2021年02月14日「良くなりたいか」
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良くなりたいか
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ヨハネによる福音書 5章1節~18節
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聖書の言葉
1その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。2エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。3この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。5さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。7病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。10そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」11しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。12彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。13しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。14その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」15この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。16そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。17イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」18このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。ヨハネによる福音書 5章1節~18節
メッセージ
主イエスがお語りになるお言葉はいつも力に満ちていると同時に、たいへん不思議に思うことがしばしばあります。私たち人間には語ることのできない、神様だけが語ることができる言葉をお語りになられるからです。その言葉を耳にした時に、私どもは圧倒され、心砕かれ、救いに導かれるのです。一方で、一度聞いただけでは、あまりよく理解できずにいるということもよくあるのだと思います。しかし、よく分からない言葉やなぜこんなことをおっしゃったのかと疑問に思うことの中に、実は大切な真理があるということがよくあります。主イエスの言葉を聞いて不思議に思うそのところから、私どもがこれまで知らなかった新しい人生の歩みが始まるということがあるのです。
先程、ヨハネによる福音書第5章の御言葉を共に聞きました。38年間、病に苦しんでいる男に向かって、主イエスは「良くなりたいか」(6節)と尋ねられました。今日よりも寿命が遥かに短い時代です。38年というのは、その年数だけでもかなりの長さですが、その人の人生全体と言ってもいいような数字です。それが38年という長さです。私たちもまた38年とまでは言わないかもしれませんが、それぞれに病というものを負ったことがありますし、今も負っているという方がおられるでしょう。ちょっとした風邪やけがでも私どもは苦しみを覚えます。早く病院を訪ね、薬をもらいます。早く良くなりたいからです。まして、38年もの間、幼い頃から今に到るまでずっと病の中にあるならば、誰もが早く治りたいと願うのではないでしょう。しかし、主イエスはある意味誰でも分かり切ったような言葉、また相手の人に対して失礼とも言えるような言葉をお語りなったのです。良くなりたいか…。
この物語の舞台となっていますのは、「ベトザタ」と呼ばれる池でした。エルサレムの街の東北の端に位置する場所と言われています。19世紀後半には実際にこの池があった場所や回廊の跡などが発見されました。池というのは、自然にできた池ではなく、人間が造った人工池です。長さが50メートルほどだったと言われています。その池が二つ並ぶようにできていたのです。そして、その池の周りに4つの回廊(通路のような)ものがあり、また二つの池の間にもう1つの回廊が存在しました。合計すると2節にもありますように「五つの回廊」が存在したのです。また聖書には記されていませんが、回廊の上には屋根があり、それを支える柱があったと言われています。そしてこの回廊には、3節にありますように、「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」のです。その中に、先程の38年間も病で苦しんでいた人も横になっていました。ですから、ここは今で言うと一種の「病院」のような場所と言ってもいいでしょう。病人以外に、彼らをお世話し、生活を支える人たちもたくさん行き来していたのかもしれません。この「ベトザタ」というのは、日本語に訳しますと、「いつくしみの家」と言うことができます。ですから、キリスト教系の病院や社会福祉施設などに「ベトザタ」とか「べテスダ」という名前が付いているものがいくつかあります。
