2021年05月16日「主は心によって見る」

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主は心によって見る

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
サムエル記上 16章1節~13節

音声ファイル

聖書の言葉

1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」2サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、3 いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」4サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」5「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。6 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。7 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」8 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」9 エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」12エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。サムエル記上 16章1節~13節

メッセージ

 私どもがこの世界で生きていくということは、どういうことでしょうか。それぞれの歩みを振り返る時に、改めて気付かされることがあります。それは選ぶこと、選ばれることの連続の中を生きているということです。意識して「選ぶ」ということをしている場合もありますし、逆にまったく意識せずにしていることもあるでしょう。生活習慣になるほどに、選ぶこと、あるいは、選ばれるということの中に生きているのが私どもです。朝起きて、朝食はご飯にしようか?パンにしようか?といった小さなことから、どの学校に入学しようか、どの仕事に就こうかといった大きなことまで様々です。そして、何を選ぶか、何によって選ばれるかということが、自分の人生を大きく左右することがあります。自分が選んだ道が正しかったと思うことができれば、そこに喜びが生まれます。誰かに目を留めてもらって、選ばれるという経験は本当の嬉しいものです。しかし一方で、私はこれを選んだけれども、どうも間違っていたようだとか、私はこの道に進みたいと思ってこれを選んだけれども、肝心の相手からは断られ、選ばれなかったということも起こり得ることです。選ぶこと、選ばれることにおいて、自分の思いどおりの結果が出なければ、たいへん落ち込んでしまうのです。

 そして、私どもの生活そのものである信仰の歩みを考える時も、「選ぶ」「選ばれる」ということが重要になってきます。選ぶ、選ばれるというのは「神の救い」そのものを表す言葉でもあるからです。神が私どもを選んでくださったから、私どもは救われたのです。決して、私自身が数ある宗教の中から「キリスト教」というものを選んで、「イエス・キリスト」を信じるという選択をしたから救われたのではありません。神様のほうが先に私どものことを心を留めてくださったのです。「愛してくださった」と言ってもいいでしょう。私どもが神を愛するよりも先に、神が私どもを愛してくださいました。信仰の歩みを振り返る時、初めからまさか自分が神に選ばれていると思っている人はいないでしょう。「あなたは神に選ばれている」などと言われても、さっぱり分からないと思うのです。そして、聖書をとおして神様のことを知れば知るほど、自分という人間についてもよく分かるようになります。そのとき余計に、自分が神に選ばれていることが不思議に思えてならないのです。もし、自分が神に選ばれているとしたならば、「それはただ神様の愛と憐れみによる他ない」と、心打ち砕かれるような思いで、告白せざる得ないのだと思います。

 本日は、サムエル記上第16章の御言葉を共に聞きました。時代は、イエス・キリストがベツレヘムでお生まれになる一千年ほど前のことになります。神の民イスラエルが、「部族の連合体」から「王国」へと変わり行くその過程を描いています。イスラエルの初めの王として立てられたのが「サウル」という人物でした。有能な王だと言われていますが、サウルの時代が長く続くことはありませんでした。1節を見ますと神様が、「わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた」とおっしゃっています。サウルが神の御心に背いたがゆえに、王として相応しくないと判断されたのです。具体的なサウルの罪については一つ前の第15章に記されています。サウルは、戦いで得た戦利品に目がくらみ、真実に主を畏れ、主の言葉に聞き従うことができませんでした。また、悔い改めるものの、人の目を気にして神様の御前で真実の悔い改めをすることができなかったのです。だから、神はサウルを退けられることをお決めになりました。

 しかし、このことは預言者サムエルにとっても大きな衝撃を与えることになります。「わたしはサウルを退け、新しい王を見出した」という神様の言葉を聞いて、サムエルはたいへん悲しみ、そして、嘆いたというのです。どうして嘆いたのでしょう。それはサムエルがサウルに油を注ぎ、彼を王として任職した過去があったからでしょう。王として立てたのは神御自身ですが、その間に入り、油を注いだのはサムエルでした。そのサウルが王として退くことになるというのは、自分の働きそのものが否定されるような気持ちになったのです。だから、その悲しみをずっと引きずるようにして、嘆き続けたのです。「どうかサウルの罪を赦して、もう一度王として彼を立ててください。」そう何度も祈ったのではないでしょうか。

