2021年05月23日「うめきつつ、執り成す神の霊」

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うめきつつ、執り成す神の霊

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 8章26節~27節

音声ファイル

聖書の言葉

26同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。ローマの信徒への手紙 8章26節~27節

メッセージ

 本日の礼拝はペンテコステ記念礼拝としてささげています。主イエスが復活された日から50日後、エルサレムに集まっていた人々の上に聖霊が降りました。「使徒」と呼ばれる主の弟子たちは、聖霊の力に満たされ、福音を力強く語りました。そこに主を信じる群れ、つまり、キリストの教会が生まれたのです。ですから、ペンテコステは「教会の誕生日」と呼ばれることもあります。「教会とは何か」ということを考えるうえで、ペンテコステはとても大切な出来事です。そして、教会を形づくる私ども一人一人のことを考えるうえでも、同じように大切な出来事になってきます。

 先ほど、共に聞きましたのは、使徒パウロが書いたローマの信徒への手紙第8章の御言葉です。このローマの信徒への手紙は全部で16章あります。第8章はその丁度半分に位置します。ここからこの手紙は新しい展開に入ります。それは、単に前半から後半へということではなくて、パウロはここから聖霊について語り始め、それからキリスト者の生活、教会生活とは何かということが語られていくということです。これまで「救いとは何か」ということについて丁寧に語ってきたパウロが、今度は「救われた者はどういう生活をするのか」ということについて語り始めるのです。そして、聖霊というのは、救いと生活を一つに結びつける大切な働きをするのだということを、ここで人々に告げるのです。救いと生活がバラバラになってしまわないように、救いの喜びの中を最後まで生き抜くことができるように、私どもに聖霊が与えられています。

 では、私どもに与えられている聖霊はどのような仕方で働いてくださるのでしょうか。26節に、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」とあります。聖霊というのは私どもを助けてくれる存在だというのです。「弱いわたしたち」とありますが、直訳すると「わたしたちの弱さ」となります。どちらも同じような意味なのですが、「私たちの弱さ」という言葉で理解しますと、私たちが持っている「具体的な弱さ」とは何であるのか?このことに、より心の目を向けることができると思うのです。誰でも自分の弱さや弱点というものを持っているものです。そして、パウロがここで言う「わたしたち」というのは、既に洗礼を受けた人たちのことです。洗礼を受けたから、今まで持っていたすべての弱さを克服することができたかと言うと、決してそんなことはないのです。キリスト者になってからも経験する自分の弱さというのもたくさんあると思うのです。例えば、病気になること、体力の衰えを感じることも弱さの一つでしょう。歳を重ね老いることも弱さかもしれません。体のことだけでなく、心においても自分の弱さを覚えることがいくらでもあると思うのです。洗礼を受け、キリスト者になって、確かにこの部分において自分は強くされたかもしれないけれども、どうもこの部分はまだ弱いままだ。むしろ、前もよりも弱くなったような気がする。そういうこともあると思うのです。そのように、多くの弱さを抱えている私どもです。

 この手紙を書いたパウロ自身も病を抱えていましたし、他にも迫害や教会のことで思い悩んだ人です。その度に、弱さというものを覚えたことでありましょう。様々な弱さを身をもって知っていたのがパウロでした。そのパウロが本日の箇所で言う「わたしたちの弱さ」とは何なのでしょうか。どのような意味で、私たちは弱いのでしょうか。それが、26節の真ん中「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが」ということです。つまり、祈りにおける弱さがここで指摘されているのです。キリスト者の弱さの中の弱さ、弱さの本質とも言えるのは何か?それは祈りだと言うのです。どう祈るべきかを知らないということです。「あなたはどう祈るかを知らないね。だから、あなたは弱いのだ。」そのように誰かから言われたらどう思うでしょうか。「そのとおりだ」と思う人もいるでしょう。あるいは、「祈ることができない日もたまにはあるけれども、それでも祈りの生活を大切にしています」と言う人もいるでしょう。あるいは、「すらすら言葉が出てくるわけではないけれども、どうやって祈ればいいかくらいは知っている」と反論する人もいるかもしれません。しかし、パウロが語る「どう祈るべきかを知らない」というのは、何をどういうふうにしたら祈りになるのか、具体的にどういう言葉を口にしたらいいのか、その方法・やり方を知らないから弱いのだということではないのです。祈り方は知っているのです。「祈りなさい」と言われれば、祈ることができるのです。そういう意味では、神を信じてない人でも「祈り」をすることができます。祈るべき言葉を知っています。自分の願いや心の思いを並べて、それを言葉にすれば祈りになると信じて、皆祈っているのだと思います。

