2021年05月02日「新しい天と地」

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新しい天と地

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 21章1節~4節

音声ファイル

聖書の言葉

1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。3そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」ヨハネの黙示録 21章1節~4節

メッセージ

 人は危機に陥る時、どうしても希望を求めたくなります。「もうダメだ」「もう終わりだ」と諦めそうになってしまうところで、なお自分を生かす希望があり、いのちがあることを信じたいのではないでしょうか。もし信じることができなくなったらならば、本当にそこで終わってしまうからです。私どもはなぜ聖書に記されている神の言葉に耳を傾けるのでしょう。日曜日の礼拝の時だけではなく、毎日御言葉に聞くのはなぜでしょうか。色んな言葉を用いて答えることができるかもしれません。でも、結局のところ、私どもは希望を見出したいと願うからではないでしょうか。ここで終わりではない。まだ先がある。自分たちには将来がある。それも希望に満ちた将来である。そのことを信じたいからだと思います。別の言い方をすると、真実の「救い」を求めて聖書の言葉に聞いているに違いないと思います。

 「聖書」ほど世界中の人たちに読まれている書物はないでありましょう。キリスト者に限らず、多くの人々が聖書を読んでいます。聖書を読むすべての人たちが、神様の救いを求める思いで読んではいないかもしれませんが、それでも人々の心を引きつけてきたのは事実です。聖書は旧新約聖書合わせて66巻あります。聖書の初めに記されている「創世記」もたいへん興味深いものですが、最後に収められている「ヨハネの黙示録」もまた人々の関心を集めてきました。「創世記」は、世界の初めについて物語ります。そして、「ヨハネの黙示録」は世界の終わりについて語ります。「初めと終わり」これは誰もが興味を抱く事柄でありましょう。自分はなぜこの世界に生まれたのか。私にいのちを与えたのは誰なのか。そして私はどのようにして生き、どのような最後を迎えるのか。自分は死んだらどうなるのか。この世界は永遠に続くのだろうか。様々な思いが湧き上がってきます。

 そのような関心から人々は「ヨハネの黙示録」を読んできたところがあります。そして、黙示録を読み進めていきますと、まさにこの世の終わりであるかのような幻や恐ろしい光景の数々、そして、謎の言葉が満ちています。いったいこれらは何を意味するのだろうか?どうしても問わずにはおれませんでした。そして、この世界の終わりに果たして希望があるのでしょうか。「終わり」ということは、破局をもたらす恐ろしいことなのでしょうか。それとも、私たちにまことの救いをもたらす喜びの出来事なのでしょうか。聖書は、そして、ヨハネの黙示録は何を私たちに伝えようとしているのでしょう。

 ヨハネの黙示録は全体で22章あります。本日は第21章をお読みしました。まさに聖書の最後の最後に当たる部分です。初めて聞く人に取りましては、正直難しいという印象があるかもしれません。黙示録自体が、「黙示」という言葉にもありますように、あえて大切な真理を隠す仕方で、分かる人には分かるという仕方で書かれているものですから、初めての人だけではなく、長く信仰生活を続けている人にとっても難しいという一面は確かにあると思います。しかし、難しいと思いながら読み進めていくときに、どうしても目が留まる言葉、慰めに満ちた言葉があることに気付かされるのです。本日の箇所で申しますと、例えば、第21章3節、4節の御言葉です。もう一度お読みします。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」ここでは、敢えて余計な説明は加えませんが、黙示録は難しいという人もこの御言葉は知っている。「実は私の愛唱聖句なのです」という人も多いことと思います。

