2021年01月17日「主イエスこそ道、真理、命」
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主イエスこそ道、真理、命
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ヨハネによる福音書 14章1節~14節
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聖書の言葉
1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」ヨハネによる福音書 14章1節~14節
メッセージ
新しい一年が始まっています。新しさと共に、過去のしがらみからも全部解き放たれて、思い新たに歩んでいきたいと多くの人が願っていることでしょう。しかし、年が変わったからといって、すべてがリセットされ、問題がすべて解決されるというわけではないと思います。過去のものをずっと引きずりながら、時を刻まなければいけないことがあります。先行きが見えないまま、歩みを前に進めていかなければいけないこともあるのです。また、私どもは、一から十まで、最初から最後まですべて分らないと安心できないことがあります。少しでも分からないところ、見えないところがあるとたちまち私どもは不安になってしまいます。私どもは自分の歩み、自分の歩んでいる「道」は本当に正しいのだろうか。私どもの歩んでいる道はいったいどこに通じているのだろうか。自分が辿り着くゴールがまだはっきりと見えていない時、不安に陥ります。
「道」というのは、しばしば、人間の生き方そのものを表す言葉として用いられてきました。日本にも、例えば「茶道」や「華道」と呼ばれるものがありますが、それは単なるお稽古事の一つというよりも、お茶を極め、華を極める中で、その人の生き方や姿勢そのものを整えていく役割があると思います。また、一般的に私どもは「キリスト教」と呼ばれますが、本当は「キリスト」の後ろに「道」を付けて、「キリスト道」と言ったほうがよいという人もいます。数ある宗教の一つとしてキリスト教があるのではありません。あるいは、キリストの教えを学んで役に立つ部分は自分の生活に取り込もうというのでもないのです。キリスト道とあるように、キリストを「私の救い主」と信じ、キリストのためにすべてを献げ、従っていかなければ意味がないということなのです。
先程、共に聞きました御言葉は、ヨハネによる福音書第14章ですが、その6節で主イエスはこのようにおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」不思議なのは、主イエスがどこかの道を指差して、「この道を通って行けば、父なる神様のもとに行ける。救いに至ることができる。」とおっしゃったのではないということです。そうではなくて、「わたしこそが道なのだ」と言って、御自分の姿を明らかになさったということです。私どもは人生において様々な道を歩みます。ある時、この道を歩く必要はなくなったと言って、新しい道を歩むこともあります。この道を進むことに間違いはないと確信をして、どんなことがあっても諦めることなく、ひたすら前に進むこともあるでしょう。あるいは、どの道を進めばいいのか分からなくなり、彷徨ってしまうことも少なくないと思います。しかし、主イエスは私どもに「道」を示してくださいます。示してくださるというよりも、「わたしが道だ」とおっしゃいます。それゆえに、他のどこにもない主イエスだけが与えてくださる道です。道そのものである主イエスと共に歩む時、私どもは救いへと導かれていくのです。先行きが見えない不安に襲われることがあったとしても、それに押し潰されることなく歩み抜くことができます。
さて、ヨハネによる福音書ですが、本日の第14章から第16章までの長い箇所は、「告別説教」あるいは「遺言説教」と呼ばれる箇所です。十字架を前にした夜、主イエスは弟子たちと最後の食事をした時にお語りになった説教です。「遺言」あるいは「別れの言葉」というのは、普段の対話以上に私どもは真剣に耳を傾けるに違いないと思います。絶対に聞き逃してはいけない。しっかりと、遺言の言葉を心に刻み、大事にしなければいけないと思うものです。この時の弟子たちも同じでした。そして、遺言というのは、その先にその人との「別れ」というものが存在するということです。しかも、一度別れて、しばらく経ってからまた再会できるというのではなく、永遠の別れです。主イエスは十字架のことだけでなく、復活のことも告げておられましたから、永遠の別れということではないのですけれども、正直弟子たちにとっては、復活の主イエスを再びお会いできるということがすっぽりと抜け落ちていたようです。絶対に主イエスの言葉を心に刻まなければいけないという思いと同時に、主イエスとの別れによってもたらされる不安や恐れというものがありました。これまでは主イエスの後ろに従い、主の背中さえ見ていれば、それだけで安心できるようなところがあったのです。しかし、主イエスが十字架にかけられ死んでしまう。自分たちの目の前から消えてしまう。これから、しっかりと信仰の道を歩んでいくことができるだろうか。神に敵対する者たちが多い中で、信仰の戦いを戦い抜くことができるだろうかという思いがありました。自信を持つことができなかったです。
