2020年11月22日「こころ注ぎ出す祈り」
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サムエル記上 1章1節~20節
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聖書の言葉
1エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。2エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。3エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。シロには、エリの二人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。4 いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、5ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。6彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。7 毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。8夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」9さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。10 ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。11そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」12ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。13ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、14彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」15ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。16はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、17「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。18ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。19一家は朝早く起きて主の御前で礼拝し、ラマにある自分たちの家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、20ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。サムエル記上 1章1節~20節
メッセージ
「キリスト者にとって、祈ることは呼吸をすることである」とよく言われます。息をしないと人は生きていくことができないように、祈りをしないと人は生きていくことはできません。見た目は健やかに生きてはいるかもしれませんが、そこに信仰の喜びがあるかどうかは別の問題です。神の息であるいのちの霊を吹き込まれた私どもは、まさに祈ることによって、そのいのちを本当に生きていると言えるのです。そして、祈りには力があるということを、日々祈っている人ならば知っていると思います。それは、神様が自分の祈りと願いに何でも応えてくださって、自分が力ある者とされるということではありません。たとえ、自分の思いと神様の思いが違っているということが明らかになったとしても、そこで神に従う道を祈りの中で選び取っていく時、私どもの歩みは豊かな祝福で満たされるのです。ところで、私どもはどういう時に祈りをささげるのでしょうか。どういう時に、これまで以上に心を注いで祈るのでしょうか。いつも決まった時間に、決まった場所で祈る人もいるでしょう。あるいは、人生の節目、人生の岐路に立たされた時に、これまで以上に真剣に祈り始める人もいるでしょう。祈り、それは何か大切なことが始まろうとする時、何かを始めようとする時になくてはならないものでもあります。
先程、共に聞いた御言葉はサムエル記上の御言葉です。第1章は、サムエルの誕生の経緯について記されています。サムエルというよりも、彼の母であるハンナを中心に物語が展開されていきます。そして、このハンナもまた祈りに生きた人でした。サムエル記は、サムエルの母ハンナの祈りから始まります。どのような祈りをもって始まっているのでしょうか。祈りと一言で言っても、様々な要素があります。賛美の祈り、感謝の祈り、悔い改めや赦しを乞う祈り、執り成しの祈り、そして嘆願の祈りなど…。祈りというのは実に豊かさに満ち溢れています。では、ハンナはどのような祈りをささげたのでしょうか。彼女は苦悩に満ちた人でした。ハンナ自身こう言っています。15節、16節です。「わたしは深い悩みを持った女です。…ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。…今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」その神への祈り、訴えは涙を伴うもの、悲しみに満ちたものでありました。10節で、「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。」とあります。ハンナにとって、祈ることは、涙と共に神に嘆くこと、訴えることでもありました。サムエル記は、一人の女性の涙の祈りから物語が始まって行くのです。
