2021年01月24日「惜しまず豊かに」
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惜しまず豊かに
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コリントの信徒への手紙二 9章1節~15節
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聖書の言葉
1 聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。 2 わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。 3 わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。 4 そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。 5 そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。7 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。8神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。9 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。10 種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。11 あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。12 なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。13 この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。 14 更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。 15 言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。 コリントの信徒への手紙二 9章1節~15節
メッセージ
次週の午後から定期会員総会が行われます。主な議事は週報や年報に記されているとおりです。年報をぜひ丁寧に読んでいただき、会議に臨んでいただきたいと願います。分かりやすく申しますと、昨年度の報告がなされ、新しい年、「神様の前に私たちはこのように歩んでいきます」と決心し、献身の思いを新たにすることです。多くの報告、提案、選挙等がありますが、中でも会計に関すること、決算や予算については時間を掛けて扱います。初めての方は数字や項目だけを見ても十分分からないところがあるかもしれませんが、そのような時は遠慮なく尋ねていただければと思います。やはり、よく理解した上で献金をささげていただきたいと思うからです。
教会の歩みというのは、「献金」によって支えられているという面があります。それは教会に集う人々のお金、経済力によってということではありません。すべては神様のものであり、私どもがささげる献金、お金も神様から与えられたものです。教会を造り上げる働きに、教会員一人一人が召されているのですが、その力はすべて神様からいただいた恵みと力によるものです。人は一人で生きていくにしろ、家族と共に生きていくにしろ、あるいは、学校や会社を運営していく上でもお金というものが必要です。神を信じている人も、まだ信じていない人もやはりお金は必要です。神様を信じれば、すべての必要が与えられると私は信じている。だから、働かないでずっと家でボッーとしている、私は何もしないというというのであれば、それはそれで神様の御心をよく理解できていないということになります。
教会の礼拝に出席し、聖書を開いて読んでみる。その時、私どもはどういうことを期待するでしょうか。今日、初めて教会に来て、魂が安らぐようないい話を聞けると思ったら、牧師が急にお金の話をし出した。もしかしたら、がっかりしてしまうかもしれません。それは、初めての人、求道中の人だけではなく、既に信仰を持っている人にとっても同じことです。やはり、私どもは「救い」というものを第一に求めているのだと思います。この世にはない神様の愛とか赦しとか平安とか、あるいは悩みが解決されることや、病が癒されることを求めて教会にやって来ると思うのです。お金のこととか、お金がないと何もできないとか、そういう話はどこでも聞くことできると考えてしますのです。それに、お金というのは絶えず「誘惑」というものが付きまといます。間違った仕方でお金を用いると取り返しの付かないことになります。そのように、どこかお金というものには人間が持っている闇のようなものが一緒にまとわり付いているように思えてしまいますので、なおさら、お金の話なんて教会で聞きたくないと思われるかもしれません。しかし、教会にとっても、普段の生活においてもお金は大事です。だから、聖書はお金のこと、献金のことをいい加減な問題とはせず、正面から向き合って教えてくれるのです。
