2021年04月25日「わたしたちは和解の使者」
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わたしたちは和解の使者
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コリントの信徒への手紙二 5章16節~21節
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聖書の言葉
16それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。19 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。21罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。コリントの信徒への手紙二 5章16節~21節
メッセージ
人は「新しくなりたい!」という願望や憧れのようなものを持っているのだと思います。どうして人は「新しくなりたい」と思うのでしょうか。これまでの自分の生き方や今の自分の姿に満足できていないからかもしれません。あるいは、取り返しのつかない失敗や過ちを犯して、いまだに立ち直ることができずにいるからかもしれません。また、歳を重ね、身も心も衰えを感じる時、かつての若さを求めるようにして、新しくなりたいと願う人もいることでありしょう。たとえ今の自分に満足していても、もっと素晴らしい自分を手に入れたいという向上心が、新しくなりたいという憧れを生み出すこともあるでしょう。
聖書もまた、「新しくなる」ということを大切にします。大切にしているというよりも、新しくなるということを目指して記されているのが聖書であると言ったほうがよいかもしれません。聖書が語る救い、神が私どもに与えてくださる救いというのは、私どもが新しくなるということでもあるだからです。コリントの教会に宛てた手紙の中で、使徒パウロはこのように語ります。17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」私どもがキリストによって救われるというのはどういうことか。それはキリストと結ばれること。そして、キリストに救われ、キリストと結ばれたということは、あなたが「新しく創造された」ということなのだと言うのです。あなたはもう古い人間ではない。主イエスによって新しく造られた存在である。だから、17節の御言葉は、洗礼式の時にもよく読まれる御言葉の一つになっています。洗礼を受け、キリスト者になったということは、あなたが新しい人間になったということ。もう罪に支配されていた古いあなたは死んだ。あなたは新しく創造された人間として、キリストに結ばれ、キリストのいのちを生きるのだ。
そして、神の救いによって新しくされるということほど、確かなことはありません。今は新しいけれども時間と共に廃れてしまうとか、大きな試練に襲われたら崩れ落ちてしまうとか、あるいは、時代と共に違う新しさに取って代わるということはないのです。いつもどんな時も、私どもは新しい存在として生きることができます。「新しい」ということに、喜びと希望を持つことができます。そして、新しくなることに年齢や人生経験は関係ありません。だから、「今さら新しくなっても」とか、「今さら信仰を持っても」などと思う必要はないのです。今からでも、主イエスとお会いすることができます。今からでも神の救いの恵みにあずかり、新しい人間とされた喜びに生きることができます。
また、既に洗礼を受けておられる方にとりましては、信仰生活を続けていく中で、「本当に自分は新しくなったのだろうか?」「どうも洗礼を受ける前の生活を続けているような感じがする。」「正直、自分の生活に喜びが湧き上がってこない。」そのように思う人もいることでありましょう。そう感じるのは、自分の中にある罪や様々な問題に原因があるのかもしれません。救いの喜びというのは、頭で理解したらそれでいいというものではないでしょう。救いの喜びを実感し、その手応えをつかむことは大切なことです。ただ一方で、自分を感情や思いだけを基準にして、信仰に生きようとしてしまうならば、救いの本質を見失ってしまうことになります。「あなたがキリストによって新しく創造されたという救いの事実は、あなたがどう感じているかということで左右されるようなことではない。あなたが喜んでいようが悲しんでいようが、あなたは新しく創造された人間。神とあなたの関係はキリスによって、紛れもなく新しくなった。この救いの事実は何があっても変わることはない。」パウロはここで伝えたかったことはそういうことです。「あなたがどう思おうが知ったことではない」というふうに聞こえるかもしれませんが、でも実際はこういうところに救いの確かさというものがあるのではないでしょうか。「あなたに何があっても、あなたが何と思おうが、あなたは救われているのだ。あなたはもうキリストと結ばれ、新しく創造されている。」そのように告げてくれている御言葉に耳を傾ける時、不思議に慰められるものだと思います。
