2021年03月14日「新しい出発」

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新しい出発

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
創世記 12章1節~4節

音声ファイル

聖書の言葉

1主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。2わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。3あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」4アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。創世記 12章1節~4節

メッセージ

 誰もが新しい出発を必要としています。たとえ必要としていなくても、半ば無理やりに新しい歩みを始めていかなければいけないことがあります。そして、私どもの人生は「旅」にたとえられることがしばしばあります。しかも、その旅は終わりを知りません。ずっと同じ所に留まっているというよりも、絶えず動き続けているところがあります。大小様々ですが、私どもは新しい場所を転々とするようにして生きているところがあるのではないでしょうか。3月の半ばを迎え、今は卒業式の季節です。そして、1ヶ月もしないうちに4月になり、新しい学校に進学したり、進級することになります。4月から新しい職場で働き始める人もいるでしょう。期待に胸を膨らませている人もいれば、新しい場所で上手くやっていけるだろうかと不安な人もいます。

 そのように色んな思いに溢れるこの季節ですが、決して、若い人に限らず、どの世代の人も新しい出発を経験します。人は皆、「新しさ」というものに憧れのような思いを持っているからです。それは新しく生きようとする思いを妨げる多くの力があるからかもしれません。あるいは、もう歳なのだから、自分のことをちゃんとわきまえるように、家族から言われることもあります。いい歳をして、新しいことにチャレンジして生きようとすると周りから笑われてしまうこともあるでしょう。確かに、自分の心や体をはじめ、自分自身のことをちゃんと理解し、受け入れることは大事なことでしょう。聞く耳を持たないというのではなくて、周りの声をちゃんと聞くことも大切なことです。

 その上で、時間を掛けて準備をし、新しい歩みへと踏み出して行く勇気というものが、やはり必要なのではないでしょうか。悩んでいても、迷っていても、心の中で堂々巡りをしているだけで、何も始まらないことがあるからです。そして、新しいことというのは、何かに挑戦することばかりではありません。例えば、愛する者を失って悲しみの中に沈み込んでしまうことがあります。悲しみを悲しみとして受け止めることも大事ですが、一方で以前のように元気になりたい。この悲しみを何とか乗り越えたいという思いが与えられることがあります。あるいは、人間関係においてつまずきを覚えたり、長い間不仲の状態が続いている時、どうにかして前のような良い関係に戻ることができないだろうか。そのために、まず自分ができることは何だろうかと悩み考えます。悩みながら、何としても前に進みたいという思いで、その人なりに新しい旅路を歩んでいるのです。

 旅にたとえられる私どもの人生ですが、では、どこから旅は始まるのでしょうか。旅を計画する時、目的地を決めることが大切です。また同時に、どこから出発するのか、どこからスタートするのかということも重要になってきます。ただ普通、目的地は考えますが、出発点を考えることはあまりないかもしれません。それは考えるまでもなく、分かり切ったことだからだと思います。旅行に行くのなら、今住んでいる家からの経路を考えます。進路のことを考えるなら、今の自分の成績や偏差値が基準になります。色んな出発点というものがあるのですが、その中心にあるのは「今の自分」です。今の自分の場所、今の自分の能力、今の自分の問題というふうに…。

 先程、お読みしましたのは創世記第12章の御言葉です。ここにアブラムという人物が登場します。のちに「アブラハム」と呼ばれることになる人物が出て来るのです。アブラハムも今、まさに新しい旅路の出発点に立っています。1節はこのような言葉で始まっています。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。』」アブラハムの旅は、「主は言われた」という神様の言葉からすべてが始まったということです。「新しい出発」という言葉を聞く時、人は人生における大きな節目になる出来事をいくつか挙げる人が多いと思うのです。自分がこの世界に生まれた時、学校に入学し卒業する時、就職する時、結婚する時というふうに。それらの節目に立たされる時、私どもは当然、色んな思いを抱くわけです。でも、聖書が語る「出発」というのは、それらの人生における節目でもなく、私たち自身が出発の起点になるのでもありません。「主は言われた」という神様の言葉がいつも先立ってあるということです。言い換えると、神様の呼び掛けがあってはじめて私どもは新しい一歩へと踏み出して行くことができるのです。