教会では、毎週のように献金に関する説教を聞くわけではないかもしれません。私が話すにしても年に1回程度です。でも、礼拝の中で献金は毎週あります。「献金」という言葉自体、教会の外でも通じる言葉ですから、誤解を招かないように「奉献」(奉仕の「奉」に献金の「献」)と呼んだほうがいいという人もいます。あるいは、「感謝と献身」としたほうがいいと言う人もいます。しかし、言葉の違いはあるにしろ、なぜ私どもは献金をささげるのか?しかも、なぜ礼拝の中でささげるのか?そのような一つ一つのことを信仰の問題としてちゃんと理解する必要があります。「お金がないと教会を運営することができないから」と言って、簡単に片づけるのではなくて、信仰をもって考え、そして、心から喜んでささげるようになるまで問い続け、御言葉から学ぶ姿勢というものが大切です。そして、献金をささげる姿勢というのが、そのまま私ども生き方に結びついていくからです。
今朝、共に耳を傾けたい御言葉はコリントの信徒への手紙二第9章全体です。伝道者パウロが、ギリシアにあるコリントいう町に宛てて書いた手紙です。先の第8章と本日の第9章に渡って、パウロは献金の勧めについて丁寧に語ります。1節に「聖なる者たち」とありますが、これはエルサレム教会のことを指しています。エルサレムの教会が今、困難の中にある。だから、コリントの教会の人たちに支えてほしいというのです。いや、既にこれまでも熱心に支えていまして、献金に対するコリント教会の熱心さは、アカイア州やマケドニア州にある教会にも影響を与えていたのです。5節では、「贈り物」とありますが、要するにこれは「献金」のことです。献金について、聖書的に信仰的に色んな言葉で表現することができるかもしれません。一つは1節にありますように、「奉仕」ということです。終わりのほう12節、13節においても、「奉仕の働き」「奉仕の業」というふうに「奉仕」という言葉が続きます。奉仕というのは、キリスト者の生き方がどういうものであるかを表す言葉です。キリストに救われた人たちはどのような人間に変わるのか。それは奉仕する人間、仕える人間になるということです。他の言葉では、「しもべ」と言うこともあります。私どもはキリストの僕であるからこそ、まことの主人であるキリストに仕えます。神に仕えるだけでなく、神が望まれるように隣人に、教会に仕える生き方をします。自分の思いが第一ではなく、主人であるイエス・キリストの思いを一番大切にして生きる。それがキリスト者の生き方です。奉仕に生きる者たちが共に教会に集い、教会を造り上げていくのです。
ですから、5節ではこう言われています。「そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。」贈り物としての献金をどのような信仰の心でささげたらよいのか。それは、「惜しまず差し出す」ということです。興味深いことに、「惜しまず差し出す」という言葉と「贈り物」という言葉は、元のギリシア語では同じ言葉で、「祝福」を意味する言葉です。最後の15節にも「贈り物」という言葉がありますが、これは5節の贈り物とはまったく違う言葉で、「(神が恵みとして与えてくださった)賜物」を意味します。献金というのは、神が私どもに与えてくださった祝福そのものです。その祝福を祝福として、この場合はエルサレムの教会にささげる。このように神の祝福が広がっていく、祝福から祝福へという動きがここにあります。ですから、「渋りながら」ささげないようにというのです。このことは、後の7節とも重なりますが、渋りながらというのは強制されてということです。ある翻訳では「貪欲の業としてではなく」と訳されています。貪欲の心には自分中心の思いが表れていまして、形として献金はしているものの、心のどこかで自分が得をすること、利益を得ることばかりを考えているということです。そこには、神様が与えてくださった祝福が広がりますようにという祈りの心、神様に心から感謝しようという思いは抜け落ちてしまっているのです。