 けれども、サムエルの願いが聞かれることはありませんでした。神様はおっしゃいます。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」神様が「嘆くな!」とおっしゃるのには、ちゃんと理由があります。それは、ベツレヘムにいるエッサイの息子たちの中に新しい王を見出したからです。神様がこれから始めようとなさる新しいことがあり、しかもそのことを隠しておられるというのではなくて、ちゃんとサムエルに示しておられるのです。そこに、嘆かずに済む確かな生き方があるからです。神様は、サムエルの気持ちに同情して、彼に寄り添うこともできたかもしれませんが、ここではそのようになさいませんでした。「これからわたしが行う新しいことを見なさい。そのために、わたしの命じるように生きなさい。」神様はそうおっしゃいます。けれども、サムエルはいつまでも嘆き続けています。過去の自分に捕らわれ続け、神様がなさることに目を向けることができないのです。

 神様というお方は、どのような状況の中にあっても新しいことを始めることができるお方です。私たちが「もうダメだ」と言って諦めてしまうことがあったとしても、その中で新しいことを始めてくださり、私たちに望みを与えてくださいます。日々、御言葉に聞くということは、神様が私どもの生活の中で始めようとなさる神様の御業に心を留めて、従っていくためです。でも、一方で、今自分が抱えている悲しみや嘆きが邪魔をして、神様の言葉を聞き損ねてしまうということもあるのではないでしょうか。もちろん、信仰に生きるうえで、過去のことをちゃんと心に刻むことは大切です。神様が私たちのために与えてくださった恵みをいつまでも覚えることは大事なことです。また逆に、何でも過去のことを忘れたら、それでいいということではないでしょう。例えば、自分に都合の悪いことだけはすぐに忘れて、新しいことをしましょうというのも違うと思います。忘れてはいけない自分たちの罪や過ちがあります。それを心に留めることによって、しっかりと前に進んでいくことができるのです。私たちの過去には、ずっと心に留めておきたい素晴らしい出来事もあれば、すぐにでも忘れたい、なかったことにしたいという出来事もあります。しかし、神様はいずれにせよ、新しいことを始めることができるお方です。そして、その新しい御業の中に「あなたも参与するよう」にと、神様は招いておられるのです。

 神様がなさることを遠くから眺めるだけではなく、実際にその働きの中に巻き込まれるようにして歩み始める時、私たちはこれまで経験したことがない恵みを覚えることができます。また同時に、新しいということ、初めてということの中に一歩足を踏み入れることは、恐れや不安が伴うのも事実でありましょう。だから、サムエルは2節にありますように、「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう」と言って、自分の中にある恐れを正直に語ります。「サウルを退ける」と言うものの、この時まだサウルは王でありました。サウルが王を退いてから新しい王を探し始めるというのではなく、まだサウルが王である時から新しい王を探すというのです。もしこの話がサウルの耳に入ったら、本人としては気分がいい話ではありません。サムエルはサウルに反逆している者と見做され、いのちが狙われてもおかしくはありません。またこの後、サムエルはベツレヘムの町を訪ねるのですが、町の長老も「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか」と不安そうに尋ねるのです。自分たちもサムエルと共謀して、サウルを王から引きずりおろそうとしている仲間だと思われる可能性があるからです。その恐れや不安に対して、サムエルは「平和なことです」と答えて、エッサイを安心させます。というのも、恐れを抱くサムエルに対して、神様は一つの知恵を与えてくださいました。それが、2節にありますように、「主にいけにえをささげるために来ました」という言葉です。「あなたの家に来たのは、新しい王を探すためではなく、いけにえ(つまり、礼拝)を献げに来たのです」と言えばいい。そうしたらサムエルもエッサイも安心できるだろうと神様はおっしゃってくださったのです。

 最初は不安だった町の人もエッサイも、「平和のために来ました」という言葉を聞き、安心をします。しばらくして、いけにえの会食の時、礼拝の時が来ました。身を清めたエッサイと息子たちが入って来ます。この息子たちから神様は新しい王をお選びになると、サムエルは最初思っていたのです。サムエルがまず目を留めたのはエリアブという人物でした。なぜ、エリアブこそが神が油を注がれ、次の王となるべき人物だと考えたのでしょうか。サムエル自身が直接語っているわけではありませんが、7節を見ますと、神様が「容姿や背の高さに目を向けるな」とおっしゃっていることから、サムエルはエリアブの容姿、つまり、外見や見た目で「この人こそ王に相応しい」と判断したということです。けれども、神様はサムエルが「この人だ」と思ったエリアブを退けられました。この後、エッサイは8節にあるように息子のアビナダブを、さらに9節にあるようにシャマンをサムエルの前に連れて来ます。全部で7人もの息子を次から次へと連れてくるのですが、サムエルは神様の思いを代弁するように、「この者をも主はお選びにならない」(8〜10節)と告げるのです。

