自由に動くことができないようにしていたと言います。足枷は両足を開いた状態で付けられていたとも言われます。その前には激しい鞭打ちを受けていますから、体中は痛み、ゆっくりと休むこと眠ることもできなかったのはないでしょうか。
人間的な見方をしますと、牢というのは、陽の光が射し込まないから真っ暗だということに留まらず、肉体的にも精神的にも悲惨な場所です。何の希望も見出すことができない場所。囚人たちが足枷でつながれているように、自由などまったくない場所です。そのように、地獄とも言えるような牢の中にいたのがパウロとシラスでありました。牢の中、しかもその一番奥に閉じこめられたならば、光も見えないのですから時間も分からないでしょう。今は朝なのか夜なのか。ここに来て何日になるのかなど…。普通なら、気がおかしくなってなってしまいます。
ただ25節を見ますとこの時、「真夜中ごろ」になっていたというのです。闇がより一層深まる真夜中、牢の中で驚くべきことが起こりました。25節にこうあります。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」真夜中、牢の一番奥から聞こえてきたのは、パウロとシラスが歌う賛美と祈りでした。牢の中には他にも多くの囚人がいましたら、彼らの賛美の歌声、神に祈る声が聞こえてきたのです。「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」とありますように、パウロとシラスの賛美には圧倒的な力、不思議な力に満ちていたということでしょう。牢の中で、初めて聞くような言葉であったのかもしれません。「聞き入っていた」というのは、例えば、学生が先生の講義を集中するようにして聞く、そういう意味があるのだそうです。パウロたちが歌う言葉、祈る言葉をひとことも聞き逃すまいと思って、聞いていたということです。決して、パウロたちの賛美の歌声が美しいからとかそういう意味で聞き入っていたのではないのです。今まで生きてきた中で一度も聞いたことがない言葉であると同時に、不思議な魅力を持つ言葉。パウロたちが口にする言葉の中に、実は自分たちが生きるうえでとても大切な真理があるのではないか。そのようなことを思わせる福音の響きというものが、パウロたちの賛美、祈りの中にあったのだと思います。しかも、彼らは今、牢獄の中から、望みなき場所から賛美と祈りをささげているのです。それはおそらく、神を喜び、神に感謝する言葉であったことでしょう。牢の中から、そのような喜びと希望に満ちた言葉が聞こえてくることはこれまでなかったのです。聞こえてきたとしても、「苦しい」とか「助けてくれ」とか「なぜ自分がこんな目に遭わないといけないのか」といった、苦痛の叫び、鳴き声、そして不平や不満に満ちた言葉であったことでしょう。しかし、パウロたちはそうではありません。むしろ、闇の中で、苦しみや痛みの中で、不条理としか思えないような中で、神を喜び賛美しているのです。だからこそ、囚人たちは聞き入ったのではないでしょうか。
パウロはローマの教会に宛てた手紙の中で次のように言っています。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」(ローマ5:2,3)キリスト者に与えられているのは希望だけでありません。苦難も与えられているというのです。そして苦難の中で、ただ呻いたり叫んだりして終わるのではなく、むしろ苦難をも誇りとし、喜ぶことができるというのです。どうしてそのような生き方ができるのでしょうか。それは、苦しみの中に、私どもの救い主であられるイエス・キリストの姿を、信仰のまなざしをとおして見ることができるからです。主イエスは罪がないにもかかわらず、犯罪人や囚人のような扱いを受けました。そして、人々に捕らえられ、鞭打たれ、十字架につけられて死なれたのです。この主イエスの苦しみは、私どもの罪を赦すための苦しみです。神様が罪人をお救いになりたいという御心に、真っ直ぐに生きてくださった主イエスが味わわれた苦しみです。その主の苦しみ、主の十字架によって私どもは救っていただいたのです。パウロだけでなく、どの時代のキリスト者たちも苦難を経験します。しかし、その中で私どもは十字架の主の御苦しみを思い、主イエスのお姿をはっきりと見ることができるのです。そして、主の言葉に聞くことができます。賛美と祈りをささげることができます。私どもの罪を贖うために十字架で死んでくださった主は、復活し、今も生きておられることを信じることができます。この神の光、主の甦りのいのちに満ちた光が、この苦しみや痛みの中にも、この牢獄の中にも確かに射し込んでいるのが見える。だから、パウロたちは苦難をも誇りとし、牢の中で神に賛美と祈りをささげたのです。
