2021年01月03日「主はわたしの羊飼い」
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主はわたしの羊飼い
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詩編 23編1節~6節
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聖書の言葉
1【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。4死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。詩編 23編1節~6節
メッセージ
「主は羊飼い」という言葉で歌い出しますこの詩編第23編は、多くのキリスト者たちに愛されている御言葉です。愛唱聖句としてあげる人も多いことでありましょう。それほど長い御言葉ではありません。「主の祈り」くらいの長さでしょうか。覚えようと思えば、すぐにでも覚えることができる長さです。いつも決まった時間にこの詩編を暗唱してみる。あるいは、苦難を経験する時に、祈るような思いでこの詩編を口にしてみる。それだけで、私どもの心はもう一度息を吹き返すことでありましょう。だからこそ、昔から世界中のキリスト者の間で、愛されてきたのだと思います。
詩編第23編はわずか6節だけの御言葉ですが、内容は実に豊かなものです。聖書の始めから最後まですべてのメッセージが凝縮されているような御言葉と言っても過言ではありません。しかし、ここで語られていることは、実にシンプルなことでありまして、私どもが信じる神がどのようなお方であるのか、そのことに尽きると言ってもよいのです。神はどのようなお方か?そのことをイメージ豊かな言葉で歌い上げています。そして、結局のところ1節の冒頭にあるように、「主は羊飼い」という告白を、私どもも心から告白できるかどうか。ここに私どもの信仰が、私どもの存在が掛かっているのです。少し細かいことですが、「主は羊飼い」と訳されています言葉は、直訳いたしますと「主はわたしの羊飼い」となります。新共同訳聖書は「わたしの」という言葉が抜けているのです。聖書が語る一般的なこととして、「主は羊飼い」と言っているのではなく、羊飼いである「神」と羊である「私」、この両者の関係性がここで歌われています。神様はあなたの羊飼いでもある。だから、あなたも、「主はわたしの羊飼い」と告白することができるように、この詩編は私どもを導いているのです。
信仰生活はたくさんのことを知り、学ぶ必要があります。また、たくさんの奉仕や働きに召されています。そのような中において、「主はわたしの羊飼い」と告白することができるかどうか。そして、「主はわたしの羊飼い」と告白する時、そこで既に私どもの心が動いているのかどうか。既に、そこでまことの安らぎを得、喜びと感謝の思いに満ちているかどうか。信仰とはこのことに掛かっていると言ってもいいのです。それは、4節で「死の陰の谷を行くときも」とあるように、死の陰がちらつくような中にあっても、慰めを覚え、いのちの神に委ねて歩んでいるのかどうかということでもあります。「主はわたしの羊飼い」と御言葉を口にし、神への信仰を言い表している時、私どもはそこでもう死を突き抜けたいのちを生きているのです。闇の中を歩いているようで、実際はその歩みの中に光が差し込んでいるのです。
ですから、「主は羊飼い」と歌った後、すぐに「わたしには何も欠けることがない」と言うのです。要するに、「私はすべてにおいて満たされている」ということです。「何も欠けることがない」と言いながら、もしそれが、偽りや強がりであれば、こんなに空しいことはないでしょう。誰もが欠けのない人間として生きたいと願います。すべてにおいて満たされたいと願いながら、「これでもない」「あれでもない」と言って生きている。「これだ」と思って自分の心を満たそうとしても、「やっぱりこれではなかった」と言って、自分の心を満たす新たなものを見出そうとする。そのように、ゴールのない、しかも、手応えのない生き方を続けていかなければいけない。そこに人間の悲しさがあると言えるのです。詩編の詩人が「わたしには何も欠けることがない」と歌う時、それは自分の力によって、欠けや弱さ、罪といったものを埋めたのではないということです。「わたしには何も欠けることがない」と言えるただ一つの根拠は、「主がわたしの羊飼い」でいてくださる。そのことだけです。主が私の欠けを補ってくださる、罪や死の恐れに対しても恵みによって満たしてくださる。だから、「わたしには何も欠けることがない」と言えるのです。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」それは、神様との正しい関係に生きることなしに、私は生きていくことができないという信仰の告白でもあるのです。