 あるドイツの牧師は、この御言葉を説き明かす中で、「この3節と4節の御言葉は、聖書全体が告げようとしているメッセージが凝縮している箇所だ」と言いました。他にも「聖書の中の聖書」と呼ばれる有名な御言葉はたくさんあることでしょう。けれども、最後の最後で結局聖書は何を私どもに伝えたいのか。それが実はこの御言葉の中に凝縮されている。この御言葉に尽きると言ってもいい。この御言葉さえ心に刻み信じれば、私は救われる。そのように言い切れる神の言葉がここにあると言うのです。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 また、私どもが終わりの日を考える上でも、この御言葉は決定的な意味を持ちます。聖書が語る終末、終わりの日には「希望がある」ということです。そして、このことは私どもが地上を歩む中で、何が究極的な希望であるのか、何に究極的な希望を置けばいいのかということとも深く関わってくるのです。黙示録が語りますように、私どもの人生には多くの涙があります。この手紙を教会に届けた伝道者ヨハネも、手紙を受け取った当時の教会の人々も涙を流しながら生きてきました。嬉し涙ではありません。悲しみの涙です。黙示録が記されましたのは紀元後90年代と言われます。キリスト教会は、ローマ帝国による激しい迫害の只中にありました。伝道者ヨハネも迫害に遭い、いのちまで奪われはしませんでしたが、パトモスという島に流されることになります。しかし、他の教会の仲間たちは毎日のように、世の支配者の手によって捕らえられ、いのちを奪われていくのです。死と隣り合わせの日々を生きていたのです。そこでどれだけ多くの涙を流したことでしょう。悲しみの涙、怒りの涙、悔し涙…、様々な感情が複雑に混じり合った涙を毎日のように流していたに違いありません。礼拝をささげ、御言葉に聞きながらも死の恐怖というものがどこかで散らついていたことでしょう。心から安らぐことができず、緊張に満ちた毎日を送っていたのではないでしょうか。そのような時に、新しい御言葉が聞こえてきます。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」一番最初にこの御言葉を聞いたヨハネも、ヨハネからの手紙を受け取った教会の人たちも、涙する現実の中で深い慰めを覚えたに違いありません。私たちの希望、私たちの救いは神にのみある。私たちは神にこそ究極の希望を置こう!まだ終わりではない。たとえ終わったとしても、たとえ殉教することがあっても、私たちは神の栄光のために生きることができる。神が与えてくださった救いの恵みは何があっても消えることはない。そのようにして、改めて信仰の姿勢を整えたことでありましょう。

 そして、涙を流す悲しみを本当に深いところで知っているのは、何よりも神様御自身です。すべてを知っていてくださる神様が私どもの涙をぬぐってくださいます。ですから、今日においても、この黙示録の御言葉が人々から愛されているのでしょう。私どもの希望は、もう悲しみの涙を流さなくてもいいということです。なぜなら神がぬぐってくださるからです。そして、神様が涙をぬぐってくださるというのは、もう少し具体的に言うとどういうことなのでしょうか。それは、私どもが涙を流す原因となってきたものを、神様が取り除いてくださるということです。ですから、「涙をことごとくぬぐい取ってくださる」と言った後に、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と言うのです。第一に挙げられているのは「死」ということです。殉教するということもそうですが、病気や事故で死ぬこともあるでしょう。若くして死ぬこともあります。死の問題は、自分にとっても周りの家族や仲間にとってたいへん大きくて厄介な問題です。死ほど私どもに悲しみの涙をもたらすものはありません。

 そして、聖書が語る死というのは、何よりも「罪の報い」としての死であるということです。一所懸命地上で生きてきた。終わりに日になって、神様から一枚の封筒が渡される。今まで地上で生きてきたことのご褒美が入っていると思って、封を開けたら、そこには「死」というたいへん恐ろしいものが入っていたということです。しかし、「もはや死はなく」と言う時に、私どもはもう罪の裁きとしての死を死ななくていいということです。主イエスが私どものために十字架で罪を背負い死んでくださり、復活してくださったからです。だから、私どもは滅びとして死が最後に与えられるのではなく、「キリストのいのち」「永遠のいのち」というものが詰まった封筒をいただけるということです。いや、本当のことを言うと、もうその素晴らしいいのちをここで生きているのです。「もはや死はない」という現実をここでもう生きているのです。ですから、この御言葉は葬儀の時にもよく読まれる御言葉となりました。

 また、比較的最近のこととして、10年前の東日本大震災を経験した際、黙示録のこの御言葉がよく読まれたということを聞いております。第21章1節に戻って見てみますと、このようにありました。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」1節の終わりに「もはや海はなくなった」とあります。10年前の震災は何よりも津波が大きな被害をもたらしました。海が災いをもたらしたのです。愛する者のいのちを呑み込み、家や町を一瞬にして押し流しました。どれだけ月日が経っても、失った悲しみを取り戻すことはできません。しかし終わりの日、この世界が新しい天と地になる時、もはや海はないというのです。いのちを奪い、悲しみをもたらした苦しみの根源である海はもうないのです。聖書においても、「海」というのは世界の混沌の状況を表す言葉としてよく用いられます。海は破壊をもたらし、秩序を乱すのです。黙示録においても、海は死者のいる所であるとか(黙20:13)、海から竜や獣が登場する場面といったものが描かれています(同12:18,13:1)。これらは悪の象徴であり、キリスト者たちを苦しめているローマ帝国を指す言葉です。しかしもはや海はないのです。自分たちをどん底に突き落とし、悲しみをもたらす原因、恐れとなるものはもうないのです。だから、涙を流すことはありません。神が死や悪をはじめ、私どもを苦しめるものに勝利してくださるからです。

