2020年12月20日「自分を小さく、神を大きく」
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自分を小さく、神を大きく
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ルカによる福音書 1章46節~55節
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聖書の言葉
46そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、50その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。51主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、52権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、53飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。54その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」ルカによる福音書 1章46節~55節
メッセージ
クリスマスは歌うたう季節でもあります。たくさんある賛美歌の中でも、クリスマスに関する歌はよく知っているという人はたくさんおられることでしょう。教会に来たことのない人にもクリスマスの賛美歌はよく知られています。また、クリスマスに歌をうたうということは、歌わずにはおれない出来事を神様が起こしてくださったということでもあります。先程、共にお聞きしました福音書の言葉を記したルカという人も、クリスマス物語を記すにあたり、多くの歌を書き留めました。主イエスの母となったマリアの賛歌。主イエスの救いに導く働きをするために生まれた洗礼者ヨハネの父ザカリアが歌った賛歌。また、天使たちが歌った賛美があり、老人シメオンが歌ったうたがあります。クリスマスというのは、神様が独り子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった出来事ですが、この主イエスに救われた人間というのは、どういう存在に生まれ変わるのか。それは、歌うたう人間に新しく生まれ変わるということです。歌をうたうことが上手いか下手かということではなくて、たとえ下手であっても心をいつも真っ直ぐに神様に向け、ほめ歌をうたう人間、それが神に救っていただいた人間の姿、幸いな人間の姿です。
ルカによる福音書の中で、初めに賛美を歌いましたのは主イエスの母となるマリアです。「母」と言いましても、十代前半の少女とも言える年齢です。そのマリアが神様の救いの御計画を受け入れ、自分が神に用いられることを喜びとしました。神様の思いを受け入れるところに生まれてくる一切の不安をも、すべて神様にお委ねして、従ったのです。そのマリアが、今日はお読みしませんでしたが、39節以下を見ますと、親戚エリサベトのところに急いで向かいます。エリサベトは願いながらも子どもが与えられず、もう歳をずいぶん重ねていました。そのエリサベトがいのちを授かったのです。主イエスの救いに導くために悔い改めと洗礼を勧めた洗礼者ヨハネの母、それがエリサベトです。マリアとエリサベトの出会いは、喜びに満ちたものでありました。お互い神が授けてくださったいのちの喜びが共鳴しています。エリサベトはマリアに向かって言いました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。…あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(42,43,45節)このエリサベトの祝福の言葉に応えるようにしてマリアは賛美を歌います。賛美へと導くものは、喜びであり、神の祝福です。
マリアはこのような言葉で歌い始めました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」 「マリアの賛歌」と呼ばれるこの歌は、ラテン語で「マグニフィカート」という名で知られています。元のギリシア語では「メガリューノー」という言葉です。「メガ」という言葉が冒頭にあることから、何となく推測できますが、これは「大きくする」という意味です。神を信じること、神をあがめ、賛美することはどういうことか?それは、神を大きくすることだということです。もちろん、神様は49節でマリア自身も語っているように、偉大なお方です。私どもの手で神を大きくしたり、神を小さくしたりという話でもないのです。でも、明らかにマリアはここで神を大きくしています。そして、神を大きくする生き方へ私どもを招いているのです。