ところで、羊飼いと羊の関係を神と人間の関係に譬えている御言葉は聖書の中に他にもたくさんあります。先に読んでいただきましたヨハネによる福音書の御言葉もそうですし、旧約聖書では、イザヤ書第40章11節に次のような御言葉があります。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」聖書の中に羊飼いや羊が頻繁に登場するのは、イスラエルの民の生活の中でよく目にするものであったらからでしょう。そして、羊飼いと羊をじっーと眺めながら、あぁこの両者の姿は神様と私たちの姿と重なるものがあると思ったのでしょう。ところで、この「羊」という動物ですが、決して強い動物ではありません。自分で自分を守ることができない動物、小さくて弱い動物です。足も速くありません。ですから、自分よりも強い動物に負けるということは、自らの死を意味しました。そういう意味で、絶えずいのちの危機にさらされていた動物です。また、羊は目がよくありません。見るべきものをしっかりと見つめることができないのです。臭覚もよくありませんし、犬のように帰省本能というものがありませんから、はぐれたら自分一人の力で帰ることはできないのです。ですから、羊が生きていくためには、自分のことを守り、導き養ってくれる存在がどうしても必要です。それが羊飼いです。羊飼いなしに、羊は生きていくことはできないのです。同じように、私どものこと守り、いのちの糧を日々与えてくださる神様という存在がどうしても必要なのです。
2節にはこうあります。「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」羊飼いと羊の姿を思い浮かべる時、緑が広がる広い丘や牧場で自由に伸び伸び動き回る羊の想像する人もいるかもしれません。しかし実際の姿はまったくかけ離れたものです。パレスチナの地域は緑の草や水が辺り一面に広がっているわけではないのです。羊を取り巻く環境は荒れ野です。餌となり、いのちの糧となる草や水を見つけるのが極めて困難な場所に生きていました。羊の一生は、餌がある場所を探し求める旅のようなものです。でも、自分たちの力では旅を続けることはできません。「あそこに行けば餌がある」と思って前に進んで行っても、そこに何の根拠もありませんから、餌を見つけるのは困難なのです。そのうち、自分たちは何のために、どこに向かって進んでいるのかさえ分からなくなり、最後には迷子になって、いのち尽きてしまうのです。
しかし、羊飼いはそのような羊を養うために、先頭に立って歩み、いのちへと導いてくれます。そして、「青草の原」に連れて行き、休ませてくれます。「憩いの水のほとり」に伴ってくださいます。今回、色々と書物を読んでいまして、興味深く思った一つのことは、ここで羊たちが青草の原で休んでいる姿です。羊は本当に安心して休んでいるというのです。いわゆる「仮」の休みではないのです。本当に安心して休んでいるというのです。だから、青草の原にいる羊は四本の足を全部折り曲げて座り込んでいる、寝そべっているのだ、とある人は言います。「憩いの水のほとり」というのは、ある翻訳では「静かな水辺」と訳されています。たくさんの動物たちが、我先にと言って、水を奪い合っているのではないのです。静かで、平和に満ちている。そのよう中で、いのちの水を得ることができます。動物たちが「休む」という場合、やはりどこかで警戒心というものを持っているのだそうです。例えば、敵が襲って来ないかどうかいつも気に掛けています。襲ってきたら、すぐに逃れる体勢をいつも保つ必要があります。そういう意味では、休みつつも、ずっと緊張に満ちているのです。本当の意味で休むことができていないのです。だから、羊が地面に座り込むというのは、何の警戒心もない証拠です。本当に安心して憩うことができる場所にいるからです。そして、心から安心できる根拠も自分の中にはありません。いくら逃げる体勢を取って休んでいても、敵に見つかったら、すぐに捕まってしまいます。逃げ切ることなどできません。しかし、羊には羊飼いがいるのです。羊飼いが羊たちの安全を守ってくれます。だから、羊飼いに対する絶対的な信頼というものを羊は持っているのです。それゆえ、羊たちは安心して、青草をお腹いっぱい食べることができるのです。水をたくさん飲むことができるのです。