 4節の最後には、「最初のものは過ぎ去ったからである」とありました。「最初のもの」というのは、私たちが生きているこの世界のことです。死や悲しみ、嘆きや労苦がある世界のことです。涙せざるを得ないこの現実のことです。でも、終わりの日にはこれらのものすべてが過ぎ去るのだということです。ですから、私どもが生きている世界というのはやがて「過ぎ去って行く世界」であるということです。私どもはこの世界に生きる限り、世の様々なものに捕らわれ、支配され、翻弄されます。しかし、神を信じ、神に望みを置く者は、この世界で起こることや私どもを苦しめるものを絶対化することはいたしません。なぜなら、すべては過ぎ去って行く世界の中で起こっていることだからです。昨年から続いているコロナ禍のことことも、最初の予想に反して中々収まる様子はありません。それぞれの教会がいまだ色々と苦労していることと思います。ただ、このことに関して私どもが信じていることは、新型コロナウイルスという感染病もまた、相対的なことに過ぎないということです。終わりの日の希望に望みを置いて生きる時、この世界で起こることに捕らわれ続ける心配はないのです。それは、この世の問題をいい加減にしていいということではもちろんありません。過ぎ去って行くというのも「万物流転」のように絶え間なく変化するとか、「諸行無常」のように儚いという話ではないのです。私どもが信じる神は、この世界をお造りになったただお一人の神であり、同時にこの世界を終わらせることができる神でもあるということを信じるということです。この神様の御支配の中に生きる時、私どもはこの世のものから解き放たれて生きることができます。涙せざるを得ない現実の中にあっても、神様に望みを置きながら、この世の現実と向き合って賢く生きることができるのです。

 3節には、「わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた」という言葉がありました。大きな声で語りかけておられる方、それは神様です。神様には、神様にしか語ることができない言葉があります。過ぎ去って行く世界に生きる人間には、決して語ることができない言葉です。私どもがこの地上において、求めている希望や救いというのは、自分たちの中からは生まれて来ないものです。自分の内ではなく、自分の外から与えられるものです。だからこそ、私どもは神様の言葉に望みを置くことができるのではないでしょうか。だからこそ、福音、喜びの知らせなのです。神様は、救いと希望に満ちた言葉を「大きな声」をもって語りかけてくださいます。伝道者ヨハネは、主の日に幻を示され、その幻の中で神の言葉を聞きました。幻や夢、それは時に私どもにとって生きる大きな力となります。目指すべき一つのゴールのようなものかもしれません。しかし、私どもが聖書をとおして見る信仰の幻は、自分で思い描くものではないということです。自分で思い描いて、ゴールまでの計画を立てて、そこに向かっていくのではありません。聖書が語る幻は、神御自身が私どもに見せてくださるものです。しかも礼拝をささげる中ではっきりと見せてくださるのです。だからこそ、私どもは終わりの日に向かって、確かな望みをもって進んでいくことができます。自分でも他の人でもなく、神が終わりの日の希望を大きな声ではっきりと告げてくださるからこそ、神様にすべてをお委ねして、今をしっかりと生きていこうという思いに導かれていくのです。

 伝道者ヨハネが見た幻は実に壮大なものでした。1節では、「新しい天と地」を見たというのです。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」私どもが今生きている世界というのは「最初の天と最初の地」のことです。その最初の天と最初の地が過ぎ去っていく、終わっていくというのです。そして、新しい天と地が与えられることでもあります。この新しい天と地が与えられるというのは、先にも申しましたように、もはや私どもを苦しめる海がない世界です。もはや死もなく、悲しみも嘆きも労苦もないそのような新しい天と地に生きるのです。