このような信仰の姿が、他の囚人たちの心を引きつけました。そして、神御自身がパウロたちの賛美と祈りに応えてくださったのです。どういう形で神様は応えてくださったのでしょうか。26節「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」つまり、神様は大きな地震を起こすという形で、賛美と祈りに応えてくださったのです。牢の戸は開き、鎖も外れてしまいます。逃げようと思えば逃げることができました。しかしどういうわけか誰も逃げようとしないのです。パウロたちの賛美や祈りにしろ、大地震にしろ、あまりにも大きなことが突然重なるようにして起こったものですから、囚人たちはあっけに取られて何もできなかったのかもしれません。
また、この時、ある意味囚人たち以上に心を乱していた人がいました。それが看守です。27節にもありますように、戸がすべて開いていましたから、看守は囚人たちが逃げてしまったと思い込んでしまったようです。もし、囚人が逃げ出してしまった場合、その責任を看守が負うことになっていました。そして、逃げた囚人が負うべき裁きや罰を、看守が代わりに受けなければいけなかったのです。今回の場合、囚人たち皆が逃げ出したと思っているわけですから、自分が責任を負わされ、死刑になることは確実だと思ったのでしょう。殺されるくらいなら、自分で死んだほうがマシだと思って、自殺しようとしたというのです。
この看守がどういう人物であったか詳しいことは分かりません。けれども、きっと真面目な人だったのではないでしょうか。上司にあたる高官たち(政治家)から命令されたら、そのとおりにします。高官たちというのは、実にいい加減な人たちでありまして、あとでパウロも抗議していますように、ろくにパウロやシラスのことを調べずに、捕まえ、鞭打ちに遭わせ、牢に入れるのです。群衆たちに好かれようとして、彼らの肩を持ち、パウロやシラスのことなど何も考えないのです。しかし、そんな酷い政治家であっても、部下にあたる看守は言われたとおりにしなければいけませんでした。そして、何か問題が起こったら、すべて看守である自分が責任を負わないといけないのです。誰も自分をかばってくれたり、助けの手を差し伸べてくれる人はいないのです。そしてついには、「死んだほうがマシだ」と思い詰めるほどの苦しみを負わなければいけないのです。このような社会の構図というのは、2千年前だけの話ではありません。何年たっても、何も変わらないのではないでしょうか。他のことがまったく見えなくなるほどに追い詰められ、死ぬこと以外に選択肢がない。本当に心痛むような思いがいたします。
しかし、神様はそのような辛く苦しい現実の中に、御言葉をもって語り掛けてくださいます。28節で、パウロは大声で叫ぶのです。「自害してはいけない!」パウロは言います。「死んではいけない!」死んではいけない、それは「生きろ!」という神様からのメッセージでもあります。もう少し言葉を補いますとこういうことです。「あなたは自害しようとしている。しかし、それは間違っている。間違った選択肢だ。自害ではなく別の選択肢をすべきだ」と言うのです。看守はパウロの大きな声を聞いて、目が覚めるような思いがしたち違いありません。声が大きいからびっくりしたということではなく、自分が如何に間違った道に足を踏み入れようとしていたか。一度、踏み入れた取り返しのつかないことになっていた。そのことに気づかされたのです。
「自害してはいけない!その選択は間違っている!看守よ、あなたは生きるように!」パウロからそう言われた看守は考えます。自害しない別の選択肢とは何か?生きるとはどういうことか?この看守はおそらく大地震が起こる前に、パウロたちの賛美と祈りに同じように聞き入りながら、囚人たちと同じように不思議な魅力に捕らえられていたかもしれません。パウロたちは囚われの身でありながら、自由である。生き生きとしている。一方、自分はどうだろうか。真面目に生きながら、実は自分の心は真っ暗ではないか。自由に生きているつもりでも、実は自分こそが囚われ人ではないか。そう考えたことでしょう。そして、この時、看守は今まさに絶体絶命の中にいました。死ぬしかないというところまで追い詰められていたのです。そのような状況で、喜びと感謝をもって神を賛美し、祈るということがどうして可能なのだろうか。そのことを知りたいと思ったのでしょう。29節、30節です。「看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。『先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。』」看守は「救われたい」と願いました。どうしたら、囚人たちを逃がしてしまった責任から免れることができるのかという、そういうことではありません。パウロたちが信じ、語り伝えているキリストの福音にあずかりたいということです。「救われるためにはどうすべきでしょうか…」。