私どもも、本当に休むということができない存在であるということをよく思わされるのです。日本人は働き過ぎだと言われることがありますし、休みが短くても長くても、与えられた休みの中で本当に休んで憩うことはとても難しいことだと思います。休みながら、休みが終わった後の仕事のことも既に考えている。休みの時ですら、少しだけ仕事をしないと落ち着かないこともあるでしょう。あるいは、この休みが終わったら、また嫌な仕事が待っていると思うと、どこか憂鬱になってしまう。そのように、休んでいても、色んなことを考え、悩まされ、結局心身共に休むことができずにいる。そういうことがよくあるのではないでしょうか。しかし、羊飼いである神様が、私どもを青草の原に導いてくださり、そこで休ませてくださる時、私どもは多くの弱さや問題を抱えつつも、そこでまことの安らぎを得ることができる。そのことを羊飼いである主は約束してくださいます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章28節)という主イエスのたいへん慰めに満ちた言葉がありますが、本当のことを言うと、「わたしのもとに来なさい」と招いておられた主が居ても立っても居られなくなって、私どもの手をとって、青草の原に、憩いの水のほとりに伴ってくださるのです。そして、まことの安息、魂が生き返るような恵みに満ちた経験を神は与えてくださいます。また、この2節の箇所について、何人もの人が聖書の一番最後に記されているヨハネの黙示録の御言葉を重ねて思い起こしています。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」(ヨハネの黙示録7章16〜17節)これもまたキリスト者の心に刻まれている御言葉の一つでしょう。主イエスがもう一度この世界に来てくださる時、主は私どもを「命の水の泉」に連れて行ってくださるのです。そして、涙を拭ってくだいます。もう飢えることも渇くことも、悲しむこともありません。神様の祝福によってすべてが満たされるのです。
いのちの源である神様は、3節後半に記されていますように、「主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる」のです。私たち人間が考える道ではありません。主の名に相応しい道です。だから、「正しい道」と言われます。「義の道」と言い換えることもできます。義という言葉には、正しいという意味も含まれていますが、これはお互いの関係性を表す言葉です。つまり、神様と私との関係が正しいということです。そこに本来、人間が人間として歩むことができる道があるのです。
神に導かれる信仰の歩みには様々なことが起こります。御名に相応しい正しい道であっても、その道を歩む私どもにとっては思いもしなかった出来事がたくさん起こるということもあるのだと思います。詩編第23編の中で、最初の1節「主は羊飼い」という言葉と並んで、とりわけキリスト者の心に深く刻まれているのは次の4節の御言葉ではないでしょうか。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」ここから豊かな慰めをいただいた人はとても多いのです。「死の陰の谷」とあるように、私どもの歩みには、死の陰を歩むような経験をすることがあります。自分自身が大きな病を患う。事故や災害に巻き込まれる。あるいは、愛する者の死をとおして、死というものが持っている力、闇の深さを経験するということもあるのです。また、「死の陰の谷」と訳されているこの言葉ですが、必ずしも「死」だけに限定する必要はないのではと言う人もいます。「死の陰の谷」というのは、「暗黒」とか「闇」というふうに理解できる言葉でもあるのです。もちろん、死ということほど暗い闇はありませんが、私どもはその人生において、他にも暗い谷を歩まなければいけないことがあるのだと思います。朝の光がいつになったら射し込むのだろうかという不安と絶望の中を歩み続けなければいけないことがあるのです。