そして、パウロは6節で具体的にこのような勧めをいたします。「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」ここには種を蒔く人の譬えが記されています。なぜ種を蒔くのかと言うと、多くの収穫を得たいからです。そこで貪欲の心が邪魔をすると、少ししか種を蒔かないことになり、当然、収穫も僅かです。ただ、この譬えは、多くの額をささげればささげるほど、何かいいことが起こるという話ではありません。「神様、これだけおささげしたのですから、この金額に見合った対価をいただきたい」と言って、神様と何か取引きする話ではないのです。そういうことを考えてしまうというのも、やはり、神様が望んでおられる献金の意図がよく分かっていない。分からないというよりも、そこでちゃんと自分の心の奥にある罪という問題を考えなければいけないと思います。
ですから、次の7節でも改めて献金の心、姿勢についてこのように語ります。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」「不承不承でもなく、強制されてでもなく」とありますが、要するに嫌々献金をしないというのです。もちろん、献金をささげて心が苦しくなること。この場合、心というよりも、具体的に「生活」といったほうがよいかもしれません。献金をささげた分、生活費は少なくなるわけですから、そこで苦しいという思いが生じるは当然だと思います。そのことを信仰的にどう受け止めるのかというのがとても大事なのですが、しかし、結局のところ7節の最後に記されていますように「喜んで与える(喜んで献金をささげる)」とことができているかということです。献金に限らず、奉仕しにしろ、信仰生活全体に言えることですが、「喜び」というものがなければ、いったい何のために神に従っているのかという話になりますし、神様が望んでおられることもまた私どもが喜びの存在として生きてほしいということです。そのために、独り子イエス・キリストまで惜しみなく、私どもにお与えくださったのです。だから、「不承不承でもなく、強制されてでもなく」と言うのです。
ところで、もう一つ献金ということを考える時に心に引っ掛かるのは、人の目が気になるということかもしれません。つまり、あの人はいくらぐらい献金をささげているのだろうか。全体と比べて、自分は恥ずかしくないだけの献金をささげているだろうか。あるいは、自分が多くの額を献金している時、優越感に浸ってしまうこともあるかもしれません。自分はいくらささげたらよいのかということについて悩むことはいいかもしれませんが、人と比べて自分はいくらすればいいかという悩みは余計な悩みだと思います。まだ思い悩みから解き放たれていないのです。福音書に貧しいやもめが、レプトン銅貨2枚をささげました。今の日本で言うと20円くらいの金額です。しかし、その様子をじっと見ておられた主イエスはおっしゃいました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(ルカによる福音書21章1〜4節)なぜ、「誰よりもたくさんささげた」とおっしゃってくださったのでしょうか。「生活費全部入れたから」とありますが、この後、彼女は一文無しになったというふうに理解する必要はありません。もちろん、彼女にとっては大きな額だったと思いますが、「生活費」というのは、「いのち」を意味する言葉です。主イエスは金額を見ておられたのではないのです。献金をささげる人の心をじっと見ておられました。いのち丸ごとささげるような献金の姿勢を主はご覧になって、喜ばれたのです。
ですから献金というのは、嫌々強制されてでもなく、人の目を気にしてするものでもありません。パウロが7節で「こうしようと心に決めたとおりにしなさい」とあるように、自分の意思でちゃんと決めることが大事です。もう少し丁寧に申しますと、自分一人でというよりも、神様と自分との関係で決めるということです。それは、日曜日の朝になって今日はいくら献金しようかとか、慌てて決めるようなものではありません。私どもはいつも神様との関わりの中にあります。ということは、いつも献金のことを考えていると言ってもいいのです。また、パウロはコリントの信徒への手紙一の第16章(2節)でもこのように言っています。「わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。」「手元に取って置きなさい」とあるように、あらかじめ献金の準備をすることです。お金だけでなく、ささげる心そのものを神様の前に整えるということでもあるでしょう。