 聖書の最初を読みますと、そこには神が天と地を創造されたということが記されています。どのようにしてこの世界は始まったのでしょうか。神は「光あれ」と言って、この世界を創造する御業を始められました(創世記1:3)。ここでも、主の言葉が最初にあったのです。神の呼び掛けからこの世界が造られたのです。そして、この第12章において、神様はアブラハムの信仰というものを創造しようとしておられます。やがて、救いという祝福の実りを世界にもたらすこととなります。神の救いを信じる信仰に生きるということ、これは何によって生み出されるのでしょうか。私どもの熱心さや忍耐強さでしょうか。それとも、神様の前に立つことができる相応しさを備えることでしょうか。そうではないのです。救いの歴史の出発点に立ち、新しい信仰の旅路へと導いたのは主の言葉でした。

 「主は言われた」という主の言葉からアブラハムは新しい出発を始めることになるのですが、それにしても、あまりにも唐突な感じがいたします。主の言葉を聞くための準備をしていたわけではありませんでしたし、熱心にいつも神様に祈り求めていたとか、そういうアブラハムの信仰の姿はまったく記されていないのです。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」と急に命じられたアブラハムですが、彼がそこで何を思ったのか、そういう不安や戸惑いといったものも何一つ記されておりません。聖書を読む私どもにとりまして関心があるところですし、ある程度想像することもできるかもしれません。しかし、聖書は4節にありますように「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と記すだけなのです。主の言葉が語られ、それを聞いたアブラハムが主の言葉に従って旅を始めたというのです。今日のアブラハムの物語を「アブラハムの召命」と呼ぶことがあります。アブラハムの新しい旅路は、神が与えたもう使命に生きることです。そのために、主はアブラハムに語り掛け、「わたしの示す地」に行くように命じられたのです。そして、この「召し」「召命」ということですが、これは決してアブラハムのような特別な人物、あるいは牧師など神と教会のために献身した人たちだけの話ではないということです。神様は一人一人を必要としておられ、それぞれに与えられている使命というものがあります。いつでもその使命に生きることができるように、賜物を十分に発揮できるように、色んな努力や準備をすることがあるかもしれません。しかし、神様が突然アブラハムに語り掛け、アブラハムを召したように、何の準備もない中にあっても、突然、神様が私を呼ばれるということがあります。そこに何の不安もないかというと、それは嘘になるでしょう。でも、そこですべてを委ねて、主の言葉に従っていく。このことを神様は求めておられます。

 「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」アブラハムの新しい旅路を導いたのは主の言葉でした。主の言葉から出発したのです。ただこの時、アブラハムがいましたのは「生まれ故郷」であり、「父の家」です。もとのヘブライ語では、「国」「親族」「父の家」というふうに三つのことが言われています。生まれ故郷も親族も父の家もアブラハムにとっては、住み慣れた場所であり、心落ち着くような場所であったと思います。周りには家族をはじめ親しい人たちがいます。これらの環境の中で、アブラハムという一人の人間が形づくられてきたのです。まさにアブラハムとって、生まれ故郷や父の家というのは、安心できる場所であり、自分の生活を保証してくれる場所でした。しかし、神はそこから離れるように命じられるのです。そして、代わりに「わたしの示す地」に行くように命じられます。しかし、「わたしの示す地」について具体的にどこであるかということは、この時点ではまだ明らかになっていません。先程、読んでいただきましたヘブライ人への手紙第11章8節を見ますと、「行き先も知らずに出発した」とありました。それに今アブラハムがいるところはハランという場所で、文明が栄えた町でした。目を遠くに向けると、そこには荒れ野が広がっているのです。自分が知らないところに連れて行くこと、しかも今もよりも生きづらい場所に行かなければいけないということは、本当に不安なことだと思います。はっきりとした目的がないまま歩き続けるというのは、どこか空しく感じてしまうことがあるのではないでしょうか。そのように考えますと、「わたしが示す地に行くように」という言葉は、驚くような言葉でありまして、その言葉を聞いてすぐに喜びや平安で満たされるというよりは、やはり不安や戸惑いのほうが強いのではないかと考えます。でも、アブラハムは主の言葉に従いました。主の言葉しか頼るものはありませんでした。今私はどこに向かって歩んで行くのか正直分からないけれども、主御自身が「わたしの示す地」とおっしゃっておられるように、主はどこに行くのかをはっきりと知っておられる。それで十分ではないか。そう言って、主の言葉に従って旅を始めたのです。