しかし、主が私の羊飼いでいてくださる時、「わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」と告白することができるのです。信仰者にとって、最も暗い闇というのは、実は「死」ということではないのです。一番辛いことは、神が共におられないということです。しかし、私どもの神は、「死の陰の谷」においても共にいてくださるお方です。こんなところにまで、神様もさすがに来てくださらないだろうと場所にも、神は降りて来てくださいました。そして、共に歩んでくださいました。だから、死というのは絶対的なものではなくなったのです。神が共におられることこそが、私どもにとって真実であり、最も確かなことであると告白できるのです。「主は羊飼い」という信仰の告白、神に対する絶対的な信頼は、このように苦難や絶望を経験したところで生まれた確かな告白でもあるのです。
私の羊飼いでいてくださる主は、4節後半にありますように、「鞭」と「杖」を持っています。それによって、私どもを力づけてくださるというのです。「鞭」というのは、革で出来ていて、動物や人間を打つようなものを想像してしまいますが、ここで言われている鞭というのはどうちらかと言うと、「棍棒」に近いようなものだと言われています。その先には、金具のようなものが付いているものもあったようです。つまり、これは武器のことです。羊を襲おうとする獣を棍棒で追い払うために使ったのです。また、「杖」というのは、今日の私どもするように歩くときの支えとするものです。荒れ野の旅でしたから、羊飼いたちにとってもなくてはならないものだったのでしょう。また、他の聖書箇所を見ますと、杖というのは王様が持つものだったそうです。王笏と呼ばれるものです。統治者の象徴のようなものでした。羊飼いである主は、私どもの歩みを支配し導いてくださるまことの王であられます。他のいかなる者が私どもを苦しめ、支配しようとも、神様の愛の支配が勝利し、私どもの歩みを守ってくださいます。また、杖の先は曲がっていて、羊が間違った場所に行こうとしたならば、杖を引っ掛けて元の場所に戻すのです。
そして、この杖の使い方について、もう一つ興味深く読んだのが、杖で地面をトントンと叩いて音を出すということです。先程、「死の陰の谷を行くときも」「暗黒の谷を行くときも」とありました。もともと、方向音痴な羊が、さらに真っ暗な闇の中を歩かなければいけないというのはたいへんなことです。羊飼いが一緒にいることが分かっても、恐さを覚えるものです。でも、そこで羊飼いが持っている杖で、地面を強く叩き音を鳴らしてくれるのです。依然として自分の目はまだぼんやりしている。恐さも残っている。でも、羊飼いが杖で鳴らしてくれる音を聞き、信じて歩んでいくことができるのです。羊と同じように、既に信仰を与えられている私どもであっても、闇の中を歩かなければいけないことがあり、信じていてもやっぱり恐いと思うことがあると思うのです。真っ暗な中、急に新たな敵や苦難に襲われないだろうか。ちゃんと信仰を最後までまっとうできるのだろうかというふうに。しかし、神は共にいてくださいます。私どもの先頭に立って、信仰の旅路を導き、あらゆる敵と戦い、その時に相応しい福音の言葉を私どもの耳に響かせてくださるのです。
また、5〜6節を見ますと羊飼いである神様が、今度は「家の主人」として私どもを祝福してくださる様子が歌われています。「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」自分を苦しめようとする敵に囲まれて生きなければいけない現実があります。敵対する人たちの顔が浮かぶ人もいるかもしれません。また私を苦しめる者というのは、人間だけには限らないでしょう。病や死、様々な思い悩み、そして罪の問題があります。神様との交わりを断とうする色んな力があります。しかし、主は私どもを家に招いてくださり、豊かな交わりに招き入れてくださいます。私を苦しめるものは家の中に入ることはできません。主は自分の家で食卓を整えてくださるのです。私どもは外にいる敵にビクビクする必要はありません。絶対に打ち崩すことのできない神の祝福に守られて、主の食卓にあずかることができます。「わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」というのは、神様が私どものことを特別な存在として愛してくださるしるしでもあります。大切な客を家に招く時には香油が注がれたのです。そして、溢れるばかりの杯を用意してくださるのです。