 いったい誰が新しい王として選ばれるのでしょうか。選ばれる基準とは何なのでしょうか。そこでもう一度、7節の主の言葉に注目したいと思います。主はこうおっしゃいました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」ここに神の選びとは何かを考えるうえで大切なことが記されています。鍵になる言葉は後半の「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という言葉です。ただもしかしたら、この言葉を聞いて神様はそれほど重要なことをおっしゃっているのだろうか?と不思議に思われる方もいるかもしれません。どういうことかと申しますと、神様はここでこのようにおっしゃっていると理解するからです。「わたしが”選ぶ”という時、その人の容姿や外見が基準になるのではない。それは人が人を見る時の基準である。しかし、わたしが”選ぶ”という時に、その人の外見や肩書きなどはまったく関係ない。わたしは人の心を見て選ぶのだ。」このように理解するのです。短くまとめると、「人は見た目ではなく心だ」ということです。このことはもちろん大事なことでありましょう。自分の目に良いと映るものだけでその人を見ている限りは、決して、その人のことをちゃんと理解することはできません。そして、「隣人を愛する」ということにおいても、自分の目に良く映るものだけを基準にしてしまいますと、当然、そこには偏った愛というものが生まれてきます。人を見た目で判断するというのは、結局、その人を選ぶ主体が「自分」であることに変わりありません。まるで高いところから見下ろすようにして相手の人を見たところで、その人のことは分からないし、真っ直ぐ愛することもできないと思うのです。だから、自分自身においても、隣人においても大事なのは「その心」です。いい意味でも、悪い意味でもその人の心がどうであるかをちゃんと見ることはとても大事なことです。

 「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」神様はそうおっしゃいました。しかしそこで思うことは、神様だけではなく、私たち人間もまた「人を見た目で判断しない」ということを知っているし、実際そのようなまなざしで人のことを見ようと努めているということです。外見だけではその人のことは分からないということ。人の中身や心を見ることなしには、相手を理解し愛することができないということは、昔から色んな場所で言われてきたことではないでしょうか。私どもは、神様のように人の心を見極める力はありませんが、自分なりの仕方で相手の人の心を知ろうとすることに努め、その人をまるごと受け止めようと努力してきたことに変わりはないと思います。不十分ではありますが、私どももまた心を見ることの大切さを知っているのです。

 そうしましと、ここで神様は人間でも思いつきそうなことをわざわざおっしゃっているということなのでしょうか。そんな疑問が湧いてくるのです。神様らしい言葉と言いましょうか、私ども人間がいくら考えても思い付かない福音の真理はここにはないのでしょうか。もちろんそんなことはありません。少し細いことですが、7節の「主は心によって見る」と訳されている言葉は、以前の口語訳聖書では「主は心を見る」と訳されていました。どちらにも訳せる言葉なのですが、本質を明らかにするためには、新共同訳聖書のほうが良いのではないかと思います。「主は心によって見る」。あるいは、「主は心において見る」ということです。そして、その前の「人は目に映ることを見る」という言葉も実際は少し意訳なのです。そのまま訳しますと、「人は目によって(あるいは、人は目において)見る」となります。ですから、「人は目によって見るが、主は心によって見る」と主はおっしゃっているのです。「心」というのは見る「対象」というよりも、むしろ「主体」になります。神様が御自身の心によって、人を見るということです。ですから、単純に「神様は人を見た目では判断しない」ということを言いたいわけではないのです。神の選びというのは、神御自身の心によって私どもをご覧になられるということです。

 この時、エッサイの息子7人がサムエルの前を、そして、神様の前を通りました。しかし、「この者をも主はお選びにならない」と言って、彼らを退けたのです。そこで、サムエルはエッサイに尋ねます。11節です。「あなたの息子はこれだけですか。」エッサイは答えました。「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています。」この時、羊の番をしていた人物こそが「ダビデ」と呼ばれる人物でした。なぜこの時、神様に犠牲を献げ、会食をするその食事の席に招かれていなかったのでしょうか。おそらく、食事の席に連なるにはまだダビデが幼すぎると思ったからでしょう。それで、外に出て羊の番をしていたのです。そのダビデがサムエルの前に連れて来られます。12節です。「エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。』」このダビデこそが、新しい王として立てられるべき人間である。ダビデに油を注ぐように!主が御自身の心によって見ておられたのはダビデでした。ダビデについて、「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」とありましたが、ダビデの美しさや立派な姿が選ばれた理由ではありません。大事なのは、主は心によってダビデを見ておられるということです。