 しかし、パウロが言う「どう祈るべきかを知らない」というのは、祈りの方法ということではなくて、祈りとは何か?という本質に深く関わることです。真実の祈りとは何かということです。祈っているのかもしれないけれども、その祈りが真実の祈りになっていないということです。この「祈る」と訳されている言葉は、「礼拝をささげる」という意味の言葉です。神に祈るということは、神に礼拝をささげるということです。だから、神に祈るけれども、神を礼拝しないということはあり得ないことです。けれども、パウロが見抜いている問題はまさにここにあるのです。色んな願いを神の前に並べることはできるかもしれない。でも、そこで神を心から礼拝しているのか?そこで神の御顔を仰いでいるのかということです。そうしますと「弱さ」というのは、自分の弱点と短所はこれとこれでというような話では、もちろんなくなってきます。あなたがあなたとして立つことができなくなるほどの弱さ、致命的な弱さということです。キリスト者に限らず、すべての人にとっての決定的な弱さ、それはもう「罪」と言ったほうが適切だと思いまが、それが「どう祈るべきかを知らない」ということです。

 よく「祈りは呼吸のようなものだ」と言われることがあります。呼吸することができなくなると、弱り果て、いのちが尽きてしまいます。目には見えませんが、呼吸することが大切なことは誰にでも分かるのです。いのちの息である聖霊を吹き入れたられた私どもは、神の息を呼吸するようにして、祈りに生きるのです。聖霊は目に見えませんが、祈る度に、私どもはキリストに結ばれている存在であること、また神の子とされた存在であることを覚えることができるのです。そして、神を礼拝する者として生かされている幸いを覚えることができるのです。今日もこうして、主の御体である教会に集められ、礼拝をささげることができているのも、神の霊が生きて働いてくださっている確かなしるしであります。キリスト者にとってのいのちの息、そして、教会にとってのいのちの息が取り去られてはいけません。御霊の炎を消してはいけないのです。

 そして、パウロが本日のところだけでなく、この第8章において注目していることの一つに「うめき」ということがあります。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」22節、23節でも「うめく」ということが語られています。被造物がうめき、私どもキリスト者がうめいています。このうめきは、絶望的なうめきではなく、その先にある希望を待つうめきです。だから、25節で「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」とあるとおりです。私どもが生きるこの世界も、私たち自身もうめかざる得ない現実がある。しかし、それは産みの苦しみである。この先に復活がある、希望がある。だから、目に見える現実に捕らわれないで、目に見えない信仰の事実、霊的な事実に心の目を向けようというのです。

 しかしどうでしょうか。「忍耐して終わりの日を待ち望もう」「目を覚まして祈り続けよう」と言われて、そのとおりにできるでしょうか。何もない時は、いつものように祈りつつ望みに生きることができるかもしれません。けれども、うめかざる得ない現実の中で、自分の弱さや惨めさを痛感する中で、なお神に祈り、神を礼拝し続けることができるでしょうか。形のうえでは、辛い時でも祈ることができるかもしれません。しかし同時に、私どもは祈りにおいても罪を犯してしまいます。自己中心的な祈りになってしまうということです。「助けてください」と叫びながら、一方では心が色んな方に向いてしまっていることがあります。祈りながらも、色んな言い訳をしてみたり、「こうなったのは誰のせいだ」と言って恨んでしまうことがあります。

 ある説教者は、「人間の弱さほど手に負えないものはない」と言っていました。決して、弱さを抱えている人を軽んじている言葉でありません。ただ、弱さを覚えている人を大事にし過ぎると、その人が相手の優しさにつけ込んで、思い上がってしまうことがあります。逆に、厳しく接し過ぎると、ひねくれてしまうこともあるでしょう。誰か他の人のことではなく、自分自身のこととして考えてみても本当にそうだと思うのです。弱さというものは、自分にとっても周りの人にとっても本当に厄介なものなのです。そう簡単に、そう綺麗な仕方で、弱さを克服することができるわけではないからです。なぜなら、パウロがここで言う「弱さ」というのは、人間の罪の問題でもあるからです。私たちのあらゆる弱さの中に、祈ることができないという根本的な弱さの中に、罪というものが入り込み、ずっとまとわりついてくるのです。その罪を自分ではどうすることもできないのです。祈るしかないのですけれども、どう祈ったらいいのか分からないのです。罪の闇に覆われて、神様のお姿をちゃんと見ることができないのです。