しかしながら、「いつくしみの家」と呼ばれるこのベトザタの池には、神のいつくしみとは程遠い実態がありました。主イエスがこのベトザタに来られた時、ちょうどユダヤ人の祭りで賑わっていたのです。どんな祭りかははっきりしませんが、周りは明るい雰囲気だったことでしょう。それとは対照的にベトザタの池の周りは静けさで満ちていました。この静けさというのは、祭りがあるなしに関わらずいつもあったものです。それは皆が病人で元気に振舞うことができないからということではどうもないようです。非常に緊張に満ちた静けさ、あるいは、殺気さえ覚えるような静けさがそこにはあったのです。どうして3節に記されていましたように、病人たちは回廊に大勢横たわっていたのでしょうか。その理由は記されていません。しかし、私どもが手にしています聖書を見ますと、4節が抜けていて、3節から急に5節に飛んでいます。3節の後ろに小さな十字のマークがあります。これはある写本(原本のようなもの)には4節に当たる言葉が記されていたということです。ヨハネによる福音書の最後のページを見ますと(新約p212)、脚注のような形で次のような言葉が記されています。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」ここを見ますと、だいぶ意味が分かってくると思うのですが、池のそばに横たわっていたのは、池の水が動くのを今か今かと待っていたということです。池の水というものは強い風が吹けば動きますし、温泉地などに行きますと「間欠泉」と言ってお湯やガスが勢いよく吹き出るということはよくあることです。決して珍しい現象ではないのですが、人々は水が動いたというのは、天の御使が降りてきた証拠だ。天使は目に見えないけれども、水の動きは目で見ることができる。そして、天使が池に舞い降りて、水が動いた時、真っ先に水に飛び込めがどんな病気も癒される。そのように信じていたのです。これは明らかに迷信ですが、病人たちはそのことを本当に信じていました。藁をもつかむような思いだったのかもしれません。そして、水が動く時をじっと待ち続けていたのです。しかも、癒されるのはたった一人だけだというのです。普段はお互い病気を抱えていた者同士として親しくしていたのかもしれません。しかし、実際は表面上の付き合いなのです。他人ではなく、自分が癒されることが一番大事だと思っていたからです。水が動き出した途端に、そこは悲惨な場所となったのです。そういう意味では、ただ体が病んだり、体が不自由になったりというのではなくて、心と魂においても病や闇というものを抱えていたということです。
「ベトザタ」そこはまさに神のいつくしみが注がれるべき場所でした。しかし、実態はその正反対でした。自分さえ良くなればいいという自己中心の思いがそこに溢れていたのです。いつくしみの家ではなく、絶望の家、悲惨の家、暗闇の家、それがベトザタでした。私どもまた、病を負って生きなければいけないことがあります。すぐに治れば、それは本当に感謝なことですが、長い間、病と戦い続けなければいけないという人も多いと思うのです。その時に思わされますのは、病気というのはただ体が強くなれば、それでいいというものではないということです。病と戦い、上手く付き合うためには、体だけではなく心も強くないといけないということです。病と戦おうという気力の問題もあるかもしれませんが、病を負う中で見えてくる自分自身の闇、あるいは、他人の闇、そういったものとどう向き合い、そして解決していくかということです。また、病に限らず、あらゆる苦難や試練の中に立たされる時、例えば、自分で自分を助けることもできないと嘆くことがあります。自分を心配して寄り添ってくれる人を見ても、結局、あの人も私の病を癒すことはできないと不平を口にします。あるいは、自分以外の誰かが先に元気になっていく、先に幸せになっていく。そういう様子を見て、ますます自分の心が窮屈になるということがあると思うのです。問題は誰よりも先に池の水に入って癒されれば、それでいいということではありません。すべてを自分中心に考え、自分が一番になることだけを考えて生きる生き方というのは、何も生み出さないのです。祝福された人生がここから始まると思っているかもしれませんが、それこそまさに迷信に過ぎないのです。