例えば、礼拝をする時に、私どもは神様の御前に立ちます。主の日、日曜日だけでなく、いつも主の御前に生きる私どもですが、その時の私どもの姿勢というのは、神の前にひざまずき、ひれ伏す姿勢ではないかと思います。実際に、ひざまずいているかどうかということではありませんが、心の思いはひざまずき、ひれ伏しているのだと思います。つまり、それは神様の前に身を屈めて小さくなるということでしょう。マタイによる福音書第2章に登場します占星術の学者たちもまた、星に導かれて、ついに幼子イエスとお会いしたとき、ひれ伏して主イエスを礼拝しました(マタイによる福音書2章11節)。また、本当に神の前にひれ伏す人間は、神の前で自分自身を打ち砕かれた経験がある人間ではないでしょうか。自分の存在が、それこそ粉々になるような思い、自分の存在に意味を見出せないほどの試練を経験しながら、しかし、神が救いの手を差し伸べてくださったことを知っている人間です。50節、54節で「憐れみ」という言葉が続きますけれども、まさにこの神の憐れみによって助けていただいた。神なしには自分は生きていくことはできない。そのことが神を大きくすることであり、同時に自分を小さくしているということです。
このことは、続く48節のマリアの言葉の中にもよく表れています。「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」「身分の低い」とマリアは言うのです。実際にマリアは田舎に住むどこにでもいるような少女でした。後の時代の人たちがあまりにもマリアを美しく描きすぎるものですから、マリアは特別な人間に違いない。選ばれるべくして、神に選ばれ、主イエスの母となったのだと思っている人は案外多いのではないでしょうか。でも、マリアが自分でも言っていますように、マリアは身分が低い女性でした。文字通り、社会的に経済的に苦しい思いをしていたのでしょう。ある人は、生活面だけではなく、心においてある苦しみを抱いていたのではないかと想像しています。「身分の低い」というのは、「卑しい」とか「無きに等しい」と訳す人もいます。自分の存在の意義を見いだすことができない。そのような苦しみです。そのような自分が、偉大な神の前に立つ時、自分が如何に小さく、惨めな者であるかを思い知らされるでしょう。そこで、神の前にひざまずくようにして礼拝できればよいのですが、「神様はこんな私に構ってなどくれない」と言って、神様の前を去ってしまうということも起こりうるのだと思います。
でも、マリアはこのように歌います。「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」神は、無きに等しいようなこの私を放っておかれるのではなく、目に留めてくださったというのです。クリスマスの物語は、神様がこのマリアに目を留めてくださった出来事から始まると言ってもよいでしょう。神様は、救い主イエス・キリストを産む母としてマリアを選んでくださいました。特別に信仰深い訳でもありません。罪をまったくおかしたことのない清い女性だったからでもありません。選ばれるに相応しい何かを持っているから神に選ばれるのではないのです。「選ぶ」ということは人間が考えるような基準ではなく、まったく神にかかっているということです。50節、54節にこのようにありました。「その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。」「その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません。」マリアも、そして私どもも神に選ばれた者たちです。でもそれはただ神の憐れみによります。憐れみというのは、「真実」とか「誠実」という意味があります。神は御自身の約束を決して忘れることはありません。御自身の約束に対していつも誠実であられるからです。主イエスがお生まれになったクリスマスの出来事より、もっと遥か前から救いを約束してくださった神が、ついに御子イエス・キリストを世に遣わしてくださり、確かな救いの中に招き入れてくださいました。
今朝は、ルカによる福音書の御言葉と合わせて旧約聖書詩編113編の御言葉を読んでいただきました。その4〜6節にこうありました。旧約聖書954頁です。「主はすべての国を超えて高くいまし/主の栄光は天を超えて輝く。 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き なお、低く下って天と地を御覧になる。」6節に「なお、低く下って天と地を御覧になる。」とあります。「低く下って」というのは、「己を卑しくして」と訳されますし、ある箇所では「投げ捨てて」と訳されます。己を低くし、自らの身を投げ出すのは、天におられる神様です。これはずいぶん激しい動きです。天において、神はじっとして座っておられるのではありません。