 しかし、そのような弱い私たちを助けてくださるのが聖霊です。聖霊はキリスト者の弱さの急所である「祈り」において、助けの手を差し伸べてくださるのです。私どもは日々、色んな助けを必要としています。その度に、助けの手が与えられることを願うのですが、私どもに必要な根本的な助けとは何なのでしょうか。「この助けさえあれば、私は生きていける。」「うめきたくなるような現実においても、この助けが与えられれば望みをもって生きていける。」そのように言えるものとは何なのでしょうか。それが聖霊による助けです。聖霊は真実に祈ることができるように、私たちを助けてくださるのです。この「助ける」という言葉は、どこにでもありそうな言葉ですが、新約聖書の中では2回しか用いられない珍しい言葉です。元のギリシア語は三つの言葉が組み合わさってできています。一つ目は「一緒に」「共に」という意味。二つ目は「代わって」という意味。最後の三つ目は「受け取る」「重荷を引き受ける」という意味です。聖霊は私どもと一緒に働いてくれるのです。聖霊は「辛いなあ」と私どもが思う時、私たちと代わってくれるのです。代わりにその重荷を受け取り、背負ってくれるのです。

 このような聖霊の働きについて、「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」とパウロは言っています。もう一つの鍵となる言葉は「執り成す」という言葉です。27節にも「“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」とあります。聖霊は私どもを助けてくださり、私どものために執り成してくださいます。「執り成す」というのは、両者の間に立って、物事が上手く行くようにしてくれる、互いの仲をとりもってくれる。そのような印象があるかもしれません。しかし、聖霊における執り成しというのは違うのです。両者の真ん中に立つのではありません。明らかに聖霊は、私どもの側に立ってくれるのです。間に立って、私どもの祈りを一旦に手に取って、それを神様のもとに届けてくれるというのではないのです。そもそも弱い私たちは、祈ることすらできないのです。うめくような現実の中で、望みを失い、どう祈ったらいいのかさえ分からないのが私どもです。でも聖霊は、祈ることができないこの私に代わって祈ってくれるのです。しかも、流暢な言葉で、私どもの思いを代弁して祈るではありません。「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」のです。よく考えてみますと、「うめき」というのは、苦しみのあまり、言葉にして表すことができない状態を意味します。「自分にはこういう弱さがあって」「このことで苦しんでいて」というふうに言葉にすることさえできないのです。だから、自分が抱えている苦しみを相手に伝えることさえできないのです。言葉にもできない、訴えることもできない、共感してもらえる相手もいないのです。そのような、うめきたくなる現実の中で、さらに孤独へと追いやられています。二重の苦しみがここにはあります。

 しかし、私どもには聖霊が与えられているのです。聖霊が私どもを助け、うめくように執り成してくださいます。人間の弱さほど厄介なものないと言いました。そこに罪というものが絡み付くからです。だから人は弱さの中でも、悲しみの中でも、祈ることにおいてさえ罪を犯します。パウロも第7章の終わりのところで言いました。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24) これは救われる前の人間の言葉ではありません。救いの恵みにあずかりながらも、罪を重ねてしまう自分を見て言うのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう…」。しかし、パウロはすぐさま、「キリストのゆえに神に感謝します」と語り、私どもに与えられている聖霊の働きに目を向けるのです。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

 今回「執り成す」という言葉を調べていて、改めて教えられたことがありました。「執り成す」という言葉には、「誰かのもとに行くこと」「誰かと出会うこと」「誰かに訴え出ること」。そのような意味があるということです。聖霊が私どもの代わりに、うめくようにして執り成してくださる時、そこに私どもと神様との出会いが与えられるということです。聖霊が私どもを助け、私どもの代わりにうめくようにして祈られる祈りは確かに聞かれているのです。祈りが聞かれるというのは、そこに神との出会いが起こっており、神を神として礼拝するという人間本来の健やかな姿がそこにあるということです。

