2021年05月30日「万事が益となるように」
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万事が益となるように
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ローマの信徒への手紙 8章26節~30節
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聖書の言葉
26同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。ローマの信徒への手紙 8章26節~30節
メッセージ
先ほど、子どもたちにもお話しましたように、私どもの人生には色んなことが起こります。必ずしも年齢に比例するわけではないでしょうが、年を重ねた分だけ多くのことを経験してきたこともまた事実でありましょう。そして、それらの経験が、自分を人間としての成長に導くということも確かなことかもしれません。しかし、多くのことを経験したはいいものの、そのほとんどがあまり役に立たなかった。いったいあの経験は自分にとって、何を意味したのかよく分からない。少なくとも私の人生には必要なかった思うことがあるのではないでしょうか。
伝道者である使徒パウロは次のように語りました。ローマの信徒への手紙8章28節です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」この聖書の言葉は、キリスト者に愛されている御言葉の一つかもしれません。「どの聖書の言葉が好きですか?」「葬儀の時に、どの御言葉を語ってほしいですか?」そのように尋ねますと、きっと多くの方がこのローマ書第8章28節の御言葉をあげることでしょう。細かいことはあとでお話しますが、なぜこの御言葉がキリスト者たちに愛されているのでしょうか?本人に直接聞いてみないと詳しくは分からないと思うのですが、特に「万事が益となるように共に働く」という言葉が心にずっしりと来たのでしょう。万事が益となる…、ああ、本当にそのとおりだと思ったのでしょう。きっと、言葉には表せないほどに辛い経験をどこかでしたのかもしれません。ただ涙するしか他なかったのかもしれません。そのような時に、教会の礼拝に出る機会があった。その後も続けて通うようになり、ついに、キリストと出会い、洗礼へと導かれたのです。色々あったけれども、結局は神様によって救われるためだったのだ。これからも色んなことが起こるかもしれないけれども、イエス様を与えてくださったほどに私のことを愛してくださる神様の御手にお委ねして生きよう。そのように心から神様に感謝することができるようになったのです。これまでの自分もすべて受け入れることができるようになったのです。その今の自分の気持ちを見事に言い表している御言葉こそ、ローマの信徒への手紙の言葉だと思ったに違いありません。それ以来、忘れることができない言葉となったのです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」私どもの人生は神とお会いする、キリストとお会いする。この一点において、「すべてが益となる!」そのようにはっきりと言うことができるのです。
また、この御言葉について別の見方をする人もいることでしょう。それは、自分に起こる一つ一つの出来事の中に、確かな神の恵みを見出すことができるということです。「これとこれは神の恵み。でも、これは神の恵みではない。」そうやって一つ一つを自分の好みで判断するというのではなくて、「この出来事のどこに神の恵みがあるのか?」と思うようなことの中にも、しっかりと恵みを見つけ、それを数えるようにして生きていくということです。特に、苦しいこと、辛いことが起こったときはたいへんですが、それでも先週共に聞きましたように、聖霊の助けと執り成しの中で、神に祈り、神と向き合って生きていくのです。
河野進という日本基督教団の牧師をされていた方がいます。牧師の働きと共に、岡山県の玉島という島にあるハンセン病の療養所で慰問伝道を長く続けてこられました。文学の賜物にも恵まれ、多くの詩を残されています。その中に「病む」という詩があります。次のような詩です。
「病む」
病まなければ
聞き得ない慰めのみ言葉があり
捧げ得ない真実な祈りがあり
感謝し得ない一杯の水があり
見得ない奉仕の天使があり
信じ得ない愛の奇跡があり
下り得ない謙遜の谷があり
登り得ない希望の山頂がある
