2021年01月10日「思い悩まない秘訣」

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思い悩まない秘訣

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章25節~34節

音声ファイル

聖書の言葉

25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。31だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」マタイによる福音書 6章25節~34節

メッセージ

 主イエスがここで何度も繰り返される言葉は、「思い悩むな」ということです。「そんなことで、くよくよするな。あなたの救い主であるわたしがいつも一緒にいるではないか!」主はそのように優しく語り掛けておられるのでしょうか。誰もが思い悩む経験をしたことがありますし、今まさに思い悩みの只中にあるという人もおられることでしょう。人が生きていく時、誰もが思い悩まずにはいられません。それだけに、主イエスの言葉が身に沁みるところがあると思います。

 しかし、主イエスはここで「思い悩まなくていいんだよ。大丈夫だよ。」と励ましておられるというのではなく、もっと激しい語調で「思い悩むな!」とおっしゃっておられるように思います。「これからはもう思い悩むことを禁止する!」というのです。思い悩むこと自体を禁じるということ、これはたいへん厳しいことです。もちろん、これにはちゃんとした理由がありまして、悩みがあること自体を悪く言っておられるわけではないということです。「思い悩むな」と訳されている言葉は、以前の訳では「思い煩うな」と訳されていました。どちらかと言うと、「思い煩うな」とした方が意味を正しく理解できるかと思います。

 「煩う」というのは、「病気になる」ということです。つまり、健康でいられなくなるということです。体のことを考えてみても、ちょっとした風邪を引く。転んで擦りむいてしまう。たったそれだけで、気分が一気に落ち込んでしまうことがあります。小さな病やケガであれば治療してすぐに治ることも多いのですが、場合によっては、気付いたらもう手遅れだった。あるいは、毎日のように薬を飲みながら治療を続けなければいけない体になっていた。そういう自分を受け入れてはいるものの、どこか引っ掛かる思いがあるものです。病むということは辛いことです。なぜ、主イエスが「思い悩むな!」と命じておられるのでしょうか。それは、あなたがたが本来、天の父なる神様から与えられたいのちを損なうことになるからだということです。心と体において、病気をするかしないかということではありません。たとえ、病を煩っても、そこでなお健やかに生きる道があるのです。でも、思い悩むことによって、そのいのちの本当の価値を見失ってしまいます。だから、「思い悩むな!」と主は繰り返し語られます。私どもはこの地上を生きる限り、思い悩み自体がなくなるわけではないでしょう。しかし、神様は私どもが思い煩い続けるだけで終わるようないのちをお与えになったのではありません。思い煩うだけの人生は空しいだけです。私の人生はそんなものではない。もっと尊いものだと誰もが信じたいのだと思います。主イエスは「思い悩むな!」と私どもに呼び掛けておられます。それは、私どもが神様から与えられたいのちを健やかに生きるためのものです。たとえ、試練を経験しても、病と長く闘うことがあったとしても、そして、死を前にしても、思い悩むということに振り回されることなく、健やかないのちの道を歩むことができるために、主は私どもに命じられます。思い悩むな!

 さて、本日の箇所の御言葉は、第5章から始まる「山上の説教」と呼ばれる、主イエスが弟子たちにお語りになった説教の中の一つです。第6章25節以下の内容に入る前に、すぐ前の24節に一度、目を向けたいと思います。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」信仰とは、神様を「私の主人」として受け入れ、従っていくことです。神様以外の主人は存在しません。例えば、ここで言われているように「富(あるいはお金)」が私の主人になることはあり得ません。しかし、富、お金というのは私どもの生活に密接に関わっています。教会を運営していく上でも極めて重要な事柄です。だから、神か富かと問われると正直迷うこともあるのではないでしょうか。「神様が一番大事なのは分かるけれども、お金がないと生きていくことなどできない」という思い悩みが、ここで既に生じているとも言えるのです。もちろん、主イエスは、「お金を少しでも持つことは罪だ」などとおっしゃっておられるのではないのです。お金は大事ですし、賢く管理することが求められます。でも、主イエスはおっしゃいます。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」それは、神をあなたのまことの主人として従って生きる時、お金のことも含め、すべての必要は備えられるという約束の言葉でもあります。