 最近ある方から勧められまして一冊の本を読みました。『妻と最期の十日間』という本です。著者は桃井和馬という写真家、ジャーナリストをされている方です。両親が牧師であり、桃井さん自身もキリスト者の方であられます。キリスト教の出版社からも何冊か本を出されていますが、この小さな本は集英社から出されたものです。「集英社新書」と呼ばれるシリーズの一番最初に出されたものでした。「妻と最期の十日間」という本の題にあるように、妻の死を看取るまでの十日間を詳細に記したものです。桃井さんの奥様は41歳という年齢で天に召されました。私とほぼ同じ年齢です。奥様は、ある日突然、くも膜下出血に襲われ、職場のトイレで倒れていたというのです。状態は悪く、回復の兆しはほとんどありませんでした。やがて、医師から脳死を宣告されるのです。

 桃井さんはフォトジャーナリストとして、世界中を飛び回り、戦場などの危険な場所にも何度も足を踏み入れたことがありました。目を覆いたくなるような悲惨な光景を何度も目にしてきた人でした。しかし、愛する妻が病で倒れたというのはまったく別の話です。もう妻の意識がないということを聞いた時、桃井さんは取り乱し、自分自身をしっかりと保つことができなかったと言います。困惑した思いはなくならないものの、桃井さんは妻と向き合い、まだ当時小学校6年生だった娘をはじめ、現実と向き合うことを決意されます。その十日間の様子がとても丁寧に記されているのです。妻の症状や、医者や家族をはじめ周りの人々の様子。また、桃井さん御自身がジャーナリストとして、世界の各地で見てきた死の風景が重ね合わさるようにして、本が記されていくのです。

 その中に次のようなことが記されていました。十日の間に、色んな人たちから励ましの言葉を電話やメールでいただいたのだそうです。その多くは、「妻の回復を願っている」という内容のものだったと言います。皆がキリスト者ではありません。でも共通するのは「奇跡は起きる」「奇跡が起きてほしい」というものであることに変わりないのです。人間の力によって回復する見込みはない。だから、人間を超えたお方に奇跡を願う他ないと思ったのでしょう。けれども、桃井さんは、回復と奇跡を願う祈りの言葉を聞き続けながら、本当に今ここで祈るべきことは奇跡を求めることなのだろうか?と疑問を呈しておられるのです。愛する妻はもう脳死と告げられているのです。

 このことの関連で、桃井さんはナチの時代に生きた神学者ボンヘッファーのことを紹介しておられます。ボンヘッファーは繰り返し、「機械仕掛けの神」ということを否定し続けました。私どもが信じる神は、自動販売機のボタンを押したら、勝手に商品が出てくるような、いわゆる都合のいい神ではないということです。奇跡を願えばすぐに奇跡を起こしてくださる神は、まことの神でも何でもありません。神は、人間の欲望の中にしか住むことができない小さな神ではないのです。もし奇跡が起こらなければ、私どもは神を捨て、神を恨みながら死んでいくのでしょうか。「妻の病が回復するように」と必死に願いながら、その祈りが聞かれなければ、神を恨んだまま愛する者と別れなければいけないのでしょうか。そして、もし人間が神に対して奇跡が起こることしか願わないようになったとしたならば、どうなってしまうのでしょう。それは必ず自分自身を見失うということです。そして、神ではなくヒトラーに従うようになります。「すぐに願いを叶え、経済の混乱と危機を救ってくれる者こそが、私たちの神なのだ」と何の疑いもなく口にするようになるのです。恐ろしいことです。でもその恐ろしさに誰も気付かないのです。