だから、私どもの幸いは、私の羊飼いであり、主人であられる「主の家」にいつも帰って行くことです。主の家にいつもとどまることです。最後の6節でこのように歌われています。「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」主の恵みと慈しみがいつも私を追い掛けてきます。誰よりも、どんなものよりも早く私を追いかけ、私のことをしっかりと捕らえてくださるのです。信仰とは自分が神様を追いかけるという面も確かにあります。神様についてもっと知りたいと願い、熱心に求道の歩みをします。あるいは、何か恐いものに追われ、逃げるように神様という避難所に逃れ、そこで救われるという経験もするでありましょう。しかし、いつも神様は私どものことを追い掛けておられるということです。しかも、ここで言われている「追う」というのは、たいへん激しい意味を持った言葉でして、聖書ではたいていの場合、「迫害」を意味する言葉で用いられます。でもここでは違います。いのちを奪おうとする激しさではないのです。あなたのいのちを絶対に救い出すという激しさ、熱心さです。新約聖書ルカによる福音書第15章を読みますと、「見失った羊の譬え」と呼ばれる物語が記されています。百匹いた羊のうち一匹が迷い出てしまったのです。しかし、羊飼いは九十九匹を置いて、見失った羊を捜しに行きました。迷子になった羊というのは私どものことです。つまり、神の家から離れた罪人のことです。でも、その罪人を見捨てるのではなく、見つけるまで必死に探し回るのです。私どもを捜し回り、追い描ける神様のお姿は、人間が最初に堕落した時から語られている姿でもあるのです。
詩編第23編と合わせてヨハネによる福音書第10章の御言葉を聞きました。主イエスはおっしゃいます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」(ヨハネによる福音書10章14〜15節)良い羊飼いである主イエスは、神のもとから迷い出た羊である私どもを救い出すためにいのちを捨ててくださいます。十字架の上でいのちを献げ、私どもを罪から救ってくださいます。それは主イエスが、私どもを神の家に連れ帰ってくださったということです。その時、神の大きな喜びが天に響くのです。私という一人の存在が救われる時、天全体がどよめくのです。
その天の喜びがこの地上において響いている場所こそ、キリストの体なる「教会」です。私どもにとっての「主の家」というのは、何よりも「教会」のことを意味します。良い羊飼いである主イエスによって見出していただいた羊たちの群れ、それが教会です。私どもは週毎に神の家である教会に帰ります。神御自身が私どもの手を取るようにして、この場所に連れ帰ってくださるのです。そして、教会の礼拝の中でこそ、詩編第23編が語る羊飼いである神様のお姿が、最も鮮やかに見ることができると言えるでしょう。神の口から出る一つ一つの言葉によって、私どもは霊の糧を得て、成長していきます。そして、主が与えてくださるまことの安らぎの中で、魂を回復させていただくのです。
今から聖餐の恵みにあずかります。詩人が歌いましたように、主が私どものために整えてくださる食卓は、苦しめる者を前にしてもなお心から喜ぶことができ、心から「美味しい」と言うことができるものです。そのために、良い羊飼いである主イエスが、十字架の上でいのちを献げてまでして整えてくださった食卓です。罪も死もこの世のどんな力も、このいのちに満ちた食卓を妨げることはできません。「ついに、あなたを見出すことができた!」「ついに、あなたを捕らえ、神のもとに連れ戻すことができた!」この主の喜びが響き渡るこの聖餐を共に祝い、神に感謝をささげます。新しいこの一年も、主が私の羊飼いでいてくださること。ここに私どもの望みを置きましょう。主によって守られ、養われる幸いの中を共に歩んでいきましょう。お祈りをいたします。
新しい一年が始まりました。この年も主が私どものまことの羊飼いとしてそれぞれの歩み、そして、千里山教会の歩みを正しく導いてください。この一年どのようなことが起こるのか、私どもはすべてを知ることができません。しかし、「主は私の羊飼い」と信仰を言い表す幸いが与えられています。そのように主を信頼し、賛美できることがどれほど素晴らしいことでしょうか。その喜びを教会の仲間と共に味わいつつ、歩みを重ねていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。