 人生は旅にたとえられます。そして、旅は「冒険」だと言う人もいます。そして、冒険というのはいつも危険が付き物です。様々な不安や危険がすぐ隣にあるような私どもの歩みです。そのような冒険としての人生、時に自分の生き方さえ分からなくなってしまう人生を導き、方向付けたものとは何でしょうか。それは「主の言葉」であるということです。本日発行された「月報」にも少し記したことですが、アブラハムの生涯についてたいへん優れた文章を書いた人に森有正というキリスト者がいます。森さんが「冒険と方向」という文章の中でこのように言っています。

 「冒険というのは実は自分の心の軸をほかのものに結びつけ、それとともに生き、それとともに学び、それとともに場合によっては苦しみ、その中から自分の魂を豊かにしてゆくこと、そういう道なのであります。ですから、ある意味で、冒険というのは、自分ではないある一つのものに結びつけられ、そのものに方向づけられるという面をもっております。」(『古いものと新しいもの』174頁)

 森さんはそのように語ります。旅としての人生、冒険としての人生を生きる私どもは、その心の軸をどこに結び付けるのでしょうか。それが主の言葉であるということです。だから、森さんはこの関連で、「冒険の反対にあたる言葉が“同化”」であると言います。同化というのは、自分という軸を変えることなく、自分の内や外で起こってきたものを、自分の都合のいいように変えて受け入れるということです。アブラハムは、「わたしが示す地に行きなさい。」という主の言葉を受け入れました。行き先を知らないにもかかわらず、主の言葉を自分の都合のいいように変えるようなことをせず、「主の言葉に従って」旅立ちました。主の言葉の軸に自分を結び付けられ、方向付けられたのです。ここに冒険としての人生があります。また、4節にありますようにこの時アブラハムの年齢は「75歳」でした。現代で言えば、ずいぶん高齢です。何か新しいことを始めるような年齢ではないと考える人も多いでしょう。今から新しいことを始めても何になるのだと言って、なかなか希望が持ちづらい年齢であるかもしれません。しかし、御言葉が語られ、御言葉を信じる時、誰にでも新しい出発が起こるのです。新しい信仰の出発に年齢は関係ないのです。

 主は、「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」とおっしゃったあと、続けてこのようにおっしゃいました。2節、3節「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」 主の言葉には約束が伴います。どのような約束でしょうか。それは祝福の約束です。2節、3節を見ますと「祝福」という言葉が5回出てきます。祝福というのは、「救い」と言い換えてもいいでしょう。そして、祝福や救いと対極にあるのが、3節にもある「呪い」ということです。主の言葉を聞いたアブラハムが行き先も知らずに旅に出発する。75歳で、住み慣れた安心できる場所を離れて旅に出る。それだけでもすごいことだと思いますが、アブラハムの新しい出発にはもっと大きな意味がありました。救いの歴史がここから始まるというのです。アブラハムはこの出発点に今立っているのです。