 では、その神様の心とはいかなるものなのでしょうか。本日の物語に耳を傾ける時、思い起こすいくつかの御言葉があります。一つはイザヤ書11章1〜2節の御言葉です。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」「エッサイの株からひとつの芽がもえいで」とあります。切り倒された木の株があります。もうその木にいのちが芽生える気配はありません。あとは腐って滅びる他ないのです。それが、神の民イスラエルの現実でした。でもそこに一つの芽が萌え出、やがてその芽が成長し枝となり、大きな木となっていくというのです。神はそのようにして、罪と深い絶望の中にあるイスラエルに、もう一度新しいいのちを与え、救い出すという御心を持っておられました。

 この愛と慈しみに満ちた神の御心はダビデ自身にだけではなく、彼の子孫に、イスラエル全体に広がっていきます。ダビデがイスラエルの王として立てられてから約千年後、この時、エッサイたちが住んでいたベツレヘムという小さな村で、救い主イエス・キリストがお生まれになりました。罪と滅びの中から私ども人間を救い出すために選ばれたのは、ダビデの子孫であるイエス・キリストです。「主は心によって見る」とおっしゃった神様の心にあったのは、イスラエルだけではなく、すべての民を罪から救い出し、わたしの民とすることでした。そのためにキリストが救い主としてこの世界に遣わされたのです。

 私どももまたキリストにあって神に選んでいただきました。それは、キリストのゆえに救いの恵みに入れていただいたということです。私どもは油が注がれたわけではありません。けれども、洗礼の際に水が注がれ、その時に聖霊を与えられ、まったく神のものとしていただいたのです。自分の外見や肩書き、また心が、他の人よりも綺麗だからとか優れているからとか、そのような理由で神に選ばれ、救っていただいたのではないのです。ただ神様御自身の愛と慈しみの心によって、ずっと見ていてくださったからこそ、私は救われたのです。救いの根拠は私たち自身にあるのではなく、ただ神にのみあるのです。

 さて、この時、新しい王として選ばれたダビデですが、すぐに王となったのではありませんでした。実際に王となるのは十数年後の話です。新しい王として選ばれ、油を注がれたダビデが最初にしたことはサウルのもとで仕えるという働きでした。14節以下に記されていることですが、そこを読みますと、霊がサウルから離れ、今度は主のもとから来る悪霊に苦しめられるようになったというのです。ダビデはそのサウルのもとに行って、仕える働きを始めます。悪霊に苦しめられる度に、ダビデはサウルの傍らに立ち、竪琴を奏で、慰めを与えました。次第にサウルからも気に入られるようになります。ここに神に選ばれた者の生き方が示されているのではないでしょうか。私は神に選ばれたからと言って、自分を誇るのではありません。ダビデもサウルに対して、「あなたは神に背いたのだから苦しんで当然だ」とか、「あなたはもう王ではない。神に選ばれた私に従うように」と偉そうに言ったわけではないのです。神に選ばれた者は、むしろ、へりくだり、仕える生き方をするようになるということです。苦しむ者、弱い者、貧しい者たちのことを心に掛け、その人の傍らに立ち、慰めを与える生き方をするように変えられていくのです。この生き方こそ、十字架の死に至るまで従順に歩み抜かれた主イエス・キリストの歩みそのものです。

 私どもはこのキリストの救いの御業を、何よりも主の日の礼拝の中で思い起こします。考えてみますと、この時、ダビデが選ばれ油注がれた場所も、主に犠牲を献げるその食事の席においてでした。つまり、礼拝をささげる中で、神がダビデを選んでくださったということです。神に選ばれた者として、神が与えてくださった使命に生きるために、礼拝を抜きにして考えることはできません。神と隣人を愛し、仕える生き方を支える力は、神に礼拝をささげることの中で与えられていきます。礼拝の度に、私どもは主によって選ばれた幸いを改めて覚えるのです。そして、愛の業に参与することをとおして、御心の先にある神の国の完成のために、共に仕えていくのです。お祈りをいたします。

 神様、あなたの慈しみに満ちた心によって、私ども選びの民としてくださいました。御子イエス・キリストを賜るほどの愛によって生かされていることを覚え、感謝いたします。どうかこれかも、主の御心を、私どもの心として生きていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。