ところで、17節の「創造」ということですが、この言葉を聞く時に、おそらく多くのキリスト者は旧約聖書・創世記に記されている「天地創造」の物語を思い起こすことでありましょう。神が天と地をお造りになり、創造の冠として私たち人間を造ってくださいました。神のかたちを持つものとして、つまり、神を礼拝し、神と共に生きるものとして、神は人間をお造りになり、いのちを吹き込まれたのです。何も無いところから、ただ神の言葉によって、この世界と人間をお造りになったのです。また、神ははじめに「光あれ!」とおっしゃり、闇の中に光を造ってくださいました。その後も、御言葉がすべて実現するかたちでこの世界が造られていきました。最後に、神は「極めて良かった」と言って、お造りになった世界に対して心からの満足と喜びを表されたのです。
しかし、私どもお造りになった神が、ここでもう一度、キリストによって私たち人間を新しく創造するというのです。どうしてでしょうか。それが人間の「罪」の問題です。人は神が造ってくださった喜びの世界に生きることを拒み、自分たちをお造りになった神さえも拒んだからです。だから、もう一度新しく人間を創造しなければいけませんでした。「新しく創造する」こと、少し言葉を変えると「再び創造する」ということです。このことは、私どもの罪を贖い、救い出すことと一つのことです。初めに天地をお造りになられた神は、罪に堕ちた私どもを救う神でもあられます。そして、罪人である私どもを救うために、神のもとから遣わされたのが、御子イエス・キリストでした。
「創造する」ということ。これは人間自身もまた、生きていく中で行う働きの一つです。神の創造の御業とは比べものにはなりませんが、それでも何かを生み出し、何か造り出すということは本当に大変なことであることを私たちも知っています。創造することのたいへんさだけでなく、創造する喜びというものをも知っている私たち人間です。しかし同時に、創造したものを壊したり壊されたりすることは一瞬である、いとも簡単にできる。そういう恐ろしさや空しさというものをも、私たち人間は歴史の中で経験してきたのではないでしょうか。そして、一度壊れたものやなくなってしまったものを、また一から造り出そうとする時、相当のエネルギーを必要とします。そして、かつてあった素晴らしいものが今はなくなってしまったという悲しみや痛みが十分に癒えないまま、再び創造する働きに向かっていかなければいけないのです。
神様が初めに天地をお造りになったというのは、人間には到底真似できないような大きな業であることは明らかです。しかし、「神様は全能の神であり、世界をお造りになることなど簡単な話だ」というふうに思ってしまいますと、キリストによる新しい創造の御業をちゃんと受け止めることができなくなってしまいます。罪人である私どもを、再び人間らしい人間として造るのだ!そのように、神様が決心し、救いの御計画をお立てになられた時、どれほどの悲しみや痛みが神様の中にあったことかを思います。神と共にあるいのち、喜びに満ちたいのちが与えられていたにもかかわらず、人は簡単に神の言葉に聞き従うことなく、神のもとから離れていきました。「わたしは全知全能の神であり、人間が罪を犯そうが、そんなつまらないことで揺らぐような神ではない」などとはおっしゃいませんでした。どうしても、罪と滅びの中からあなたを救いたいと願われました。その願いはついに、独り子イエス・キリストを遣わさなければいけないほどのものでした。そして、キリストを十字架につけなければいけないほどに、主イエス御自身も神御自身も激しい痛みを負わなければいけなかったのです。そこまでして、私どもを新しい人間に創造してくださったのです。
さて、使徒パウロは私どもが罪から救われるということについて、本日の箇所において「キリストに結ばれる」とか「新しく創造された者」というふうにいくつかの言葉を用いて、神の救いの豊かさを語ります。そして、本日の御言葉の中でパウロはもう一つのことを語るのです。18節、19節です。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」ここで言われていることは、「和解」ということです。ローマの信徒への手紙の第5章11節においてもパウロは、「和解」という言葉を用いて救いとは何かを語ります。「わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」また、ローマ書第5章1節ではこう言っています。「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており…。」「キリストによって平和を得る」とありますが、「平和」ということも「和解」と同じ意味です。キリストによって、神と和解することができれば、神との関係は平和になります。神様と和解をし、平和な関係になるということは、先程子どもたちもお話しましたけれども、神様と仲直りしているということです。