詩編に一度聞いたら忘れがたい御言葉があります。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に/それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」詩編56編9節の御言葉です。神は私どもの嘆きを一つ一つ数えていてくださいます。しっかりと記録に留めてくださるほどに、私どもの嘆きを数えてくださるのです。そして、流れる涙を革袋に蓄えてくださるというのです。神様が嘆かざるを得ない小さく弱い私どもに目を留めてくださるならば、私どもの苦悩も悲しみも嘆きは意味を持つのです。自分自身の成長のために苦しみが意味を持つ、役に立つというよりも、神様の前に大きな意味を持つことになるということです。神が私どもの祈りを聞き、それに応えてくださるからです。
ハンナにとっての深い悩みは、子どもがなかなか与えられなかったということでしたが、神はハンナの心からの祈りを聞いてくださいました。19節に「主は彼女を御心に留められ」とあります。 そして、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだのです。ハンナから産まれてきた子どもの名前はサムエルと言います。やがて神様のために用いられる者となり、イスラエルの最初の王であるサウルに油を注ぎます。また、ダビデ王にも油を注ぐ大切な務めを担うことになりました。やがてダビデの子孫から救い主イエス・キリストがお生まれになります。ハンナは苦悩の中で、こころ注ぎ出すようにして祈った祈り、涙を流しながら祈った祈りが、このようなかたちで実を結ぶことまで考えていたでしょうか。考えていなかっと思います。とにかく、「子どもが与えられますように」という目の前のことで心が一杯だったことでしょう。しかし、神は小さき者に目を留め、ハンナの祈りを聞き、彼女の思いを越えた祝福を与えてくださいました。そして、このことは何もハンナにだけ与えられた祝福ではありません。私どもにも与えられている神の祝福です。世界の片隅にぽつんとひとり置かれているような孤独を覚えているかもしれません。自分の嘆きや訴えがいったい何になるのかと思ってみたり、信頼して祈りつつも心のどこかで神の力を疑ってしまう罪ある自分がいるかもしれません。しかし、神はそのような小さな私どもを御心に留めてくださいます。そして、あなたの嘆き、あなたの涙は、決して空しくはないということを示してくださるのです。
ハンナの悩みは、先程申しましたように、子どもが与えられないということでした。夫はエルカナと言います。当時、家庭に子どもが与えられるというのは、神の祝福がその家庭に与えられていることの大きなしるしでした。子どもが与えられるということによって、神様の祝福が後の世代の人たちに次々と受け継がれていくからです。もし、子どもが与えられないと、神の祝福がそこで止まってしまうと考えられていました。ですから、家庭に子どもが与えられるかどうかというのは大切な問題でした。もし、自分の妻が子どもを産めないということが分かると、他の女性をもう一人の妻として、子どもを産みました。そのことが許されていた時代でした。そのようにして、家系を絶やすことなく、神の祝福を受け継いできたのです。ですから、エルカナにはもう一つの妻がいました。その名をペニナと言います。おそらく、ハンナが子ども産めないということが分かって、新たにペニナという女性を妻にしたと思われます。そしてこの二番目の妻ペニナには子どもが与えられたのです。
ただこのことがハンナにとって、彼女をさらに悩ます問題となりました。自分はいつまでも子どもを産むことができない。自分は神様の祝福から遠い、自分だけ神に見放されているという孤独感を味わっていたのだと思います。また、6節にありますように「彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。」とありますように、エルカナのもう一人の妻であるペニナが自分を悩ませたというのです。ペニナには子どもがいますが、ハンナは子どもがいません。同じエルカナの妻であっても、自分のほうが上だ。自分のほうが夫に愛され喜ばれているという自負があったのでしょう。同じ家庭にあっても、そこは逃げ出したくなるような環境でした。
3節以下には、家族で毎年シロという場所に行き、そこで神に礼拝をささげる様子が記されています。まだエルサレム神殿は建っていませんが、神殿のような立派な建物があり、毎年、そこに行って礼拝をささげていたのでしょう。その礼拝の後、いけにえの動物の分け前をいただいていたのです。神への感謝に満ちた祝福の食事です。単純に聖餐式の食事と並べることはできないかもしれませんが、それに近いような意味がこの食事には込められていたのです。神にささげた動物の分け前なのですから、やはり普通の食事とは意味合いが違いました。しかし、そのように本来祝福に満ちた食事の席においても、ハンナは惨めさを覚えていました。もう一人の妻ペニナには、彼女とその子どもたちの分の分け前が与えられます。でもハンナには子どもがいませんから、自分一人の分の分け前です。ハンナは目の前の食事を見ながら、悲しい思いになり、ついには涙を流し、何も食べることができませんでした。喜びのはずの礼拝の時が、ハンナにとっては苦痛以外の何ものでもありませんでした。神を信じる者にとって、神を礼拝することが苦痛になる。これほど矛盾したことはありませんし、これほど苦しいことはないと思います。でも、それがハンナの正直な思いだったのです。
さらに聖書を読み進めていきますと、8節に夫エルカナの言葉を見つけることができます。「夫エルカナはハンナに言った。『ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。』」皆様は、このエルカナの言葉をどのように受け止められたでしょうか。5節に、「彼はハンナを愛していた」とありますように、エルカナは妻ハンナを愛しています。子どもが産めないからハンナは愛していない。ハンナよりも子どもを産んだペニナのほうを愛しているというのではないのです。エルカナはハンナもペニナも同じように愛していたのです。だから、先程の8節で、「あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」とハンナに声を掛けています。「お前が子どもを産めるか、産めないかは、私にとって全然問題ではない。お前にとっても、この私は十人の息子たちよりも遥かに尊い存在ではないか。」というのです。このエルカナの言葉は、慰めの言葉として聞くこともできるかもしれません。悩む妻に愛の言葉、慰めの言葉を優しく語りかけているとも言えるのです。しかしながら、夫エルカナの言葉はハンナにとって、真実の慰めにはなり得ませんでした。ハンナは全然納得していないのです。もちろん夫の言葉に嘘偽りはなく、その愛が本当であることを分かっていたことでしょう。子どもが与えられることも大事だけれど、神が与えてくださった夫を愛して生きることのほうが大切だという気持ちも分からないでもありません。しかし、それでも慰められないのです。納得できないのです。