 そのことを受けて、本日の25節「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」という主の言葉が続きます。ここで言われていることは、食べること、飲むこと、そして着ることです。生きるとは何かということについて言い表す言葉はいくつもありますが、その一つに、「生きることは食べていくこと」と言うことがあります。食べていくだけの稼ぎを得て、はじめて一人前になったと見做されることもあります。働く目的も、「食べていくために働く」と言う人は多いのです。また、家庭生活を営む時、例えば、主婦の方は今日の朝ご飯は何にしようか。子どものお弁当は何にしようか。晩ご飯は何にしようかといつも真剣に考えるものです。毎日同じも出すわけにはいきませんから、食事の準備のことを考えているだけで、すぐに夕方になってしまうということは珍しくないことだと思います。

 また、衣服は自分の身に着けるものです。服を着る目的も様々ですが、その根本には裸を隠したいという思いがあるのだと思います。最初に造られた人間アダムとエバがそうでした。自分が犯した罪によって目が開けた時、これまで何とも思っていなかった裸の姿が恥ずかしいと思ったのです。それで、葉っぱで身を覆ったというのです。そのように、衣服をまとうことによって、恥ずかしい部分を隠し、積極的に表現すれば自分を美しく装うことができるものにもなります。いつも豪華な服を着ているわけではありませんが、人はその人なりにちゃんと尊厳を持っていて、それを保つためにも、それなりの服を身に着けたいと思うものです。「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるように、最低限の身なりを整えて、自分だけでなく、他人の前でも自分らしく綺麗にありたいと願うものです。そして、食べる物も着る物もお金があれば、ある程度は手に入れることができます。そして、人は自分のいのちをきていくことができると考えます。

 主イエスは、先程の25節で「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」とおっしゃいました。食べ物より命が大事!衣服より体が大事!これは別に主イエスに言われなくても、よく分かるような話かもしれません。では、なぜ誰でも知っているような当たり前のことを主はおっしゃったのでしょうか。主イエスはここで問うておられると思うのです。「あなたが自分のいのちを生きるとはどういうことか?」「何をもってあなたは自分のいのちを生きていると言えるのか!」「一生食べていくことができたら、あなたはもう何も問題なく生きていくことができるのか!」「食べるにも、着るにも困らなくなれば、あなたのいのちは完全に満たされるのか!」主イエスはおっしゃいます。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」そして、天の父なる神様から与えられたいのちを健やかに生き抜くことができるために、思い煩うことから解放されるために、主は私どもの目線を自然の世界に、ここでは空の鳥と野の花に向けさせるのです。「ここに生きる上で大切なことが見えるだろう」とおっしゃるのです。

 26節にこのようにあります。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」また28〜30節ではこのように言われています。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」主イエスは、私どもに「よく見なさい」「注意して見なさい」と呼び掛けておられます。ただボッーと眺めるだけでなく、注意深く、観察するように空の鳥、野の花を見なさいというのです。普段は、私もそうですが余程関心がない限り、鳥や花を注意深く見ようとはしません。空を自由に飛んでいる鳥や美しく咲いている花を見て、綺麗だなぁと心動かされることがあっても、まさかここに私たち人間が生きる上で大切なメッセージが込められていることに気付く人が、いったいどれだけいるでしょうか。まして、空の鳥と野の花をじっと見つめていれば、自分たちの思い悩みが吹き飛ぶなどとは誰も考えないと思います。