では、仲直りする前の神様との関係はどうだったのでしょうか。神との間に平和がなかったということですが、それはつまり、神様と私たちの関係は「敵」であった、敵対関係にあったということです(ローマ5:10)。「敵」というのは憎き存在であり、滅ぼされて然るべき存在です。敵と仲良くしていたら、それは敵とは言えません。もし仲直りしたいと思えば、罪を犯した私どもが神様の前に進み出て赦しを乞うのが普通でしょう。でも、神の前に進み出ることすらできなくなりました。そのこと自体が罪の恐ろしさということかもしれません。罪の本当の深刻さに向き合うこともできず、たとえ向き合うことができても、どう解決したらいいのかが分からないのです。
けれども、神様は驚くべきことに、敵である私たち罪人が滅ぶことを望まれませんでした。19節にありますように、「人々の罪の責任を問うこと」をなさらなかった。そして、神ご自身の方から私どもに対して、和解することを願われたというのです。「和解でもしましょうか?この辺りで手を打ちませんか?」という提案をなさったというのではなく、「どうしてもあなたと和解したいのだ!」という強い願いがここにはあります。
そして、人間と和解するために、神は私どもの罪を問うのでもなく、私どもに対して「和解するためにはこういうことが必要だ」と言ってたくさんの条件を提示してきたのでもないのです。「もうわたしのほうであなたがたの罪の問題は解決しておく。」そう言って、和解の手続きを始められたのです。18節に「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」とあります。19節には「神はキリストによって世を御自分と和解させ」とあります。神と罪人である私たちとの和解の鍵となるのは、神の御子であるイエス・キリストです。神は御子キリストをどうなさったのでしょうか。それが最後の21節です。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」「神の義を得る」という表現も「救い」について語るうえで大切な言葉とされてきました。「神の義を得る」というのは、神によって正しい者とされるということ、神と私との関係が正常であり、平和であるということです。
ところで、「神と和解する」と言う時の「和解」という言葉ですが、これは元々「交換する」「取り換える」という意味があります。誰かと仲直りするというのは、お互い持っている何か何かを交換することだと言うのです。例えば、一方から謝罪の言葉があり、もう一方から赦しの言葉が告げられると和解することができるでしょう。裁判でも、「和解」という言葉もよく聞きますが、「このくらいのお金で赦していただけませんか」とお願いをして、「わかりました。これでいいでしょう。もうあなたを訴えることはしません」と言って、和解が成立します。和解するために片方がハードルを上げすぎたり、逆に下げすぎたりすると和解は成り立ちませんから、お互い納得するところ、丁度いいところを見つけます。兄弟や友達同士で物を交換する時も、だいたい同じ価値のものを互いに交換するものです。一方が高価なもので、片方が安いものだったら交換など成り立ちません。下手をしたら喧嘩になります。しかし、人は誰かと和解しようと願う時、あるいは、何かを誰かと交換しようとする時、どうしても自分の欲みたいなものが出てしまうのも確かです。打算的になるということです。常にそのようなことばかり考えているのかもしれません。損か得かを考えることすべてがわるいわけではありませんが、例えば、この人と付き合うことは損なのか得なのかということまで考えるようになるのです。損だと分かったら、簡単に切り捨てます。損であることに何の意味もないと考えるからです。そして、神を信じるということにおいてさえ、人は損か得かで考えようとしてしまいます。この神は私が信じるに値する神なのか?そう問いながら、既にそこで自分が神のように振る舞っている罪を重ねていることにすら気が付いていないのです。