病にかかる、病気になるということは、一般的には辛いこと、苦しいことだと考えられています。いのちに関わる大病、不治の病にかかったときは、なおさらのことでしょう。治療の日々も、たいへんな忍耐が強いられます。どうして私が、病に苦しめられなければいけないのか。そのような問いが、自分の心の中で渦巻き、答えが見つからない中で、自分の人生を呪うこともあるかもしれません。しかし、河野先生は、病という辛い状況を、キリストに対する信仰において、新しく捉え直しています。「~しなければ、~だったのに…」と言って、後悔と諦めの念に捕らわれるのではなくて、「~しなければ、得ることができなかった恵みがあるのだ」と、詩の中で繰り返し語るのです。私は今、病の中にあり、とても辛いけれども、まだ先行きもはっきりせず不安なのだけれども、しかしそうであるからこそ見えてくる神の恵みがあると言うのです。そして、それらの恵みは、病にならなければ、決して、知ることがなかった恵みなのだと言います。だから、病になったことが、実は、私にはよかったのだと心からそう語るのです。
病をはじめ、様々な試練に陥った時、そして、そこからなかなか抜け出すことができずにいる時、私どもはいったいどうしたらいいのでしょうか。何事も消極的に考えてはいけない!前向きに考えよう!そのように自分で自分に言い聞かせる人もいるでしょう。とにかく慌てないように、落ち着いて対処できるように、自分の心を上手くコントロールすることに努める人もいるでしょう。いずれも大事なことだと思います。ただ、河野先生がこの詩の中で語っていることは、単なる「ポジティブに考えましょう」ということではないようです。自分で自分に良い言葉を語り聞かせるのではないです。キリスト者は、自分の言葉ではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生かされることを知っています。自分の「内」(自分の「なか」)にある言葉ではなく、自分の「外」から語り掛けられてくる言葉によって生かされていることを知っているのです。だから河野さんは語ります。「病まなければ聞き得ない慰めのみ言葉がある」と。健康な時には、聞こえなかった神の言葉。いや、前から知ってはいたのだけれども、自分を本当に生かす言葉として聞き得ていなかった神の言葉を、病の中において、自分に迫ってくる恵みの言葉として、新しく聞いたのです。健康の時には、神様と真っ直ぐ向き合って祈ることができなかったけれど、病になって、はじめて神様に祈りをささげ、自分を神様に委ねることができるようになったのです。
また、この詩の中で「聞き得ない」「捧げ得ない」「感謝し得ない」というふうに、「得ない」という言葉、つまり「得」という言葉が繰り返し用いられていることに気付かされました。「なぜこんなことに…」という状況下にあっても、「得すること」「得る」ことができる確かな恵みがあるというのです。病になることは「損」することではありません。むしろ「得」をすることなのだと大胆に語ります。キリスト教信仰は、いわゆる御利益宗教ではありませんが、キリストを知ることによって与えられる「益」や「得」は、私たちの心では計り知ることはできないものがあります。こんなことになって何の得があるのかと思われるそのところで、「得る」ことができる恵みを、神様は与えてくださいます。きっとこのような経験を河野先生だけではなく、数え切れない多くのキリスト者たちが経験してきたのです。また、このような御言葉経験に生きたキリスト者の証しを聞いて、励ましを受けた人もずいぶん多いと思うのです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
「万事が益となる」というのは、たいへん愛されている御言葉です。でも、もしかしたら、こんな上手い話はないのではと疑ってしまう方もいるのではないでしょうか。決して、神様をまだ信じていない人たちのことだけではなく、キリスト者であっても、本当に万事が益となるのだろうか?と思っている人もいると思うのです。もちろん、御言葉をそのまま信じることができたらいいのですけれども、まだ心から信じることができないのです。それは、自分が今苦しみの只中に置かれているからかもしれません。よく考えて見ますと、今自分が本当に苦しい状態にある時、「すべては上手く行きますから」「神様は万事を益としてくださいますから」。そのように誰かから励まされたとしても、なかなか素直に受け取ることができないのではないでしょうか。言葉自体は間違っていないのですが、どうしても自分の心は満たされないということがあると思うのです。
「万事が益となる」という時、すぐに慰めを覚える人もいれば、「そんな上手い話があるものか」と言って反発する人もいます。「信じたいけれどもまだ今の自分では難しい」と言う人もいるのです。反応は様々です。改めて思いますことは、「益となる」とはどういうことなのかということです。元々は「善に至る」という意味があります。何が益で、何が善なのでしょうか。一つ注意しないといけないのは、何が益で、何が善であるかということを、誰が判断するのか。そのことをちゃんと知る必要があるということです。何が益であるかを判断するのは自分でしょうか。他の人でしょうか。それとも神様でしょうか。注意しないといけないと申しましたのは、下手をするとこの28節の御言葉を「自分」の都合のいいように読んでしまうということがあるからです。つまり、自分が判断をして、「これは益だ」と思えば益になりますし、「これは何の意味もない」と判断すれば、そうなってしまうのです。そのように、一つ一つの出来事が起こる度に、これは自分にとって、「益があるのか?損なのか?」「善いことなのか?悪いことなのか?」ということを疑いながら慎重に判断し、その度に一喜一憂するような生き方をしなくてはいけなくなります。しかし、それが神に救われた人の生き方なのだろうか?ということです。