 「祝福の反対が呪いである」と先程申しました。第12章に「祝福」という言葉が5回出てきます。そして、「呪い」という言葉が創世記第3章から11章までに同じく5回出てくるのです。第3章以下にどういうことが記されていたのでしょう。例えば次のような言葉があります。「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。』」(3:17)「今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。」(4:11)最初に造られた人間であるアダムとエバは、神の言葉ではなく、蛇の言葉に従うことを選択しました。神のように賢くなれると信じたからです。彼らの息子であるカインは心を怒りに支配され、弟アベルを殺してしましました。それゆえに、人だけではなく私たちが生きる大地までが呪われるものとなってしました。何をしても実りを生み出さない。喜びと満足を得ることができない、そういう呪われた世界になってしまったのです。このように呪いというものは、「罪」と深く結び付いていることです。神様が世界を創造された時、「極めて良かった」とおっしゃってくださり、喜びと満足を表されました。この世界も人間もすべて神によって祝福された存在だったのです。しかし、人は罪を犯し、エデンの園から追放されます。神だけでなく隣人を愛することができなくなり、兄が弟を殺します。ノアの時代に大洪水が起こり、神の裁きが下されました。「もう滅ぼすことはしない」と神様は約束してくださったにもかかわらず、そのあと人間は、バベルの塔を建てようとしました。そして、罪の結果、生きていても一所懸命働いていても、実りがなく空しさを覚えるようになりました。どこに向かって歩めばいいのか分からず、あてもなく彷徨う生き方しかできなくなりました。自由の喜びを失い、やがて死ぬ運命であることに希望を持てなくなり、死の恐怖を覚えるようになったのです。何よりも神を喜ぶことができなくなってしまったのです。しかし、神はこの呪われた人間と罪と死から救い出し、祝福するために救いの歴史をここから始めてくださいました。そのために最初に選ばれたのがアブラハムです。

 主はおっしゃいます。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」「あなたの名を高める」というのは、先の第11章で人間がバベルの塔を建てていた時に口にした言葉と対応しています。その時、人々は言いました。「有名になろう」「我々の名を上げよう」と。最初に罪を犯したアダムとエバが「神のようになりたい」と願ったこととまったく同じです。しかし、神の言葉を無視して、自分の名を高めようとするならば、最後には自分を見失い、必ず挫折してしまうだけなのです。自分で自分を高めるのではなく、神が私の名を高めてくださる。そのことを私たちの喜びとして生きていく。そこに祝福があるのです。

 また、神様はアブラハムに「祝福の源となるように」とおっしゃいました。ここで見つめられているのは、アブラハム自身の祝福だけではありません。アブラハムが祝福の源として、神に用いられる人生を生きるようになるということです。3節後半に「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」とあるように、アブラハムをとおして、救いが全世界に広がっていくということが約束されています。このアブラハムの選びの中に、もう既に私たちの選び、救いがあります。この神の救いの御業に仕え、用いられていく人生を私どもは歩んでいくことになります。自分の名を高めようとし、自分の成功ばかりに心が向いてしまう私どもです。しかし、神はそのような罪の中にある者を心に留め、声を掛けてくださいます。そして、自分のために生きるのではなく、神に用いられ、祝福の源となる人生へと招いてくださるのです。

 この時、神がアブラハムにおっしゃった祝福の具体的な内容は、「アブラハムの子孫を祝福する」ということです。このアブラハムの子孫がやがて神の民イスラエルとなります。そして、祝福のもう一つの内容は「土地」を与えるということでした。これらのことも驚くべきことでして、アブラハムの「子孫」を祝福すると言うのですけれども、アブラハムにはこの時、子どもが一人もいませんでした。しかも、アブラハムの年齢はこの時75歳です。普通に考えれば、子どもが生まれるような年齢をとっくに過ぎています。人間的には望みがまったくない状況でした。もう一つの「土地を与える」ということですが、アブラハムたちがこのあと行くことになるカナンという町には、先に住んでいるカナン人がいました。つまり、アブラハムたちはいわゆる「よそ者」「寄留者」になるということを意味しました。そして、カナン人とは信仰も異なりましたから、色々と苦労するところも多かったのです。このように見てみますと、「神様の言葉を信じる」とひとこと申しましても、信じるに値する何かが今自分の目の前にあるから、私は安心して信じるとことができるというのではないようです。むしろ、人間的な基準から判断すれば、到底信じれそうないものばかりがアブラハムの目の前にあったのです。しかし、神様の約束の言葉に、自分のすべてを委ねたのです。主の言葉に従うことができないだけの理由のほうがたくさんあったかもしれませんが、それらも含め、すべてを主に委ね、主の言葉に従って旅に出たのです。