 改めて、主イエスから「空の鳥をよく見なさい」と命じられる時、私どもは鳥の何に気付けばよいのでしょうか。主イエスから問われる時、いつも身構えてしまう私どもですが、ここではそれほど難しい話をされているわけではないと思います。主は「鳥」という動物が如何に優れた動物であるのかということについて、専門家のように丁寧に語られたわけでもないのです。言い方はわるいですが、鳥はどこにでもいる動物の一つです。そして、主イエス御自身おっしゃっているように、「(空の鳥は、)種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。」のです。そのような空の鳥のどこに大切な信仰のメッセージが込められているのでしょうか。主イエスのおっしゃるとおり、鳥は人間のように種を蒔いて、収穫して、それを倉に納めることなどしません。でも、鳥は生きていくことができます。なぜでしょうか。それは天の父なる神様が鳥を養ってくださるからです。自分の力で食物を生み出す力がなくても、神が鳥の食べ物や巣を作る材料や場所など、すべての必要を与え、養ってくださるからです。

 続く「野の花」も同じことが言われています。「働きもせず、紡ぎもしない」のです。「野の花」という言葉の響きから、私どもは美しい花を想像します。大きな花、有名な花とまで言わなくても、外を歩く者の目を惹き付ける美しさがあるに違いないと。しかし、ここで言われている花というのは、どちらかと言うと「雑草」に近い花です。花屋に並んでいる花でもないし、家に飾っておくような花でもありません。だから、30節で「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草」と主はおっしゃるのです。誰の目にも目立たない花、雑草としか思われず、根こそぎ抜き取られて、明日には炉に投げ込まれる儚いいのちです。しかし、天の父なる神様はこの一つ一つの野の花をも養い、美しく装ってくださいます。その美しさに、かつてイスラエルの王であったソロモンでさえかなわないのだと言います。富という富をすべて自分のもとに集め、華やかさの極みに生きたのがソロモン王でした。しかし、誰も目に留めてくれないような野の花のほうが遥かに美しいというのです。この世にいる誰もが気付かない美しさ、自分でも気付かないいのちの美しさというものを、神は見出しておられます。いのちを与え、いのちを養っているのは父なる神であられるからです。そのいのちの祝福を受けて、精一杯生きているからです。

 野の花は自分が生きる場所を選ぶことができません。種が落ちたら、そこがどんな場所であろうとそこで生きていかなければいけないのです。石だらけのところでも、崖のようなところでも、陽が十分に当たらないような場所であっても、蒔かれた場所で根を降ろします。やがて芽を出し、大きくなり、ついに、綺麗な花を咲かせます。ただ神様からいただいた恵みを糧にして、そこで精一杯生き抜くこと。「ここに、あなたがたのいのちの美しさがあるのだ」と主は告げていてくださいます。空の鳥や野の花でさえ、天の父はこのようにいのちを養ってくださいます。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と、今度は私どもに向けてお語りになられます。空の鳥や野の花でさえ天の父は顧みてくださるのですから、私ども人間も同じように、いやそれ以上に顧みてくださるのだと、主はおっしゃいます。

 しかし、私どもはそれでも正直思うところがあるかもしれません。主イエスがおっしゃることは分かる。神様が私たちの必要を備えてくださるということもよく分かる。でも、それだけではどうも納得できない。依然として、食べること、飲むこと、着ることについて、つまり自分のいのちについての思い悩みは解決できないままでいる。主イエスがおっしゃるように、思い悩んだからといって、寿命を延ばすことができることができないということも分かっている。しかし、それでも目の前の問題に心が支配されてしまっている自分がまだいる。そのことに気付かされることがあるのです。

 そういう私どものことを主イエスも知っておられるのでしょう。続けてこのようにおっしゃるのです。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(30〜32節)私どもが自分のいのちのことで、何を食べようか、何を着ようかと思い悩むこと。この問題はいったい何によって解決されるのでしょうか。食べて、着るに足るだけのお金があれば、もう思い悩みの問題はすべて解決することができるのでしょうか。主イエスは、はっきりと「そうではない」とおっしゃいます。今日の箇所でずっと言われている「命」というのは、私どもが考える命のことではありません。生まれてから寿命が尽きるまでの命のことを指しているのはないのです。「命」というのは、別の言葉で言うと「魂」とか「全存在」と言い換えることができるでしょう。神があなたがたに与えたいのちというのは、生まれて死んでいくだけの儚いいのちではありません。あるいは、十分に食べていくことができるかどうか、そこに人間のいのちの価値があるのではないのです。