しかし、主イエスはそういう悲惨と闇を抱えている家の中に、その家の中に生きる者たちのもとを訪ねてくださるお方です。神がいつくしみ深いお方であるというのは、どういうことなのかを明らかにするために、主は来てくださるのです。そして、最初にもお話しましたように、38年間も病で苦しんでいる男に向かって「良くなりたいか」とお尋ねになりました。病人に「良くなりたいか」と尋ねることは、私たちの感覚からすれば失礼かもしれません。愚かな問いとも言えるでしょう。病が癒され、健やかになることを誰もが願っているからです。そして、「良くなりたいか」という言葉は、私どもからすれば不思議な言葉です。しかし、主イエスはこの男を軽んじているわけではありません。そうではなくて、救いの光の中に招き入れたいと願っておられます。救いに導くために「良くなりたいか」と問われるのです。しかも、この男が今抱えている絶望の根本にあるものがいったい何であるかことに気付かせるために主は問われるのです。良くなりたいか…
病を患っていたら誰もが良くなりたいと願います。このことはある意味人間の常識です。病だけではないかもしれません。私どもは色んな部分が不健康になります。あるいは、弱さを覚えることがあります。だから、良くなりたいのです。38年も病に苦しんでいた男はどうでしょうか。当然、「良くなりたいか」と問われて、すぐに「良くなりたいです」と答えるに違いないと普通は考えます。しかし、7節にありますように、男はこう答えたのです。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」つまり、「良くなりたいです」と答えなかったということです。代わりに何を言ったかと申しますと、「水が動いた時に誰も私を運んで水に入れてくれる人はいない」と言ったのです。どうもこの男は病によって、自由に歩き回ることができなくなっていたようです。唯一の望みであった池の水に入るということも、自分で動くことができませんから入りたくても入ることはできません。誰かを頼るしか方法はないのです。でも、誰も自分を運んでくれないというのです。男の嘆きとも取れますし、周りの者への批判・不平ともとれる言葉でしょう。しかし、いずれにせよ男は主イエスからの問いに対して、すぐに「良くなりたいです」と答えることができませんでした。主イエスから「良くなりたいか?」と問われ、「良くなりたいです」と答えることができない。このことのほうが、神に造られた人間としてあまりにも不自然な姿だと思うのです。男は38年という長い時間の中で、「良くなりたい」と真剣に願う思いが消えてしまったのかもしれません。あるいは、人間的な常識や経験からして良くなることはあり得ないと言って、諦めてしまっていたのかもしれません。この男もまた体だけではなく、心と魂においても大きな問題を抱えていました。自分も隣人も正しく見つめることができず、愛することに恐れを抱いていたのです。
しかし、主イエスはこの男を真っ直ぐに見つめられます。6節に「イエスは、その人が横たわっているのを見」とありますが、この「見る」というのは「じっーと見る」「注意深く見る」という意味の言葉です。主イエスはこの男のこと、そして私どものことをじっーと見ていてくださるのです。「良くなりたいか」という主イエスの言葉が先にあったように、私どもを見つめる主イエスのまなざしがいつも先にあります。ここに救いの出来事が生まれるのです。「良くなりたいか」という問いに対して、男は「誰も自分を水に入れてくれない」と嘆き、また周りを批判しました。では、主イエスが与えてくださる救いというものはどのようなものなのでしょうか。男の言葉を聞いて、「じゃあ、わたしがいつもあなたのそばにいて、池の水が動いたら真っ先に水に入れてあげる」とおっしゃってくださったのでしょうか。そうではありませんでした。この男のもう一つの問題は池の水に心が捕らわれていたということです。何がこの男を救うのでしょうか。「水」なのでしょうか。そうではないのです。救ってくださるのは「主イエス」御自身です。主イエスが私を救ってくださるということを忘れ、主イエスを見失ってしまうこと。ここにこの男だけでなく、すべての人が抱える罪の問題があるのです。