ある説教者は、「愛は落ち着かない」という説教の題をつけました。愛というのは、神様の愛のことです。「落ち着かない」というのは、あまりいい意味で用いられることはありません。ちゃんとすることができない。じっとすることができない。いつも不安な思いに捕らわれている。そういう意味でしょうか。まして、神様の愛が落ち着かないなどと言われますと、私たちが困っていまします。やはり、私どもは真っ直ぐで、何があっても動くことがない堅固な愛というものを神様に求めることでしょう。「あなたに対するわたしの愛は落ち着かない」などと神様から言われますと、私どもは不安になります。神の愛を疑ってします。本当にこのお方にすべてをお委ねしていいのか分からなくなります。しかし、それでも神の愛は落ち着かないのだというのです。
ある人は言いました。「神より偉大なお方はおられない。それゆえに、神は上を見ることはない。神に並ぶ者はいない。だから、神は横を見ることはなさらない。では、神はどこを見ておられるのだろうか。神はいつも下を見ておられる。」と言うのです。神がご覧になる目線の先には何が見えるのでしょうか。詩編113編の7節、9節を見ますと、弱い者、乏しい者がいます。子どもが与えられない者がいます。マリアの賛歌の中にも、身分の低い者や飢えた人が出てきます(ルカによる福音書1章52,53節)。社会的にも重んじられることない人たち、神の祝福が与えられていない人たち、それゆえに生きる意味を見失っていた人たちでもありました。しかし、神はそのような者たちを目に留められます。決して、彼らを忘れることはありません。そして、居ても立っても居られなくなった神は天の座から、私どもが生きるこの地上に身を投げ捨てるようにして、飛び降りて来られました。それが、神が御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになったクリスマスの出来事です。「天から飛び降りる」「身を投げ捨てる」などというのは、あまりいい言葉ではありませんが、しかし、主イエスはこの地上において苦難の道を歩み、最後には十字架でいのちを献げてくださったことと重なるところがあります。
詩編にも「主の栄光は天を超えて輝く」(詩編113編4節)とありますし、ルカによる福音書にも次の第2章において、天使の賛美の中で、「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。(グローリア・イン・エクセルシス・デオ)」(ルカによる福音書2章14節)と歌います。神の栄光というのは、神が神であられるということ、神の素晴らしさということです。でも、その輝きがどのような形で、私どもに示されたのでしょうか。それは、神御自身が天の座から身を低くするようにして、この地上に来てくださったということです。天から身を投げ捨てたということは、決して大げさな表現ではありません。十字架の上で、人々から侮辱される以上に、神に見捨てられ、呪われながら死んでいかれました。私どもがもう神に見捨てられることなく、神に愛され祝福された者となるためです。神の栄光は、己を低くした栄光。傷つけられ、破れはてた栄光です。しかし、そこに私どもの救いがもたらされました。罪にまみれた小さな器の中に、大きな神が身を低く、小さくして私どもの中に宿ってくださったのです。
「マリアの賛歌」は、昔から「革命の歌」とも言われてきました。それはマリアが革命家の一人として、この世界の秩序をひっくり返してしまったということではありません。革命を起こし、私どもに先立って信仰の戦いを戦い抜いてくださったのは神御自身です。51〜53節でマリアはこのように歌います。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。」世の権力者は、自分を大きくし、自分が賛美されることを求めます。当時、ユダヤを支配していたローマの権力者たちもそうでしょう。わたしを神の子と呼び、皇帝を崇拝するように求めました。ローマだけでなく、どの時代もどこの国においても、同じようなことが歴史の中で繰り返されてきました。人間が、自分の大きさや強さを求め、それに酔いしれる時、人間は人間でなくなります。その力を身分の低い者、飢える者、貧しい者を助けるために用いるのではなく、自分をさらに大きくするために用いようとするのです。