では、神様は私どもと何を交換なさったのでしょうか。神が私どもに与えてくださったのは、イエス・キリストでした。パウロがここで強調しているのは、21節にあるように、主イエスは「罪と何のかかわりもない方」であるということです。一方で、私どもは神様に何を差し出したのでしょうか。罪なきキリストに並ぶ何かを差し出すことなどできません。それならば、少しでもキリストに近づけるような聖いものを差し出したのでしょうか。いやそれもできません。何も私たちは神様に差し出すことはできないのです。私どもには自分の「罪」しか神に差し出すことができないのです。「キリスト」と「罪」の交換、これほど不公平な交換はありません。この世ではあり得ないような交換が行われているのです。「キリスト」と「罪」の交換、それは「神の義を得ることができた」とありましたように、「義の交換」と呼ばれることがあります。キリストが持っておられた「神の義」を私どもに与えてくださったのです。そのために、主イエスは私どもの罪を背負い、罪人として十字架で死んでくださいました。ここに救いが与えられ、神との和解が与えられたのです。
パウロが使徒として、伝道者として語り伝えている福音がここにあります。さらに神は、私たちを救ってくださっただけではなく、「和解の福音」を宣べ伝える者として召していてくださるというのです。パウロは繰り返し語ります。「また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(18節)「和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(19節)「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」このことは伝道者だけではなく、教会に、私ども一人一人に与えられている大切な使命です。私どもはキリストの使者であり、キリストの全権大使です。だから、キリストに代わってお願いすることができます。その尊い務めが皆に与えられているのです。それは、「神と和解しないと滅びるぞ」と言って、脅すのではありません。20節に「神がわたしたちを通して勧めておられるので」とありましたが、「勧める」というのは「励ます」とか「慰める」という意味があります。元々は、「側に呼び寄せる」という意味の言葉です。相手を恐がらせるのではなく、「こちらにどうぞ」と言って、神をまだ知らない人たちを招くのです。「神はあなたの味方。だから、キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。もう既にキリストは、あなたのためにも十字架についてくださった。もう神との和解の道、平和の道は拓かれています。どうかこのことに気付いてほしい!」
「和解する」ということは、分かりやすい言葉に換えれば「仲直りをする」ということでした。しかし、言葉は簡単かもしれませんが、仲直りすることは決して簡単なことではありません。仲直りできない闇が、今もなおこの世界を覆っています。人間同士が、国同士が、民族同士が憎しみ合い、隣人ではなく、敵だと思っています。この闇の世界にイエス・キリストが来てくださいました。神と和解することができように、キリストが私どもの罪をすべて背負って、十字架で死んでくださったのです。だから、新しいまなざしで、信仰のまなざしですべてを見ることができます。知ることができます。
パウロも16節で、「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。」「キリストのことももう肉に従って知ろうとはしない。」と言っています。「肉に従って」というのは、人間的な基準や見方をしないということです。私どもが生きる世界は、いまだに罪の現実があります。多くの困難があり、病があり、死があります。どこに神の祝福がこの世界のどこにあるのだろうか?と思ってしまうこともあるでしょう。しかし、キリストに救っていただいた私たちは、肉の眼鏡によってではなく、「信仰」という眼鏡をとおしてキリストのことを正しく見ることへと導かれます。この世界もそこに生きている人間も、様々な問題を抱えていますが、それでもなお神の祝福のまなざしで、それら一つ一つを見ることへと招かれているのです。決して裁きや絶望のまなざしではありません。「キリストの十字架によってもたらされた神との和解は、あなたのためにも、この世界のためにも与えられている。神がキリストをとおして与えてくださる救いの喜びは誰にも妨げられることはない。だから、キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」私どもは神が与えてくださる和解の言葉を、これ以上にない確かな救いの言葉として人々に告げることができます。この喜ばしい務めを、教会の仲間と共に担っていくのです。お祈りをいたします。
私どもはかつてあなたの前に立つことも、何かを差し出すこともできない者でした。しかし、キリストの十字架のゆえに、神と和解することができました。感謝いたします。キリストにあって、新しくされた私どもがキリストの栄光のために喜んで仕えることができますように。この世の力ではなく、キリストの福音によってこの世界が祝福に包まれる日を待ち望みつつ、和解の福音を大胆に語る者とさせてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。