 そして、ヨハネはもう一つ幻を見ています。2節です。「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。」エルサレムは、「聖なる都」「神の都」と呼ばれていました。エルサレムには神殿があり、礼拝がささげるために神の民が多く集まってきました。ここに来れば神に会うことができると信じていたからです。その聖なる都エルサレムが、終わりの日に「新しいエルサレム」として天から下ってくると言います。「新しいエルサレム」というのは、「教会」のことです。地上にある教会ではなくて、終わりの日に完成する天の教会です。だから、「夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて」とあるのです。エフェソの信徒への手紙を見ますと、キリストのことが花婿に譬えられ、教会のことが花嫁に譬えられます。キリストと教会の関係というのは、花婿と花嫁のように確かな絆で結ばれているということです。そして、終わりの日には、今よりももっと鮮やかで、そして、確かな仕方でキリストと教会が愛によって結ばれていることを知ることができるのです。ですから、「神が涙をぬぐってくださり、もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と言う時に、それは自分一人の涙をぬぐってくださるというのではないということです。「新しいエルサレム」に連なっているのは、自分一人ではありません。教会が連なっているということです。神様の救いは私に与えられていると同時に、教会に与えられているものでもあります。だから、洗礼を受けると教会の仲間になります。キリストの教会は、共に喜び、共に涙を流しながら、終わりの日に与えられる救いの完成を待ち望むのです。

 新しい天と地が与えられ、新しいエルサレムが私どもに与えられます。そこで具体的に実現することがあります。3節にこのようにあります。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる…』」ここで言われていることは、神様と私たち人間の関係が新しくなるということです。「神が人と共に住み」「神は自ら人と共にいて」とあるように、「神が私たちと共にいる」ということがはっきりと分かるようになるということです。「神が私たちと共にいる」というのは、別の言葉で「インマヌエル」と呼ばれることがあります。イエス・キリストをとおして、神は我々と共におられるという幸いの中に招いていただいたのです。闇で覆われているかのような世界の中にあっても、罪と死の只中にあっても、キリストはそこをご自分の居場所、住まいとしてくださり、「神はあなたがたと共におられる」という福音を告げてくださいました。

 ある神学者がこのようなことを言っています。「信仰に生きる者は日々、喜びが増すように生きる。」驚くべき言葉だと思います。つい自分自身のことを考えてしまうのです。私たちは果たして日々、喜びが増すように生きているでしょうか。むしろ、日を重ねるごとに悲しみが深くなっていく、不安が増してくるという経験をいたします。信仰や心においてもそうですが、肉体においても日を重ねるにつれ衰えを知り、落ち込んでしまうことがよくあります。最初に与えられていた大きな喜びが、毎日少しずつ減っていっているのではないかと不安になってしまうくらいです。でも、「日々、喜びが増すように生きる」というのは、決して、信仰者の理想を語っている言葉ではありません。喜びが増すように生きることこそが、キリスト者の生き方なのです。

 どうしてそう言えるのでしょうか。それは神が備えたもう終わり日の希望に向かって歩みを重ねているからです。その日々の歩みの中で、涙することも当然であるでしょう。心が闇で覆われたかのような思いになることもあるでしょう。しかし、たとえそうであっても、終わりは近づいているのです。そして、主イエスが与えてくださる救いの足音、死に勝利したいのちの足音を響かせて、私どものところに近づいて来られるのです。「主が近い!」ということを感じながら生きる時、日々喜びも増し加わるのです。悲しみが癒えるまでには時間がかかるかもしれません。この地上においてすべてが解決できない問題もたくさんあるでしょう。けれども、主が来られるということを覚えつつ、今の悲しみの涙も必ずぬぐわれる時が来ることを信じて、教会の仲間と共に歩んでいきます。今から共に祝う聖餐は、救いの御業が完成した時に開かれる祝宴に連なるものです。聖餐を祝う度に、私どもは心の目を天におられる神へと向けます。心を高く上げ、終わりの日を見つめつつ、神が与えてくださる希望をもう一度確かにするのです。お祈りをいたします。

 主よ、あなたは礼拝をとおして、また御言葉をとおして幻を見せてくださいます。私どもも主の言葉を、信仰によって受け止め、心に刻むことができますように。私どものいのちや存在を脅かすものがこの世界にはたくさんありますが、それらのものは過ぎ去ります。それゆえに、救いの完成を待ち望みつつ、確かな歩みを重ねていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。