しかし、神は身分の低い者、飢える者、貧しい者たちに目を留め、彼らのことを忘れることはありません。彼らを高く引き上げ、神が与えたもう良きもので満たしてくださいます。ただ、51節以下で歌われていることは、何も世の権力者たち、政治をつかさどる者たち、また富をたくさん持っているたち、彼らだけに問題があると言っているのではないということです。例えば、富が豊かであるということは必ずしもわるいわけではありません。富もお金も神様が与えてくださった良いものです。与えられた賜物を賢く用いることができたならば、何の問題もありません。しかし、時に富が私どもを誘惑してくることがあります。別に神を信じなくても、お金さえあれば自分は豊かになることができるというふうに思い込んでしまうことがあるのです。富を持つことによって神様が小さくなり、次第に見えなくなってしまいます。富だけでなく、自分がこれは大切だと思っていることが、実は本当に見るべき神様というお方の姿を小さくしてしまっているということが私どもの中にもあるのだと思います。また、51節で「思い上がる者を打ち散らし」とありますが、もう少し丁寧に訳しますと「心の思いのおごり高ぶる者」となります。心のおごり高ぶるということを、誰にでも経験があるようなことではないかと思います。やっぱり、自分は大きな人間として誰からも注目を浴び、たたえられるような人間になりたいと思ってしまうものです。自分は特別であり、選ばれた人間であることに誇りを持ちたいのだと思います。もしその夢が実現する見込みがないと分かったならば、卑屈な思いになるのではなくて、誰か適当な人を見つけて、「こんな私であっても、あの人よりはまともだ」とひとこと言いさえすれば、すぐに自分を大きくすることができます。すぐに偉くなったような気がします。でも、そのような生き方をずっと重ねたところで、本当にその人の人生は幸いな人生なのでしょうか。どこかで、こういう生き方はおかしいのではないかと思いながら、結局、自分ではどうすることもできず、罪の上に罪を重ねる人生を終わりまで生きなければいけない。そのことに失望している人は多いのではないでしょうか。
このことは既にキリストのものとされている私どもが絶えず心に留めなければいけないことでもあります。あなたはおごり高ぶってはいないか?王様のようになって、その座に座ることを望み、どこかで自分の思いどおりに生きていけたらと願ってはいないか?マリアの賛歌は、私どもに問い掛けています。ですから、この歌は悔い改めへの招きでもあるのです。「神よ、私を王の座から引き降ろしてください。キリストがまことの王として座してくださいますように。」そのような祈りと共に私どもはクリスマスを迎え、礼拝をささげます。神の御腕によってもたらされる支配は、憐れみの支配です。キリストの十字架による救いです。その憐れみによる支配の中に立ち、もう一度、いや何度でも心打ち砕かれる経験をさせていただきます。そこに私どもの幸いがあり、救いがあるからです。革命というのは、まず自分自身の中に起こるのです。神によって打ち砕かれ、しかし同時に、救いという高みにまで引き上げてくださった神を私どもはたたえるのです。
2千年前、教会が誕生した頃、パウロという伝道者がいました。彼は次のような有名な言葉を残しています。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」コリントの信徒への手紙二第12章9,10節の御言葉です。「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とか「弱いときにこそ強い」というのは、冷静に考えるとよく分からない言葉かもしれません。でも、弱さの中で強いと言える理由はただ一つです。主イエスが強いお方でいてくださるからです。その主御自身の強さや力というものを、私どもが抱える弱さや悲しみ、罪といった場所において大いに発揮してくださるからです。だから、その主イエスの恵みが注がれる時、私どももまた主の強さにあずかることができます。周りの人たちの目からすれば、「私は主によって強くされた。私は主に救われた。」と言っても、見た目だけではそのことをあまり分かってもえないかもしれません。依然として貧しさの中にあり、病の中にあり、悩みの中にあるのです。何もあなたの問題は解決していないではないかと思われても仕方ないかもしれません。しかし、一般的なこの世の目と信仰のまなざしというものはまったく違います。神様が与えてくださった信仰の目で自分自身を見、教会の兄弟姉妹を見る時に、私どもは神様が与えてくださった喜びを見出すことができるのです。
マリアが歌いました賛美は、親戚エリサベトとの出会いの中で、その語らいの中で生まれた賛美でした。そして、賛美へと導いたのは神の与えたもう喜びです。二人は抱き合うようにして、主が与えてくださった喜びを共にしたことでしょう。ここに教会の姿があると多くの人は言います。私どもは、一人で賛美をすることもあるかもしれませんが、主イエスを信じる幸いに生きる者同士がマリアとエリサベトのように出会い、祝福の挨拶を交わすところで賛美はますます豊かなものとなるのも事実です。