 救いの歴史は、やがてこの世界にお生まれになるイエス・キリストを目指しています。キリストにおいて、すべての民が祝福されるという恵みの出来事が起こりました。キリストこそまことの祝福の源です。使徒パウロはガラテヤの教会に宛てた手紙の中でこのように言っています。ガラテヤの信徒への手紙第3章13〜14節です。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」私どもが神によって祝福された存在となるために、イエス・キリストが代わりに人間の呪いをすべて引き受けてくださり、十字架で死んでくださいました。十字架は神に呪われているということのしるしです。私どもは十字架を仰ぎ見る時、そこに何を見るのでしょうか。それは、私はもう神に呪われた人間ではないということです。この先、どんなことがあったとしても、私は神の祝福があるということを信じて生きることができるようになったということです。罪と死の力から解き放たれたということです。もう空しいとか儚いと言ってつぶやくことなく、手応えある毎日を生きることができるようになったということです。そして、私どももまたアブラハムの子孫としてこの地上を旅しています。来るべき救いの完成を待ち望んで、天にある故郷を目指して旅をしているのです。キリストに結ばれた一人一人が、そしてその群れである教会は、「祝福の源」としての使命を与えられています。神の祝福を受け継ぐために、私どもは召されているのです。

 さて、今日はお読みしなかったのですが、5節以下に目を向けますと、主の言葉に従って旅立ったアブラハムたちがまずカナンと呼ばれる地方に入り、その後、シケムやベテルといった町を行く巡る様子が記されています。ここで注目をしたいのが、7節と8節にありますように「祭壇を築いた」ということです。そして、そこで「主の御名を呼んだ」ということです。祭壇を築き、主の御名を呼ぶというのは、要するに、神を礼拝したということです。カナン人はまことの神を知りません。異教の環境にあっても、アブラハムは神を礼拝することを大切にしました。そもそも、アブラハムが出発したハランという町も偶像礼拝がささげられていた場所でした。ハランの地を離れ、神が示す地に向かうというのは、偽りの神から離れ、まことの神のみを礼拝する生き方へと変えられていくということでもありました。そして、神を礼拝するということこそが、祝福の人生そのものでありまして、そのために神はアブラハムを召してくださったのです。

 「わたしが示す地に行きなさい」という主の言葉に導かれて、新しい出発をする私どもの旅路ですが、その旅の中心にあるのは神を礼拝するということです。神様の言葉は、このあとのアブラハム物語を読むとよく分かるのですが、繰り返し語られていくのです。一度、語ったらそれで終わりではありません。旅は冒険であり、危険が伴うと申しましたけれども、信仰という旅路において様々な試練、苦難といったものに直面しなければいけないことがあります。自分に与えられている信仰そのものが根底から問われるということもあるのです。しかし、神を礼拝する度に、私どもは神の語り掛けを聞きます。祝福の約束をもう一度聞き、祝福の源になるべく、その使命に喜んで生きることができるのです。

 主の日ごとに集まる礼拝において、「主は言われた」という神様の語り掛けを聞く私どもです。「主は言われた」という言葉から始まる新しい歩み、祝福に満ちた歩みがここにあることを信じているからです。「新しいこと」に向かって歩み出す人たちが多いこの季節です。生活や職場の環境が自分を新しくするというのも事実かもしれません。でもそれらのことは絶対的なものではありません。時と共に移り変わり、やがて廃れていくものです。そのような中にあっても、主の言葉に聞き、神を礼拝する生活がいつも中心にあること。ここに私どもの新しい出発があります。礼拝における神様との出会いが、私ども人生を決定付けるのです。自分は歳を重ねているとか、今からはもう何も始まらないと言って、諦めてしまっている人に対しても、神は語り掛けくださいます。そして、立ち上がらせてくださるのです。主の言葉から祝福の人生が始まっていくのです。お祈りをいたします。

 主の言葉を聞き、従う時、この私も新しい出発をすることができるという確信を持つことができますように。私どもの人生には多くの新しい出発があり、幾度も大きな節目を経験します。しかし、そこで主の言葉に聞く姿勢を大切にすることができますように。そして、神の祝福に生かされている私どもが、その祝福を担う者としてあなたに用いられる歩みを重ねていくことができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。