だから、主イエスは「あなたを担いで、池の水に入れてあげる」というふうにはおっしゃいませんでした。この男を救うのは主イエス御自身だからです。そして、このように言いました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(8節)「良くなりたいか」という言葉とともに、私どもが聞くべき言葉がここにあります。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」この男にとっても、私どもにとって必要なのは、この主イエスの言葉を聞いて、起き上がって、床を担いで歩くことです。男は主の言葉を聞くと、すぐに良くなり床を担いで歩き出しました。「床」と聞いて、何かベッドのようなものを想像しますが、そんなに重たいものではなく、ござのような持ち運びができる軽いものだったとも言われます。それよりも心に留めたいことは、この男にとって「床」というものは苦しみの象徴であったということです。床の上で38年もの間、苦しみ続けていました。体だけではなく、心と魂においても絶望を経験し、その苦しみの上にずっと横になっていたのです。主の言葉を聞いて、起き上がり、床を担ぐというのは、今まで自分を縛り付けていたものから解き放たれるということです。
このところを読みながら不思議に思うことは、「今まであなたを苦しめ続けていた象徴である『床』を捨てるように」というふうに、主はおっしゃらなかったということです。「捨てることなく、担ぎなさい」とおっしゃいました。はっきとした理由は、色々と調べたのですがよく分かりませんでした。でも、私どもの歩みには、自分を苦しめていたものを捨てて生きる生き方もあれば、何か過去のことが気になったり、まとわりついてくるように思えることがあります。しかし、たとえそうであっても、床を担いで軽やかに歩き回ることができるほどに私どもは自由にされているということなのではないでしょうか。もはや、私を脅かすものではなくなったということです。この「起き上がりなさい」という言葉は、他の聖書箇所を見ますと「立ち上がる」とか「復活する」というふうに訳される言葉です。主イエスを死者の中から復活させた神の力によって、私どももまた罪と死の中から立ち上がり、歩き出すことができるのです。この世にあるどんな力も、御子イエス・キリストを復活させた神の力に勝つことはできません。そのような確かな力によって、私どもの救われた生活、新しい人生が始まるのです。
そして、「良くなりたいか」という主イエスの問いは、「救われたいか」という問いでもあります。洗礼を受けてキリスト者になるというのは、「良くなりたいか」「救われたいか」という問いに、素直に「救われたいです」と答えるということです。すぐに答えられなかったり、違うことを口にしてしまう。そこに私どもの罪があります。主イエスは、「救われたいです」と答え、信仰を告白することを待っておられます。また、救いに導かれるにはそれぞれ時間やタイミングというものがあります。しかし、病の治療を先延ばしできないように、救いの問題も先延ばしにすることはできないということです。神様御自身が私どものために真っ先に願っておられることは、あなたの救いであるということです。
さて、今日の物語はここで終わってもいいのですけれども、実はこの男の癒しを巡って新たな問題が起こったということが9節後半から記されています。何が問題になったかと言うと、この男が癒された日が、ユダヤ人たちが大事にしている「安息日」であったからです。男が主イエスのお言葉どおり、床を担いて歩いていますと、ユダヤ人たちに詰め寄られまして、その行為を咎められるのです。安息日というのは、「休む」ということを大切にしますから、細かいことかもしれませんが、床を担ぐという行為も「物を運ぶ」という労働に当たると見做されたのです。癒された男も、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」(11節)と言って、責任を免れようとします。この時はまだ自分を癒してくださった方が、主イエスであるということに気付いていないようですが、神殿で再び主とお会いし、ユダヤ人たちに「自分をいやしたのはイエスだ」と知らせたというのです。このことがきっかけとなり、ユダヤ人たちの矛先が主イエス御自身に向けられ、迫害が始まったのです。
主イエスは神殿の境内で再び男と出会った時、このようにおっしゃいました。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」主イエスの思いはこの男の救いだけではなく、救われた後の生活にも向けられています。それが、「もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」ということです。これは罪を犯した結果として、病気になるというような因果応報的なことをおっしゃっているのではありません。第9章で、生まれつき目が見ない男を癒された時に、主御自身おっしゃられたとおり本人やその親が罪を犯したから、その報いとして重い病を患ってしまう。そのような考え方を真っ向から否定されました。「もう、罪を犯してはいけない」というのは、せっかく救っていただいたのだから、これからはもう罪の中に留まるような生き方をしないようにということです。つまり、罪ではなく、神の愛と赦しの中に留まり続けなさいということです。神を信じ、神との交わりの中を生き続けなさいということです。もし、再び神から離れるような生き方をしてしまったらならば、これほど神様にとって悲しいことはないでありましょう。私どもはキリストによって、癒していただき、救っていただいたのですから、この神の恵みを無駄にすることなく信仰の歩みを重ねていくのです。