このヨハネによる福音書が書かれたのは、紀元1世紀頃だと言われます。迫害も厳しく、殉教者も多く出ていた時代です。この時、最後の晩餐の席にいた弟子たちだけでなく、誕生したばかりの教会の人たちも恐れに囚われていました。あれから2千年経った今も同じ問題があると言えるでしょう。恐れや不安から完全に解き放たれているのか。戦うべき信仰の戦いをし、主に従い抜くことができているのか。そのように問われると、いつも自信をもって答えることができない自分がいることに気付かされます。私どももまた主イエスのお姿が見えなくなったり、まるで主イエスがどこか遠い所に行ってしまわれたのではないかと疑ってしまう弱さや罪に囚われることがあるのです。
しかし、主イエスはそのような私どものことを知っていてくださるのです。だからこうおっしゃいました。1節です。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」「心を騒がせないように」にと主はおっしゃいます。心が騒ぐことのないようにするために、どうしたらいいのでしょう。それは神を信じること、そして主イエスを信じることです。恐れを生み出すものに目を向けるのではなく、神に主イエスに目を向けること、信じること。ここに平安もまた生まれるのです。
ところで、「心を騒がす」という言葉ですが、実はヨハネによる福音書を見ますと、主イエス御自身が心騒がせておられるそういう場面がいくつかございます。一つは第11章に記されています。この箇所は、ラザロという病気で死んだ男を主イエスが復活させる場面です。その33節にこのようにあります。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して…。」「心に憤りを覚え、興奮して」とありますが、この「興奮する」というのが、「心を騒がす」という言葉と同じ言葉です。主が憤られたのは、ラザロのいのちを呑み込んだ「死」の力です。死という力を前にして、為す術はありません。その現実に主は激しい怒りを覚えます。落ち着いてなどいられないのです。そして、死に対して怒りと悲しみを覚えられた主は涙を流されるのです。しかし、主イエスは立ち上がられるのです。墓に眠っているラザロに向かって、大声で「ラザロ、出て来なさい」と呼び掛けます。いのちを呼び起こす声です。主イエスだけが死という現実に向かって、呼びかけることができます。そして、主のいのちの声は、空しく跳ね返ってくることなく、死んだ者に届き、復活させることがおできになるのです。
もう一つは第12章27節です。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」主イエスはなぜここで心騒いでおられるのでしょうか。それは「十字架の時」が近づいているからです。十字架の時、それはもちろん救いが成就、神の栄光があらわれる時でもありますが、同時に闇が一番深まる時でもあるでしょう。だから、主イエスは十字架を真っ直ぐに見つめつつ、心を騒がせておられました。このように、主イエスは死の力、罪や悪といった闇の力を前にして、心騒がせておられます。それは、ある意味、私ども以上に心騒がせておられるのだと思うのです。闇の力というものが如何に恐ろしいものであるのか。そのことを、私どもが抱くよりももっと深いところで知っておられるからです。そして、主イエスは私どもも経験する「心騒ぐこと」の中に立ちながら、そこで立ちすくむのではなく、その原因となる闇の力と戦ってくださるのです。そして、勝利してくださったのです。闇に打ち勝ってくださる主イエスを、神を私どもは信じて生きる時、心騒ぐことなく、平安に生きられることを約束してくださるのです。
そして、私どもが心騒がすことなく、安心して生きることができるために、主イエスがしてくださることがあります。もちろん十字架について死んでくださるというのもそうなのですが、本日の箇所では別の言葉で「救い」というものが語られていきます。そのことが2節、3節に記されています。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」この御言葉も6節と並んでよく知られている御言葉だと思います。特に、葬儀の時、必ずと言っていいほどよく読まれます。愛する者を失い、悲しみの中にある者たちを慰め続けてきた御言葉です。愛するあの人は死んでどこに行ってしまったのだろうか。既にキリスト者の方であるならば、そのことで色々と悩む必要もないと思われるかもしれません。死んだら、「天国」に行くに決まっていると誰もが考えます。しかし、「天国」という言葉よりももっと具体的な言葉をもって、主イエスが教えてくださっていることがあるのです。「わたしはあなたがたのために場所を用意しに行く。なければ、場所を用意しに行き、戻って来てあなたを迎える。わたしのいるところにあなたがたもいるのだ。」召された者は、漠然とした所を彷徨っているのではなく、主イエスが用意してくださった場所に行くことができます。そして、死んでから一人でどこかに行ってしまうのではなく、そこには復活の主・いのちの源である主が共にいてくださいます。地上に残された者にとっては、愛する者を失ったという悲しみはなお残り続けるかもしれません。でも、主イエスがその人と共にいてくださいます。だから、死んでも生きる者とされるのです。そこに、神にしか与えることのできない真実の力強い慰めがあるのです。