 もし、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、まだ思い悩んでいるのならば、それはあなたがたの「信仰が薄い」からだと、主イエスははっきりおっしゃいます。つまり、思い悩みの問題は、お金の問題ではないということです。あるいは、能力や才能の問題でもないのです。思い悩みの問題は、信仰の問題です。何を食べようか、何を着ようかと思い悩むことは、まだ神を信じていない「異邦人」がすることだとおっしゃいます。あなたがたは神がどのようなお方かを知っているのだから、もう思い悩む生き方からは解放されているはずだ。それなのになぜ思い悩むか。信仰の薄い者たちよ。「信仰の薄い者たちよ!」という主イエスの厳しい言葉ですが、この「薄い」というのは「小さい」という意味です。決して、「あなたがたには信仰がない!」と裁いておられるのではありません。薄く、小さいのですけれども、神が与えてくださった信仰は確かに存在するのです。だから、主イエスの願いは、神を信じる者として歩み続けてほしい。そのことに尽きると言ってもよいのです。そこに思い悩みから解き放たれる健やかな歩みが始まるのです。

 そして、改めて神を信じるということはどういうことなのか。主イエスはこのようにおっしゃいます。33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「神の国」とは「神の支配」のことです。「神の義」とは「神の正しさ」とも言えますし、「神の御心」と言うこともできます。すべてを横に置いて、まず求めるべきもの、人が何よりも先に求めなければいかにもの、それが神の国と神の義です。神様の愛の御支配の中にいつも私を置いてください、神様の御心が行われますようにと願います。「山上の説教」の中で教えてくださった祈りに関する教えの中でも、主は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(第6章8節)と言って、その後、私どもがいつも祈っている「主の祈り」を教えてくださいました。「神の国」と「神の義」を求めることは、主の祈りにおいて「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」(同10節)という祈りと重なります。まず、神様のことについて祈り、その後に、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(同11節)という生活の必要を求める祈りが続くのです。祈りと言えば、つい、自分のことを祈るということに心が傾きがちですが、まず、神のことを祈る。そこに、思い悩みから解き放たれる道も拓かれるのです。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」聖書の中でもよく知られている御言葉ですが、この御言葉に生きようとする時、信仰の戦いというものがどうして生じるのだと思います。神の国と神の義を求めさえすれば、すべてが上手く行くようになる。だから、苦労して働く必要もないし、何一つ思い悩まなくてもよくなるというような、都合のいい話をしているのではありません。私どもは、神様のことを第一に考えながらも、やっぱり自分のことに心奪われてしまうことがあります。それは、私どもの信仰の弱さと言えばそうですし、罪の問題と言えばそのとおりかもしれません。

 しかし、神の国と神の義を第一に求めて生きながらも、思い悩まざる得ない現実と向き合わなければいけないことがたくさんあります。神を信じても無駄だと囁く声と戦うようにして、「御国を来らせたまえ」「御心を行ってください」と祈り続けます。新約聖書の他の箇所を見ますと、例えば、使徒パウロはこのように言っています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピの信徒への手紙4章6節)主の弟子であったペトロも言います。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(ペトロの手紙一5章7節)教会の中に、キリスト者の間でなお思い悩み、思い煩いの問題がありました。それらのことを、神に打ち明け、神に投げつけるような思いで人々は祈り続けたのです。主よ、あなたの御支配が明らかになりますように。主よ、あなたの正しさがこの地上でいつも貫かれますように…。