パウロとシラスは答えます。31節「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」二人は答えます。「主イエスを信じなさい」、難しいことを言っているのではありません。ひとこと、「主イエスを信じるように」と言ったのです。ここに救いがかかっているからです。そのために多くの言葉や説明はいりません。主イエスを信じなさい…。私どもはもしかしたら、そこで色んなことを考えてしまうかもしれません。「主イエスを信じなさい」と言うのだけれども、では主イエスとはどういうお方であるとか、主イエスは何をしてくださったのかとか、主イエスと私たちの関係はどういったものなのかというふうに、色んな問いや疑問が生まれるのです。そのこと自体は良いことですし、主イエスについて、聖書からたくさん学ぶことは大事です。洗礼を受けるにあたり、教会としてどうしても知っていただきたいことがいくつかもあります。けれども、洗礼を受けるために、イエス・キリストのことも、神様のことも、聖書に書いていることもすべて理解しないといけないというわけではありません。そもそも、信仰というのは、自分が神様のことをすべて理解し、納得したうえで信じるということではありません。主イエスを信じるというのは、主イエスに「信頼する」ということです。主に自分のことをお委ねし、主に自分をあずけることです。この主に対する信頼の心がなければ、どれだけ主イエスについての知識を蓄えても、信仰には結びつかないのです。
パウロとシラスは心を込めて看守に言いました。「主イエスを信じなさい。主イエスに信頼しなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」看守は二人の言葉を聞きながら、もう一つのことに気付かされます。死ぬことではなく、生きることを選び、そして、主イエスを信じる時にある事実に気付かされます。そのことを思い起こさせる言葉こそが、「そうすれば、あなたも家族も救われます」という言葉です。生きること、主を信じることをとおして、自分には家族がいるということに思いを向けさせるのです。死にたいと思っていた時は、家族が見えていませんでした。でも主を信じる時に、私どもの目は共に生きる家族や隣人に対して正しく向けられていくのです。主イエスを信じるというのは、信頼すること、委ねることと申しました。それは、自分自身はもちろんのこと、自分が大切にしているもの、つまり、家族の一人一人を主にお委ねしていくということです。だから、看守はパウロとシラスを家に招いたのです。どうしてもキリストの福音を聞き、主を信じてほしいと願ったからです。パウロとシラスは、看守だけでなく、家族皆に御言葉を語りました。
そして、真夜中でありましたけれども、看守もその家族も洗礼を受けたのです。洗礼を受ける前に、看守はパウロとシラスの打ち傷を洗ったと記されています。主を信じ、福音を宣べ伝える歩みの中で受けた苦しみであり、傷であります。この二人の傷を水で洗いながら、キリストが十字架で負われた傷を思い起こしたのかもしれません。そして、自分もまた決して癒されることのない罪という深い傷、死に至る致命的な傷を負っているということに気付かされたのでしょう。自分もまた逃げ出した囚人のように、神のもとから逃げ出した囚人・罪人なのだと思ったことでしょう。しかし、主イエスが自分の罪の責任を背負い、代わりに十字架で死んでくださった。イエス・キリストの十字架の傷によって、私の罪の傷が癒され、神との間に平和が与えられた。この救いの恵みに感謝し、洗礼を受けたのです。看守とその家族にとって、救いの出来事は真夜中に起こりました。罪と死という真っ暗な闇の中に、まことのいのちの光が射し込み、キリストにあって新しくされたのです。看守だけではありません。看守の家族も一緒に新しくされ、主にある家族として再出発したのです。皆がキリストを見つめながら、新しい歩みを始めていったのです。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」きっと多くの人がこの御言葉を心の深いところで受け止め、伝道するという時に、真っ先に家族の顔を思い浮かべる人も多いことでしょう。一番身近な存在である家族に福音をどのように伝え、どうしたら信じてくれるようになるのか。これはキリスト者一人一人にとっての大きな祈りの課題です。家族というのは、いつも自分の近くにいますし、心を開いて話しやすい存在です。けれども一方で、家族は自分のことをよく知っています。だから、下手な失敗はできませんし、せめて家族の前ではキリスト者らしく強くあろう。弱さや罪を見せてはいけないと気を張っているのかもしれません。「お前はそれでもクリスチャンか」などと言われたら、どうしようもないところがあります。どうしたらか家族皆が主イエスを信じてくれるのでしょうか。