このように、主イエスは私どものために「住む所」や「場所」というものを用意してくださるお方です。そこに、「神の救いとは何か」ということがよく表れていると思います。つまり、救いとは、私どもが自分の本当の居場所というものを見出すということではないでしょうか。大きい家に住むとか、偉い地位に就くとかそういうことではなくて、私の魂が安心して憩うことができる場所を見出すということです。たとえ自分の心が狭まり、窮屈な思いになろうとも、たとえ、自分の存在がこの地上から消えてなくなろうとしても、私が私として在ることができる。しかも、そこに居る自分をいつも喜ぶことができる、そのような場所があれば、どれだけ私どもは心安らぐことでしょうか。しかし、人は自分の力で心安らぐ場所をつくることができないのです。つくることができたとしても、地上に限られた話でしょう。死を前にした時には、あるいは、神様の前に立つ時には何も意味をもたないということです。だから、父なる神様は、御子イエス・キリストをお遣わしくださいました。私どもが復活のいのちに生きることができるように、汚れた私たちが主の十字架の贖いによって救われ、聖められて、いつでも神様の前に立ち、神様と共に生きることができるように永遠のいのちを与えてくださいました。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行く。」主はそのように約束してくださいました。そして、十字架の道を真っ直ぐに歩んでくださいました。「場所を用意しに行く」というのは、ただ場所だけを用意して、「あとは自分たちの力で頑張って入ってくれ」という話ではありません。「たくさんの人が入れるような大きなマンションを作ってあげたから、あとは家賃を用意して入れるようにしなさい」というのではないのです。場所を用意するというのは、その場所に入ることができる人間そのものをつくるということでもあるのです。主イエスが十字架に向かわれたのは、私どもの居場所をつくると同時に、私どもを神と共に生きる人間、主イエスと共に生きる人間につくりかえるためなのです。
また、主はこのようにもおっしゃいました。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」私どもを迎え入れ、主が用意してくださった場所に入ることができるのは、主が「戻って来た(時)」です。戻って来た時というのは、色んな理解が可能かもしれませんが、何よりも終わりの日に、主が再びこの世界に来られる「再臨」の時を意味すると教会は理解してきました。しかし、それまでの間、私どもは主イエスが用意してくださった場所に居ることはゆるされないのでしょうか。あくまでも、主が用意してくださった場所に入ることができるのは、将来の話なのでしょうか。もちろん、そんなふうに狭く考える必要はありません。伝道者パウロはこのように言っています。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」テサロニケの信徒への手紙一第5章10節の御言葉です。主イエスは私たちのために十字架で死んでくださった。それは、眠っている時、つまり、死んだ時だけでなく、この地上を歩んでいる時も主と共に生きるためです。主と共に生きているというのは、主が私どものことをもう既に迎えに来てくださったということです。だから、そこに私どもの安らぐ場所があるということです。そして、まさに死のうとしている時も、復活の主は私どもの傍に立ち、天に迎え入れてくださるのです。「わたしと共に終わりの日を待ち望もう!」そう言って、死の眠りについている時も主イエスと共に復活の日を待ち望むのです。
さて、この主イエスの言葉に真剣に耳を傾けていた弟子がいました。それがトマスという弟子です。しかし、トマスは主がおっしゃることがよく分からなかったようです。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(5節)主よ、私たちの場所を用意するための道を行くとおっしゃるけれども、主よ、あなたはどこに行かれるのか、そもそも、その道というのはどこにあるのでしょうか?トマスは尋ねます。それに対して、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とお答えになったのです。どこに行くとか、どこにあるのかということではなくて、主は「わたしは道なのだ」とおっしゃいました。その後に続けて、「わたしは『真理』であり、『命』である」という言葉が続きます。しかし、あくまでもここで中心になっているのは最初に言われている「道」ということです。父なる神様のもとに通じる道であるからこそ、同時に主イエスは真理であり、命であるということです。父なる神様がお示しになる愛の真理、神様がもたらすいのちそのものを御子である主イエスが弟子たちに、私どもに示してくださるのです。ある聖書学者が分かりやすい言葉でこのように言っています。「私たちは誰かに『あそこを右に、あそこを左に』といって道順を教えてもらったとしても、それで安心できるだろうか。心が騒ぐのではないだろうか。しかし、もし道を教えてくれる人が、『私についていらっしゃい。私も一緒に行ってあげるから』と言ってくれれば、安心できるに違いない。主イエスは、「こう行って、ああ行って」というふうに道順を教えてくれるわけではないが、『わたしは道であるから、わたしを信じなさい』とおっしゃってくださったのだ。」その人は言うのです。