 また、思い悩んで、煩ってしまうことはよくないことですが、思い悩みそのこと自体がわるいことではないでしょう。問題は、何よりもまず神の国と神の義を求め、神様にすべてをお委ねし、その恵みの中で、与えられたいのちを精一杯生きているかどうかです。「思い悩む」というのは、ほとんどの場合否定的な意味で用いられますが、それだけではないと思います。兄弟姉妹を愛するがゆえに、相手のことが「心配」になることがあります。兄弟姉妹が不安に支配されることがないように、「配慮」しなければいけないこともあります。例えば、使徒パウロがなぜあれほどの手紙を教会に向けて書いたのか。一つの言い方をすれば、兄弟姉妹のことが心配だったからです。彼らを気遣ったからです。彼らのことで思い悩んだからです。だから、手紙を書き、キリストの福音をもう一度そこで伝えたのです。私どもも考えてみれば、自分の悩みもそうですけれども、家族や友人、教会員など自分以外の相手のことで、日々思い悩んでいるということがあると思います。その人たちとの関係が上手く行っていなくてということもあるかもしれませんが、たとえ良好な関係であっても、愛するがゆえに相手のことが心配になるということはよくあることです。神の国と神の義を求めるのは、自分のためだけではありません。愛する家族や仲間をも救う生き方にもつながるのです。

 このように祈りつつ、信仰の戦いに生きる人々のことを、主イエスはいつも心に留めていてくださいます。だから、最後にこうおっしゃいました。34節です。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」私どもが思い煩ってしまうのは、明日も明後日もその次の日も、同じような悩みがなくなることはないと思っているからです。つまり、悩みが限りなく続くのです。終わりが見えないのです。だから苦しいのです。そして、私どもが「今日」負っている苦労というものは、明日のことを考える余裕がないほどにたいへんなものであることを、主は知っていてくださいます。だから、明日のことは思い悩むな!今日、一日の苦労を一所懸命背負えば、それで十分ではないか!そのように、苦労しながらも、天の父なる神様を真っ直ぐに見つめて歩んでいるあなたのいのちは本当に美しい!と、主はおっしゃってくださるのです。

 新しい一年の歩みが始まっています。31日には定期会員総会が行われます。そのための準備をもう去年の12月くらいから始めていました。教会の歩みも、私ども一人一人の歩みも、先のことを見通して考えなければ、しっかりと前に進むことができません。明日、明後日の計画があるからこそ、今日という日をちゃんと生きるとも言えるのです。今年一年の教会活動のこと、年間行事や予算、教会の子どもたちの教育や伝道のことなど、不安がまったくないと言えば嘘になります。しかし、先のことなんか悩んでいたって仕方がないのだからと言うのではなく、できる限り、一年初めに計画を立てることに努めます。すべては神様が与えてくださるのだからと言って、何もしないというのではなくて、共に仕え合いながら、キリストの教会を建て上げていきます。その上で、「今日」という一日を、神様の前で精一杯生きたいと願います。そういう私どものことを褒めてくださり、「美しい」とおっしゃってくださる神様の言葉に生かされる一年でありたいのです。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」最後に繰り返しになりますが、「何よりもまず」と主イエスはおっしゃいました。「あれをしてから、これをしてから、神様あなたを信じます。」「この問題が解決してから、神様に従います」というのではないのです。自分の中で条件を設けて、その基準に達したら、信じますというのではないのです。そのような姿勢では、結局いつまでも神様を信じて生きようとはしないのではないでしょうか。私どもには、「何よりもまず」為すべきことがあります。そこに私どもの必要が神様から与えられます。思い悩みつつも、神様が与えてくださったいのちを精一杯、美しく生きることができる祝福が与えられるのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」この主イエスの言葉を聞き逃してはいけないのです。お祈りをいたします。

 天の父なる神様、あなたから与えられたいのちを喜んで健やかに生きることができますように。思い煩うことの多い私どもですが、私どものすべてを知り、すべての必要を備えてくださる神様をいつも生活の中心に迎え入れることができるようにしてください。新しい一年の必要をも、主が満たしてくださることを信じ、私どももまた教会において、遣わされた場所においてなすべきことをなしながら歩んでいくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。