もう天に召されましたけれども、長く東京恩寵教会の牧師をされていた榊原康夫先生がずいぶん昔に出版された説教集の中で興味深いことをおっしゃっていました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」という言葉を、多くの人たちが誤解して読んできたのではないかと言うのです。まるで家の中の一人が主を信じたら、他の家族も自動的に、芋づる式に救われる。そういう話がここで言われているかのように思っているというのです。そういうふうに誤解してしまうから、私はクリスチャンなのに、なぜ夫は、なぜ妻は、なぜ子どもたちはいまだに主イエスを信じないのだろうか。教会にも来てくれないのだろうか。「この聖書の言葉は嘘だ」と言って、文句を言ってしまうのです。
また、「家族も救われます」ということですが、これは主イエスを信じる信仰に基づいて家庭を形成する時に、家族も救われるということです。夫婦関係も子どもの教育も信仰ということを土台にして、家庭を築いていくということをしませんと、主イエスを私の救い主と信じ、受け入れることは難しいと思います。伝道するというのは、主が与えてくださる重荷を共に担うということです。それは決して苦しいことではなく、喜びの業なのです。看守の家族皆も何もしていないのに勝手に救われたということではありませんでした。32節に、「看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った」とありますように、家族の内の一人だけでなく、皆が御言葉を聞いたのです。そこに信仰が与えられたということです。私どももそのような家族に御言葉を聞いていただけるような機会を持ってもらうことが必要ですし、そのことは自分一人ではなく、教会として考える必要があるでしょう。
榊原先生は、先程の説教集の中で、家庭におけるキリスト者のあり方について、具体的に5つのことを挙げておられました。
一つ目は、信仰というのは主がその人の心を開いてくださらないと起こりません。しかしだらからと言って、いつか信じてくれるだろうと安心をして、何もしないというのではないということです。家族に福音を伝える決断が必要です。また家族の者にも信じる決断へと、祈りつつ導く必要があるということです。
二つ目は、主を信じて救われた人は、新たな家庭を築き上げる時、つまり、結婚する時、信仰的な家庭を作り上げていくことができる配偶者を選ばないといけないということです。分かりやすく言えば、クリスチャンの人と結婚するということです。
三つ目は、未信者の方と結婚しているキリスト者は、既に配偶者に神様の祝福、聖別が与えられていることに励まされ、ぜひとも福音を聞かせ、信じていただくように努力をすることです。
四つ目は、子どもに対して、キリスト者である親が責任をもって福音を教えること。子どもが御言葉を聞くように、育てなければいけないということです。
五つ目は、家族に対して、救いのために必要なキリスト教の基本的な教え、教理をいつか必ず、伝えておくべきだということです。そして、一度、拒否されても「もうダメだ」言って勝手に諦めないことです。家族の様子や心の変化を、愛情をもって見つめ続けることが大切です。
本日の物語に登場した看守とその家族は、34節にありますように、パウロとシラスを家に招き食事をしました。そして、神を信じたことを家族全員で喜んだというのです。大きな喜びに満ちた食事の交わりであったに違いありません。教会に集う私どもの家庭の事情というのも、それぞれ違っていることでしょう。自分のことを含めて、家族に一人一人に対して安心していられる時もあれば、不安でいっぱいの時もあります。信仰のことを考えると、なおさら不安になり、自分もちゃんと伝えるべきことを伝えることができるのだろうか。家族もちゃんと信じてくれるだろうかと不安になります。そういった思いを可能ならば、教会でも共有し共に祈ることができたらいいかもしれません。
そして、キリストの福音というのは、そういった私どもが抱く不安や伝道の困難さえも吹き飛ばす力を持っているということをいつも信じたいと願います。真っ暗な闇の中でも、苦しみの中でも、私どもは神を賛美することができる。愛するあなたにもこの喜びをぜひ知っていただきたい。ぜひ、主イエスを救い主として受け入れ、信じていただきたい。この願いを忘れることなく主の業に励みましょう。そして、これからも家族と共にある皆様の歩みが守られ祝福されますように。お祈りをいたします。
苦しみの中でも喜びを見出し、闇の中でも光を見出すことができます。死の淵を彷徨うことがあっても、キリストにある甦りのいのちの希望に生きることができます。それゆえに、神様、あなたを心から賛美して生きることができるようにしてくださいました。感謝いたします。救いの恵みの中に、多くの者を招き入れてください。とりわけ、共に生きている家族のことを思います。私ども一人一人を、福音を伝える使者としてお用いください。既にあなたの祝福が家族に与えられていることを信じ、いつでも救いの喜びを語ることができる備えをすることができますように。また、私たち教会がどのような時も、神を賛美し、祈る存在としてこの場所に立ち続け、あなたから与えられた尊い使命に喜んで仕えていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。