そのことは、シロにいた祭司エリとの対話の中でも明らかになっていきます。シロの神殿でハンナは祈り始めます。嘆きの祈り、涙の祈りです。もう神殿に行きたくない。どうせ、自分の惨めさを知るだけなのだから。しかし、ハンナはそこで祈り始めるのです。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」(11節)また12節にありますように、あまりにもその祈りは長かったというのです。13節には、「ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。」とあります。声を出して祈るのが当時は普通ですから、祈りの長さと共に祭司エリには異常な様子に見えたのでしょう。お酒に酔っていると勘違いされてしまったというのです。祈るという行為は、時に酔っ払った人のようになるということかもしれません。周りから見たらまるで気がおかしくなったかのように見られてしまうということです。結局、ハンナにとって愛する夫も、神のために仕える祭司でさえも、自分のことを本当には分かってくれない。誰も自分の気持ちを理解してはくれない。そのような孤独感にハンナはますます陥ることになります。
けれども、ハンナは祈ることはやめようとはいたしません。ハンナの行動を見て勘違いした祭司エリは、「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」と命じます。しかし、ハンナはこう答えます。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」(15〜16節)悩み多き一人の女性がしたことは、神に祈りをささげることです。お酒に酔って、気を紛らわせることではないのです。ただ神に祈ることの他、望みがないことを知っていました。周りから気がおかしくなった。酔っ払っていると言われようが構いません。15節にあるように、心からの願いを神の前に注ぎ出すことに集中していたのです。それが祈るということであり、その祈りのかたちは酔っていると思えるほどに、激しい祈り、常識を越えた祈りでした。ハンナは祈りの言葉を声には出さず、心のうちで祈っていたとあります。しかし、たとえ声に表れなくても明らかに普通の人がささげる祈りとは違う激しさ、異常さというものがそこにはあったというのです。
サムエル記上に合わせて、ルカによる福音書第18章の御言葉を聞きました。「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」主イエスは私どもに教えてくださった一つの譬え話です。登場するのは裁判官とひとりのやもめです。夫に先立たれ、社会的にも貧しい生活が強いられていました。当時、社会的に弱い者たちをちゃんと守るように掟があったものの、実際には自分たちの利益を優先して、弱い者が顧みられることはなかったと言います。このやもめもそうでした。ある時、このやもめが裁判沙汰に巻き込まれます。おそらく財産を巡る問題でしょう。こんなひどい話はないと思い、自分の町の裁判官のもとを訪ねるのです。その裁判は自分でも認めているように、神を畏れず人を人とも思わない裁判官でした。明らかに裁判官として失格です。しかし、やもめが頼る人物はこの裁判官しかいかません。当然、このひどい裁判官が小さなやもめの訴えをまともに聞くはずはありませんが、やもめは幾度も諦めることなく裁判官のところに来ては正しい裁きを下すように求めたのです。裁判官はついに思い直すのです。あのやもめはうるさくて、どうしよもない。このまま無視し続けても、ひっきりなしにやって来て、さんざんな目に遭わすに違いないと。この「さんざんな目に遭わすに違いない」というのは、面白い言葉で、「顔にあざができるとたいへんだから」という意味があるそうです。あの女は本気で自分の顔を殴りかかるような勢いでやって来る。殴られてあざでもできたらたまったものではない。それならば、このやもめの願いを仕方なく聞いてやろうというのです。
実際に、誰かに手を出して殴ることはいけないことですけれども、祈りというのは、まさに神に殴りかかるような激しいもの、勢いあるものということでしょう。ハンナの祈りを見た祭司エリがこの人は酔っ払っている、どうかしていると心配したように。神の前に心を注ぎ出す祈りは実に激しい祈りとなります。そういう意味では、私どもは普段静かに手を合わせて祈っている祈りとはまったく違う祈りだと言えるでしょう。私どもが考える祈りの常識を遥かに越えているのです。祈りというのは、整った綺麗な言葉でちゃんと祈らなければいけないとか、祈りの中でこのことだけはちゃんと祈らなければいけないとか、そういう常識を遥かに越えた祈りです。祈りだけではないでしょう。信仰というのは、ある一つの定まったかたちがあるのだと私どもは信じています。祈りはこうすべきだ。賛美はこうすべきだ。教会生活はこうすべきだというふうに。もちろんそれはまったくわるいとは思いません。むしろ大切にしなければいけないもの、重んじるべきものだと私は思います。でもそれだけがすべてではないということです。そして、神はそのことを受け入れてくださるということです。祈りのかたち、信仰のかたち、教会のかたち、そういったある一つのかたちどおりに生きることができないほどに、キリスト者たちは困難を覚えることがある。そのことを主イエスは知っていてくださるのです。だから、「気落ちしたからと言って、それを言い訳にして祈ることをやめるな!」と主はおっしゃるのです。綺麗な言葉で祈ることができない、祈る言葉さえ見つからないからと言って、祈ることをやめるなとおっしゃるのです。酔っ払っていると言われようが、気がおかしくなっていると言われようがいいじゃないか。神の前にあなたの心を注ぎ出せ!それが祈りだというのです。