神様の前に立つ時、私どもは自分の貧しさ、惨めさというものを覚えることもあるかもしれませんが、しかし、それだけではなくて、そういう私という人間を救うためにキリストを遣わしてくださったこと、救いに招き入れてくださったことを思い起こし、神様を賛美します。同じ献金について語っていた一つ前の第8章(その9節)に次のような御言葉があります。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」また、本日の第9章11節でも、「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり」とあります。私どもは様々な点で自分の貧しさというものを覚えるのですが、それが本当の自分の姿ではありません。私どもは豊かな者であり、富む者です。物質的にはあのやもめのように貧しかったとしても、神の前には豊かで富む者とされています。創造された時、神の前に豊かだった人間が、罪によって人間としての素晴らしさをすべて失ってしまいました。自分の力で取り戻そうとしても、泥沼の中に立っているようなもので、もがけばもがくほど深みにはまっていく。それが罪の悲惨です。しかし、そのような私どもを救い出すために神様は救いの手を差し伸べてくださいました。しかも、その救いの手というのは見えざる手というのではなく、イエス・キリストという私どもと同じ人間としてこの世界に本当に降りて来てくださったということです。そして、貧しさ・弱さの極みである十字架について死んでくださいました。私どもが神に呪われた者ではなく、祝福された者として生きるために、そして、神の前に豊かな人間として生きることができるために、主イエスは貧しく低くなり十字架についてくださいました。キリストが十字架によって与えてくださった豊かさや富というのは、自分を豊かにしてくれるだけではありません。豊かにされる、富む者とされるというのは、他の者に施すことができるほどに豊かな者とされているということです。あるいは、他の者を祝福することができるようにされている。他の者を心から愛することができるようにされている。そのように言い換えることもできるでありましょう。神様の救いの恵みというのは、私どもの想像を越えて大きいのです。自分だけ良ければいいというのではなく、救われたあなたをとおして、他のものを真実に生かすことができるほどに豊かなのだと聖書は語ります。
奉仕や献金の心もまたここに生まれるのです。キリストによって豊かな者、富む者とされている恵みに対して感謝をささげます。また神の恵みに応える生き方、献身のしるしとして、具体的にお金をささげます。そして、神様は献金をとおして、私たちをますます祝福してくださるお方です。8節にこのようにあります。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」たいへん美しい言葉が並べられていると言う印象を受けるかもしれません。「すべての点ですべてのものに十分」とか、「あらゆる善い業に満ち溢れるように」とか、「あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせる」というふうに。あまりにも誇張して言い過ぎているのではと思われるかもしれません。でも、パウロは神様がそれほどに恵みで満ちたお方であるということを心から確信していたのではないでしょうか。いつも神様からいただく祝福と賜物に感謝していたということでしょう。他にも例えば、6節にあったように刈り入れが豊かであるとか、惜しまず喜んで与える人を神は愛してくださるとあります。さらに13節を見ますと、献金という奉仕の業をとおして、エルサレム教会の人たちが、キリストの福音を従順に「公言」していること。公言というのは、「信仰を告白する」こと、「信仰を一つにする」ということです。そして、コリントの教会の人たちの献金をとおして、神をほめたたえているというというのです。また、献金をとおしてお互いの教会の間に主にある交わりが生まれ、場所は離れていても共に祈り合う群れが誕生します。ユダヤ人の集まりであるエルサレム教会と異邦人の集まりであるコリントの教会、この両者が一つになるというのは、当時教会が生まれたばかりの時代においては、大きな壁があったに違いないと思います。しかし、献金という奉仕の業をとおして、国や文化の違いがあっても、主にあって一つという恵みを見出すことができ、神をほめたたえることができたのです。このような豊かな祝福、そして実りが結果として与えられていく。それが献金をささげる恵みです。そして、もともとここで献金を意味する「贈り物」という言葉が祝福を意味する言葉であったことを忘れてはいけないと思います。