もちろん自分がどう思うか、自分がどう感じるかというのはとても大切なことだと思います。自分の中に何の喜びもないのに、「信じなさい」と言われて、信じてみたところで、何の意味もないと思うからです。そういう意味で、自分がどう思うか、どう信じるかということは大切にしなければいけません。しかしながら、同時に思わされますのは、救いというのは、私どもが「自分」というものに執着するあまり見失ってしまってしまったものを、もう一度新たに与えてくださったということでもあるということです。ですから、「万事が益」となるという言葉を聞くと時に、一度心を落ち着かせて御言葉に聞く必要があります。つまり、自分の都合のいいような仕方ではなく、神様の御心にかなう仕方で「万事が益である」という御言葉を理解しなければいけません。
パウロは28節の初めで、「神を愛する者たち」と言って、ローマの教会の人たちに呼び掛けています。「自分とは誰か?」ということを問う時に、何よりも私たちは神を愛する人間ではないかというのです。パウロが「愛」という言葉を用います時に、大抵の場合は、神から人への愛を表す場合によく用いられるのです。反対に「私たち人間が神を愛する」という言い方はあまりしません。「神を愛する」というよりは、「神を信じる」という言い方をパウロはよくします。それだけに、ここで「あなたがたは神を愛している人たちだ」という言葉遣いをしているのには、きっと特別な思いがあってのことでありましょう。「あなたはあなた。他に代わりはいない。でもあなたがあなたで在ること以上に、あなたは”神を愛している人間”ではないか」と言うのです。
その神への愛はどこから生まれたのでしょうか。パウロが「愛」という言葉を用いる時、繰り返し、人間に対する神の愛を集中的に語った理由がここにあるのです。つまり、神への愛を呼び起こしてくださったのも、神御自身であるということです。28節にはそのことを、「御計画に従って召された者たち」と言っています。神様の御計画(これは救いの御計画のことです)、この御計画の中に私どもを招いてくださったのです。「召された」というのは、呼ぶとか集めるという意味です。30節にも「召し出す」という言葉が出てきます。召されたら、呼ばれたら、そこでじっとしていないで、神様のもとに行くのです。召された、出て行くのです。そこに神がイエス・キリストをとおして用意してくださった救いがあり、その恵みにあずかることができました。そこに神への愛が生まれ、信仰が生まれたのです。
そして、私どもを救ってくださった神を愛するということは、救いの御計画の中に表れていますように、神の「御心」に従うこと、神の御心が実現することを願うことです。ですから、「万事が益となるように共に働く」という言葉を聞いて、「自分にとってこれが益であるか、益でないのか?」そのことを最初に考えるのではなくて、まず問うべきことは、私は心から神を愛しているか?ということです。私は自分の願いではなく、神の御心が実現することを願っているか?ということです。神を愛さないところで、神を信じないところで、いくら「万事が益となるように共に働く」とはどういうことかを考えてみても、よく分からないのです。分かったとしても、結局は自分の都合のいいようにしか「益となる」ということを理解できないのではないでしょうか。結果さえ良ければ、あとは別にどうでもいいのであって、ここまで神様がどのような思いで自分と向き合ってくださり、守り導いてくださったか。そういったことにはほとんど思いが向かなくなるのです。
神への愛を日々確かなものとしていくということ。これが私どもキリスト者にとっての大きな願いであり、祈りです。神をますます愛する者とされていく。このことも自分の力ではなく、聖霊なる神のお働きの中で起こることです。ローマの信徒への手紙第5章5節で、パウロはこう言っています。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」自分が神に愛されているかどうか?それが分かるのは聖霊が働いてくださるからだというのです。また、第8章26節で語られていますように、聖霊はどう祈るべきかを知らない私ども助け、執り成してくださいます。また、神への愛を私どもの中で養い育ててくださるのです。うめかざる得ない現実がこの世界にも、私どもキリスト者の中にあります。「終わりの日まで忍耐して待ち望もう」と言うのですけれども、「やっぱり苦しい…」ということがあるのです。しかし、私どもに与えられている聖霊が、言葉にできない私たちの思いを、うめきをもって執り成してくださいます。また15節にありますように、「アッバ、父よ」と言って、私どもの代わりに祈ってくださるのです。私どもは、キリストによって「神の子」とされ、聖霊の働きによって「アッバ、父よ」と呼ぶことができるほどに、神様を愛し、神を信頼している自分であることに気付かされていくのです。聖霊の助けの中で、私どもは自分を見失わずに済みます。もうダメだと思うところで、神様としっかりとつながって生きることができるのです。このことこそ、キリスト者にとっての「まことの益」ということではないでしょうか。何が私どもにとって益であるのか?そのことを決めるのは、私どもではなく神様です。その神様を愛し、礼拝する心をいつも持ち続けることです。持ち続けることができるように、聖霊がいつも助けてくださることを信じることです。