初めに少し申しましたように、私どももまた自分が歩む道のすべてを見通せてないとなかなか安心できないところがあります。もちろん、主イエスの救いにあずかるものは、将来においても確かな希望を与えられているはずです。神を信じる前と後とでは、見える光景がまったく違うのだと思います。あるいは、同じものを見ていても見え方がまったく違ってくるのです。それが神が与えてくださる信仰のまなざしです。このことを疑う人はいないでしょう。しかし、それでもこの時の弟子たちのように、「心騒ぐ」という経験をいたします。心騒ぐ中で、見るべきものをしっかりと見つめることができなくなることがあります。「どこへ行ったらいいのか」「どこに道はあるのか」と言いながら、何の解決もできないまま恐れと不安の中をずっと過ごさなければいけません。しかし、信ずべきお方、まっすぐ見つめるべきお方は、「わたしは道である」とおっしゃる主イエスだけです。この主イエスのもとにとどまるということです。ここにいれば、他の場所に行く必要もないほどに大丈夫だと言える場所、それは主イエスのもとにいるということなのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
この時のトマスにしても、8節に出てきますフィリポにしても、主イエスのおっしゃることがよく分かっていないように思います。だから、トマスもフィリポも「愚かな問い」「愚かな願い」をここで主イエスにしていると批判する人は多いのです。確かに、愚かであり、鈍感であると言えるかもしれません。しかし、同時にこの愚かさ、鈍さというものは今日信仰に生きる私どもキリスト者の問題でもあると思います。そして、主イエス御自身はトマスやフィリポに対して呆れている部分はあるかもしれませんが、決して、「愚かな者よ」と言って、切り捨てているわけではないということです。むしろ、弟子たちの愚かさや弱さというものが露呈してしまうところで、「わたしは道であり、真理であり、命である。…」という後のキリスト者たちにとっても、忘れることのできない言葉をもって答えてくださいました。
7節以降は丁寧にお話しする時間はありませんし、読んでいただくだけで主イエスがおっしゃろうとすることは分かっていただけるかと思います。「フィリポよ、あなたはわたしと一緒にいながら、何もよく分かっていないね。」とおっしゃりながら、御自分が父なる神様の御業に生きておられることを語りになります。このわたしのことを信じるようにと招かれるのです。そして、不思議なのは12節でこうおっしゃっていることです。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」主イエスを信じる者は、主イエスが行う業を行う。これは分かっていただけるかと思います。私たちが、神のような存在になるわけではありませんが、教会もキリストたち者も好き勝手なことをしているのではなく、主イエスから委ねられた働きをしているからです。そういう意味で、私どもも主イエスが行う業を行なっているのです。よくわからないのは、次の「(主イエスがなさった業よりも)もっと大きな業」とは何だろうか?ということです。主イエス以上の働きを、私たちはすることができるのだろうかと不思議に思ってしまいます。この文章だとそう読めてしまいますが、これは私たちが主イエスを超えるとかそういう話ではないのです。そうではなくて、私たちをとおして、キリストの福音が広がっていくということです。主イエスが地上におられた時代よりも、2021年の今の方が福音も教会も世界中に広がっています。世界中に大きな影響を与えています。2千年前、教会が誕生した時には想像もしてなかったことでしょう。でも、「わたしを信じる者はもっと大きな業を行う」という主の言葉は、まさにそのとおりになりました。そして、この主イエスの働きを私どももこれから担い続けるのです。
心騒ぐことが多く、愚かで、理解の鈍い私どもであるかもしれません。しかし、主イエスは「わたしは道である」とおっしゃってくださり、「わたしよりももっと大きな業を行う」と励ましてくださいます。そして、私どもにも「住むところがある」とおっしゃってくださいます。もう既に主イエスによって住む場所が用意されているのです。自分で努力して、道を極めて救いに至るのではなく、主イエスがこの私のために場所を用意してくださいました。それは、私どもよりも先に神様が私のことを選んでくださったということではないでしょうか
。私が神を捕らえるよりも先に、神の愛が私どもを捕らえていてくださるということでしょう。そして、この神の愛が満ちる場所がこの地上にもあります。主が共にいてくださるからです。
最後に、主イエスはこのようにおっしゃってくださいました。13節、14節「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 主イエス御自身が父なる神様に通じる「道」であるからこそ、私どもは祈ることができます。そして、祈りは御心にかなった仕方で必ず聞かれるのです。祈ることなしに、主イエスの大きな業に仕えることはできません。祈ることをとおして、主が共にいてくださることを深く知り、平安に導かれます。今年も様々な道を歩むことになると思いますが、「わたしは道である」とおっしゃってくださる主イエスを信じ、一歩一歩確かな歩みを重ねていきましょう。お祈りをいたします。
「わたしは道である」とはっきり告げてくださる主を信じることができますように。主の十字架によって、神と共に生きる人間に新たにつくり変えてくださいましたから、どうか、自分を見失うことなく、絶えず主にある希望の中に生きる者とさせてください。祈りつつ、この年も神様の働きにお仕えしていくことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。