千里山教会をはじめ多くの各個教会の献金というのは、自分たちの教会を支えるためのものです。もちろん、神学校をはじめ大会・中会の様々な働きを覚えて、予算化し、ささげています。自分たちが集う教会を支えるにしろ、他の教会を支えるにしろ、神様は惜しみなく喜んでささげるならば、必ずそれに応えてくださり、私どもが想像した以上に豊かな祝福を注いてくださいます。「足りないからもっとささげましょう」という部分もあるのですけれども、それ以上に、神様の栄光がこの場所に、この世界に、そして遣わされている場所に広がることを信じ、願いつつ献金をささげます。ある牧師は、「私たちは献金をとおしても神様と対話することができるのだ」と言いました。面白い言葉だと思います。御言葉を聞きながら神様と対話する。あるいは、祈りをとおして神様と対話するというのはよく聞くのですけれども、「献金」をとおして神様と対話するというのは初めて聞くような言葉です。でも、よく考えてみると本当にそのとおりでありまして、本日の聖書にも記されているように、惜しみなく、豊かに、そして喜んでささげる者に、神は必ず応えてくださるのです。しかも私どもの想像を越えて応えてくださるのです。この世の常識のように、与えたものを少なくして、得るものを多くすれば、豊かになることができるという考えとはまったく違ったものがここにあります。神様が具体的にどう応えてくださるかまでは分かりませんで、そのことを含め、神様からの応答、祝福を喜びながら、また楽しみながら待つことができたらと思うのです。
ここまで献金のことをお話ししてきたのですが、他にも献金について教えている箇所は旧約聖書も含めたくさんあります。でも、このように御言葉から献金のお勧めをしても、やはりどこか気になるのでしょうか。「具体的にいくら献金したらいいのでしょうか。」「具体的な目安というものはありますか。」と聞かれることがよくあります。旧約聖書には例えば、収入の「十分の一」という数字が記されている箇所があるのですが、その数字がすべての献金の目安・基準になるわけではありません。私自身は、神様との関係の中で、「こうしようと心に決めた」ものをささげてください。そして、初めから献金を「手元に取って置く」ようにとちゃんと勧めるようにしています。
それでも、もう少し具体的にという場合は、金額を言うことはありませんが、「自分の心が少し痛む程度に。自分の心、あるいは、生活が少し苦しくなる程度に。」そのように勧めることがあります。心に痛みを覚え、生活が少し苦しくなるというのは、いわゆる7節で言われていたように、「不承不承」とか「強制」ということとはまったく違います。主イエスに従う生活は、必ず犠牲が伴います。主イエスが苦難の道を歩まれたように、私どももまたその一端を担って歩むのです。自分の十字架を背負って、愛の業、奉仕の業に励みます。しかし、その苦しいと思うところで、なぜ最後まで歩み抜くことができるのでしょうか。なぜ、そこでもキリストのものとされている自分を喜ぶことができるのでしょうか。それは、私どもが主のために隣人のために献げ仕えて生きる中で、あるいは、精一杯生きながらそこで苦しみを覚える中で、主イエス御自身が共にいてくださること。そして、その主イエスが私の苦しみを知っていてくださるばかりか、共に担っていてくださるその恵みを見出すことができるからです。だから、キリスト者の歩み、献身の歩みは、犠牲や苦しみというものが伴うのですけれども、同時に神の祝福を知るということでもあるのです。
この後、献金をささげますが、献金を入れた黒い袋をいつも聖餐卓の上に置いています。なぜ聖餐台の上に置くのでしょうか。袋を置くために丁度いい場所がないから、適当に聖餐卓に置いているということではありません。あまり説明されることは少ないと思いますが、このことにもちゃんと意味があるのです。月に一度の聖餐式の際、この聖餐卓の上にパンとぶどう酒を置きます。聖餐自体豊かな意味があるのですが、パンとぶどう酒が示しているように、ここにはキリストの十字架の上での犠牲があるということなのです。私どもの罪を贖うために十字架について死んでくださったその主イエスの体と血を表すパンとぶどう酒です。そのキリストが与えてくださる救いというものを心や魂においてはもちろんのこと、体全体で、つまり、全存在をもって感謝して味わいます。毎週ささげている献金を聖餐卓に置くというのは、キリストの救いの上に、キリストの犠牲の上に、今日の私があるということに感謝をささげるからです。そして、「主よ、あなたにすべてをおささげし、お委ねして従います」という献身の思いを、聖餐卓の上に献金を置くという見える形で表しているのです。週ごとに教会に集められ、礼拝をささげる中で、私どもは神様がイエス・キリストをとおして与えてくださった祝福をもう一度受け取り、新しい週の歩みを始めます。神の祝福に満たされ、その祝福を告げ、祝福を祈る者として、この一年も共に歩みを重ねていきます。惜しみなく喜んで与える者を、神は豊かに祝福してくださるのです。お祈りをいたします。
神様、地上にある見える教会を建て上げ、造り上げるために多くのものが必要です。お金も必要です。すべては神様のものであり、すべての必要を知っていてくださる神様がこの一年も私どもの必要を満たしくださることを信じています。それゆえに、私どもも神様のために喜んでささげる生き方を重ねていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。