さて、もう多くを語る時間はありませんが、29節、30節では神様の救いの御計画というのがどういうものであるのか、そのことが語られていきます。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」初めて出会った人が、自分のことを前からよく知っていてくれた。あるいは、出会う前から自分のためにずっと祈ってくれていた。そのような人との出会いというのは本当に嬉しいものです。神様が前もって、私どものことを知っておられると言う時には、それ以上のものがあります。出会う前から、あなたを救うことを定めていた、予定していたということなのです。
そして、救いというのは、罪から救われるということですが、ここでは「御子の姿に似たもの(キリストの姿に似たもの)」となるということです。聖書の最初に記されている創世記を見ますと、人間は神に似た者として、神のかたちを与えられたものとして造られたことが記されています。神のかたちというのは、神様と共に生きることを喜ぶ人間として造られたということです。罪というのは、その神のかたちを失ってしまったということです。その神のかたちをキリストによって回復していただき、あるべき人間の姿に造り変えられたということです。これが救われたということです。アウグスティヌスという古代教会の神学者は、次のような有名な言葉を残しました。「あなたはわたしたちを、あなた御自身のためにお造りになりました。わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまで、平安を見いだすことはできないでしょう。」私どもが安心して生きられるのは、神様が私どもをお造りになり、いのちを与えてくださった、その御心にかなう生き方をする時です。神様のうちにいつも心が安らいでいるならば、そこには平安があります。聖霊に助けられ、神を愛し、神に祈るならば、もうそこに平安があるのです。
また救いの喜びは、29節後半に記されていますように、キリストを長子とする「神の家族」の中に入れられることです。救いは自分一人にではなく、神の民に与えられているからです。この地上においては、キリストの体である教会に連なって生きることの中で、救いの恵みの豊かさにあずかることができます。救いの御計画の中に私どもを招いてくださり、キリストにおいて義としてくださいました。キリストの十字架のおかげで、神の前に立つことができるようになりました。神の救いにあずかりながらも、この世界にはなおうめかざるを得ないような現実があります。何とかなる、最後にはどうにかなると思いながら、本当はもうどうしようもないのだと望みを失うことがあります。しかし、聖霊の助けによって、苦難の中でも私どもは神を愛する者として立ち続けることができます。愛する神の名を呼び続けることができます。ここに平安があることを信じてもよいのです。
私どもは、終わりの日の救いを待ち望みながら生きています。30節に、「義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」とありました。「栄光」というのは、先に記されていた「召し出す」とか「義とする」ということとは違って、将来において私どもに与えられるものです。しかし、パウロは「栄光をお与えになったのです」と言って、将来において与えられる約束が、もう今ここで既に与えられたかのような言い方をするのです。それほどに神の救いの約束は確かだということでしょう。それゆえに、今、キリストによって神を愛する者とされていることを心から喜ぶことができます。神の御心、神の御計画が貫かれるところに、「万事が益となる」ということの、まことの幸いを覚えることができるのです。お祈りをいたします。
私どもの歩みには予期せぬことがたくさん起こります。いくら備えていても受け止めきれないほどの大きな出来事に呑まれることもあります。その中にあって、うめきつつも、望みを失うことがありませんように、どうか聖霊によって助けてください。神を愛し、「アッバ、父よ」と呼ぶことができる幸いに生きることができますように。心から神様を愛し、崇めるところに見えてくる喜びを、これからもしっかりと見つめ、歩んでいくことができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。