最初のクリスマスから2千年以上が経ちました。変わったところ、変わらないところがたくさんあるでしょう。私たちが生きるこの日本という国も同じことが言えると思います。どうしても、私どもは罪の問題を避けてとおることはできません。おごり高ぶる思いが人々の心の奥にあります。力をもって、暴力をもってすべてを解決しようとする思いがあります。憎しみがあり、悲しみが止むことはありません。神の憐れみによって捕らえられるのではなく、自分の力ですべてを捕らえ、自分なりの幸せを掴み取ろうという思いがあります。私は選ばれた人間、誰にでも認められるような立派な人間になりたい。そのような思いが消えることはありません。そして、このことは結局自分を大きくすることです。そのためならば手段を問いません。神を自分の都合のいいふうに利用するし、役に立たないと思ったら簡単に神を捨てます。
しかし、私どもキリストの教会はそのような中にあって、教会の礼拝の中で賛美の歌をうたい続けます。「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」これはマリアだけが歌えるうたではありません。マリアだけが幸いな人ではないのです。48節で「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」と歌い、50節では「その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。」そして、最後の54,55節では「その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」と言って歌を閉じます。皆がこのような賛美を歌うことができたマリアを素晴らしいと思っています。でも羨ましいと思っているのではないのです。なぜなら、神の憐れみは今も注がれているからです。主イエスがお生まれになる遥か前、既にアブラハムに救いが与えられていました。その約束がクリスマスに成就しました。この約束はもう終わってしまったわけではないのです。私どもも神に選んでいただきました。神に救っていただき、幸いな者とさせていただきました。私どもも生活の中で、何よりも教会の中で賛美を歌うことができます。どれだけ困難な状況にあっても、ここに来て祝福の挨拶を交わすことができます。「主がおっしゃったことは必ず実現します。そのことを信じる幸いに生きましょう」と互いに声を掛けることができます。そして、神の御前にひざまずくようにして礼拝をささげ、賛美の歌をうたうことができます。私どもは、この場所でこれからも神の大きな愛に包まれる幸いな経験を重ねていきたいと願います。
最後に、わざわざ話すようなことでもないかもしれませんが、私の息子の「大」という名前は、実はマリアの賛歌から取りました。男の子にマリアの歌から名前を取るのも何か変かなあと思わなかったわけでもないのですが、女性であろうが、男性であろうが、どんな年齢の人であろうが、どんな立場の人であろうが、まだ神を知らない人であろうが、すべての者を招く賛美の歌がここにあります。大の名前の由来を知らない人たちは、「ずいぶん思い切った名前を付けましたね」と最初は言われたものでした。大物になってほしい、ビッグな存在になってほしい。そういう願いを親が子どもに込めたと思われたのでしょうか。別に大物になることはわるいわけではありません。でも、そのことが子どもの人生を左右するわけではありません。大事なのは、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」この賛美を歌いながら、神を大きくして生きるということです。親が子に願っていることというよりも、神が願っておられることはそのことに尽きます。自分のこともそうですが、子どもの将来となると尚更不安になることがありますが、その中で自分一人ではなく、家族や教会の仲間と共に神様の御前にひざまずいてほしい。そこで神の偉大さを知っていただきたい。親として本当にそう思っています。皆様の中にも、心に掛ける人たちがきっとおられることでしょう。祈りつつ、まず私どもが先立って賛美の歌をうたい続ける者でありたいと願います。神様を憐れみは決して尽きることはありません。この私が救われたのですから、必ず神の救いの御手が届くことを信じる者でありたいのです。お祈りをいたします。
神様、あなたは私どもに目を留めてくださるお方です。そればかりか、私どもを救い出すために、天から御子を遣わしてくださいました。自分を大きくするのではなく、神様をこそ大きくし、あなたを喜びたたえて生きる道を拓いてくださいました。苦難多き地上の歩みでありますが、その中にあって、教会が賛美の歌をうたい続けることができますように。あなたの御旨が実現することを、私どもの願いとし、あなたの御用のために私どもをこれからも豊かに用いてください。そして、神を賛美し、神を大きくして生きる幸いへと多くの者を招いてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。