「もう、罪を犯してはいけない」という言葉は、救いの恵みに生きている私どもキリスト者にとりまして、簡単に聞き流せない言葉だと思います。罪の大小というのはあるかもしれませんが、救われながらも自分の罪や貧しさというものを、救われる前よりももっと深いところで知るようになったからです。そうしますと、「何かもっと悪いことが起こりはしないか」と恐れを抱いてしまうのも不思議ではありません。罪ではなく、神の救いの恵みの中に留まり続けるということは、ほとんど戦いとも言えるようなことなのかもしれません。救われた後の生活においても、大きな危機、試練はたくさんあるのです。
しかし、そういう私どものことを主はよく知っていてくださるからこそ、ここでも議論になっています「安息日」というものを与えてくださいました。主イエスが地上に来られてから定められたというのではなく、この世界をお造りになった時から、この世界の初めから存在したのが「安息日」という特別な日です(創世記2:2〜3)。普段の仕事に追われてしまい、私どもが神様の恵みを忘れることがないように、神様は私どもの日常の歩みを中断し、「安息日」を定め、これを守るようにお命じになりました。安息日というのは神を礼拝し、神との交わりを喜び楽しむ時です。これほど素晴らしい日は他にないのです。
ところが、安息日についての理解が長い歴史の中でどんどん大きな広がりを持つようになりました。神を喜び楽しむことよりも、「仕事を休む」ということに重点が置かれるようになったのです。さらに「仕事を休む」と言っても、どこまでが仕事でどこからが休みになるのか、そんなことばかりを真剣に考え始めるようになったのです。この時、癒された男が床を担いで歩いていたのも立派な労働だと見做され、それを指示した主イエスにユダヤ人たちは怒りを向けたのです。主イエスが私どもの救い主としてこの世界に来てくださったのは、一つの言い方をすると「安息日」を取り戻すために来てくださったと言ってもいいのです。安息日を人間の手から神のもとにお返しするその戦いを戦い抜くためにこの世界に来てくださいました。安息日が神の救いの光によって再び包まれるために、そして、礼拝において、キリストによって救われ自由にされた喜びが満ち溢れ、まことの安息を得ることができるために、「安息日」というものを神が備えてくださったのです。
17節で、主イエスはこのようにおっしゃいます。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」神は今も生きて働いておられます。それゆえに、主イエスは今もお働きになるのです。神様は休むことを知りません。「わたしも疲れたから、安息日だけは少し休ませてほしい。代わりにあなたがたも休んでいいから」というのではないのです。神様は安息日においてさえも、休むことなくお働きになります。それは私どもを祝福されるためです。そのために、安息日を聖別してくださるのです。この安息日を神のもとにお返しし、もう一度、安息日の本来の素晴らしさの中に招いてくださるために、主イエスは十字架でいのちをささげてくださいました。そして、復活し勝利を収め、神のもとに安息日をお返しされたのです。
主イエスの復活によって、安息日もまた新しい意味を持つようになりました。キリスト教会では、主イエスの復活を記念して「主の日」と呼んで、日曜日に教会に集い礼拝をささげます。まことの安息、そして、喜びと自由がここにあることを信じ、私どもはここに集うのです。主イエスが罪と死に打ち勝ち、立ち上がられたように、私どももまたここで再び立ち上がり、信仰の旅路を重ねていきます。「良くなりたいか」「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」この主イエスの御声を主の日の礼拝の中で、はっきりと聞き、いのちの主の働きの中に立ち続けるのです。これが神の願いであり、私どもの幸いもここに生まれるのです。お祈りをいたします。
苦しみの中に置かれながら、自分の願いが何であるのかさえ忘れてしまうことがあります。苦しみの中で、諦めの思いに捕らわれ、罪を重ねてしまう愚かな私どもです。「良くなりたいか」「救われたいか」と問うてくださる主の言葉をしっかりと聞くことができますように。御霊に導かれ、主によって「救われたい」との思いをはっきりと言い表すことができますように。そして、今も生きておられる復活の主のお働きの中に立ち続け、信仰の歩みと続けていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。