 だから、桃井さんは奇跡を求めることをやめるようになりました。僅かな時間であっても延命治療をすることさえも拒否したのです。ただ皆様に誤解していただきたくないのは、神様に祈る時、奇跡を求めたり、願いを口にすることがいけないと言っているのではないということです。神様は何でもおできになるお方です。御心であれば、病を癒すことも、死んだ者を甦らせることもお出来になります。けれども、安易な仕方で、いつも自分にとって都合のいい仕方で、神に奇跡を求めること。それは間違っているということです。私たちの神は奇跡に答えてくれるだけの小さな神ではないのです。だから、簡単に「奇跡を求める信仰」から、徹底的に考え抜く「奇跡を求めない」信仰へと変わっていったというのです。「徹底的に考え抜く」というのは、神と徹底的に対話するということでもあるでしょう。神との対話はとても豊かなものです。神は人間の願いをすべて受け入れてくださり、望みどおり答えてくれる。神はそんなちっぽけな対話をなさるお方ではありません。もっと深く、もっと豊かなものなのです。対話と言いながら、徹底的に考えると言いながら、ほとんど言葉になっていなかったのかもしれません。うめくことしかできない苦しみの中で、しかし、自分の思いよりも遥かに大きい神に心を向けたことでありましょう。そして、桃井さんは、妻が人間を超えた領域に向かいつつある今、人間を超えた存在、つまり神を信じる者として、私は何が起きようともすべてを受け入れたい。覚悟を固めたいと思うようになったと言います。そして、このように祈るようになったと言うのです。「あなたの判断すべてを受け入れさせてください。それを受け入れるだけの力を、私にください。」奇跡を願うことだけが祈りではありません。真実の祈りはもっと豊かなものです。もうどうしようもない中で、聖霊に助けられて祈る時、私どもは平安へと導かれます。心静かにしながら、神がなさることを受け入れることができるように力を与えられるのです。「あなたの判断すべてを受け入れさせてください。それを受け入れるだけの力を、私にください。」

 さて、パウロは27節で、「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます」と言いました。細かいことを申しますが、27節前半の言葉は、普通はこうなると思うのです。「人の心を見抜く方は、“人”の思いが何であるかを知っておられます。」神様は人の心をご覧になり、その人間の心の中にある思いが何であるかを知っていてくださるのです。でもパウロは、神様が私どもの「心」をご覧になる時、そこに見えるのは私ども「人間」の思いではなくて、「霊」の思いだというのです。神様はおっしゃるのです。「あなたの心を見ると、そこに聖霊が見える。あなたの心と聖霊の思いは一つになっている。聖霊はいつもあなたと一緒にいる。」うめくことしかできないような現実において、私どもは聖霊と共にあることを信じることができるのです。そして、神に祈り、神の前に立つことができるのです。

 繰り返し語られます「うめく」ということですが、その思いを言葉化することは難しいかもしれません。しかし、手掛かりになる一つの言葉が同じ第8章にあります。第8章14節、15節です。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」聖霊が言葉にならないうめきをもって執り成してくださる時、「アッバ、父よ」と呼んでくださるに違いありません。祈りというのは、「アッバ、父よ」とひとこと呼ぶことさえできれば、もうそれで十分と言えるところがあります。私どもの幸いは、キリストによって神の子とされていることだからです。「神の子」と呼ばれるほどに、神に愛され赦されているからです。

 本日はペンテコステ記念礼拝です。聖霊は、「私」という一人の人間だけではなく、キリストの体である「教会共同体」にも与えられています。教会に与えられている使命はたくさんありますが、「わたしの家は、すべての民の祈りの家」(イザヤ56:7)と神様がおっしゃっておられるように、教会が「祈りの家」としてこの場所に、この千里山の地に立ち続けていくことが大切なことではないでしょうか。自分のこと、教会のこともそうですが、この町・この世界のために執り成し、祈り続けます。うめかざるを得ないような現実の中で、私たち教会は、聖霊に助けと執り成しの中で祈ることをやめません。そして、教会が祈りに生きることをとおして、キリストを証ししていくのです。神様はあなたの願いや奇跡を聞いて、それを叶えてくださるだけの小さなお方ではないということ。神様はもっと大きく、もっと豊かなお方であること。そして、あなたの願いを遥かに超えた喜びの中に、神様は導いてくださるということ。この神様の愛をあなたもぜひ受け入れてください。そのように祈りつつ語ることができます。いや、祈ること自体がもう既に神の救いとは何かということを明らかにしていると言ってもいいのです。皆様お一人お一人の歩みが、私たち千里山教会の歩みが、聖霊によって喜びと希望に満ち溢れたものとなりますように。祝福を心から祈ります。お祈りをいたします。

 御霊なる御神、あなたの助けと執り成しによって、私どもの信仰が守り支えられていることを感謝いたします。祈る言葉を見出すことができないほどに、望みを失ってしまうことがあります。祈りの中においても、罪を重ねてしまうほどの弱さに陥ってしまうことがあります。しかし、主よ、あなたは聖霊を私たちに、そして教会に与えてくださいました。それゆえに、祈ることを喜びとし、目を覚まして祈りつつ、終わりの日まで望みをもって歩んでいくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。