主イエスはやもめと不正な裁判官の譬えを語られた後、あのとんでもない裁判官でさえやもめの訴えを聞いてくださるのだから、「まして神は」と言って言葉を続けられるのです。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」(ルカによる福音書18章6〜7節)神はあなたの祈りを聞いてくださるのです。しかも、不正な裁判官のようにあいつはうるさいから仕方なく聞いてやろうというのではないのです。なぜ、神が私どもの祈りを聞いてくださるのでしょう。祈りに応えてくださるのでしょうか。それは、神があなたを選んでくださったからです。キリストにおいて、あなたを選んでくださった神が、あなたを放っておかれるはずなど絶対にありません。必ず、わたしはもう一度あなたのところに来る。そして、祈りに応え、正しい裁きをくだしてくださると約束してくださるのです。しかし、主イエスはそこでおっしゃるのです。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」わたしがこの地上に来た時、このやもめのように気を落とさず祈り続ける信仰を見出すことができるだろうか。私どもに対する批判というよりも、主イエスの願いと言ってもいいでしょう。主は待っておられるのです。私どもの祈りを!気を落とさず絶えず祈り続ける信仰を!心注ぎ出す祈りを見つけたいと願っておられるのです。
神はハンナの祈りの中にある信仰を見出してくださいました。そして、ついに願いを聞いてくださいました。19〜20節「エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。」「サムエル」という名は、「その名は神」という意味です。サムエルが神になったということではありません。少し言葉を補うと、「信頼に足るべきお方はただおひとりであり、その名は神である」ということです。
また第1章の最後27節、28節を見ますと、ハンナが祭司エリに向けて語った言葉が記されています。「わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。 わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」やっと与えられた我が子ですが、「その子の一生を主におささげします」と神に約束どおり、サムエルの乳離れの年齢と共に、神に献げ、神にお委ねするのです。そしてサムエルは、その時から祭司エリのもとで主のためにお仕えすることになります。やっと与えられた子が、わずか1歳くらいで自分のもとを去ってしまう。そのことを思うだけで、親としては胸が締め付けられるような思いになります。しかし、ハンナは神の祝福に満たされていました。子どもと別れなければいけないという寂しさを越えて、この子が神の御手の中で守られて成長すること。すべてを主に委ね、心注いで祈る生き方が如何に祝福に満ちたものであるか。ハンナはそのことを知っていました。だから、サムエルよ、あなたもわたしのように神の祝福の中を生きてほしい。ハンナは、祈りと願いを込めて、サムエルを祭司エリのもとに送り出して行ったことでしょう。
そして、お読みしませんでしたが、次の第2章にもハンナの祈りが続きます。祈りであり、同時に神をたたえる賛美の歌です。私どもの嘆きを、神は必ず賛美に変えられるということを、ハンナは祈りの心で歌います。そして、多くの者たちが口を揃えて言うことがあるのです。それはこのハンナの生き方とその祈りが、やがてイエス・キリストを産むことになるマリアと重なっているということです。ラテン語で「マグニフィカート」と呼ばれる「マリアの賛歌」は、ハンナの祈りをもとにしていると言われています。
ハンナは祈りつつ、神をこのようにたたえます(サムエル記上2章1〜2節)。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して大きく開き/御救いを喜び祝う。聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。」
マリアもハンナの祈りをなぞるようにこうに歌いました(ルカによる福音書1章46〜48節)。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」
マリアもまた「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」と歌い、ハンナのように神様が自分に目を留めてくださったことを魂の深いところで受け止めています。まだ少女の年齢のようなマリア、ヨセフとまだ婚約中だったマリアが、突然、「あなたは救い主を身ごもっている」と天使から告げられました。思いもしなかったことが自分の身に起こりました。落ち着いて冷静に考えてみても、自分に起こった出来事は恐ろしいことでした。自分の存在もヨセフとの関係もすべて壊れかねない出来事です。恐れを抱かずにはおれません。そのマリアが最後には神の御計画を受け入れ、神の御心が「お言葉どおり、この身になりますように」と祈りつつ、神にすべてをお委ねします。
そこに、「わたしの魂は主をあがめ」というたいへん美しい賛美が生まれました。自分は小さく、貧しい存在。しかし、神がこの私に目を留めてくださり、神の御心が私のうちに実現するならば、私はどんなことがあっても生きていける。だから、神よ、あなたを賛美しますというのです。そのような神の憐れみの中に生かされている私は、本当に幸いだというのです。だから、あなたも私のように、心から神をあがめて生きていただきたい。あのハンナのように心を注ぎ出す祈りと共に、神にすべてをお委ねていただきたい。そこにあなたの幸いがあるのだから。ハンナがしていることも、マリアがしていることも、ひたすら私どもを真実の祈りと賛美へと招き、そして幸いへと招いているのです。この招きの中に、祈りと共に飛び込んでいきたいと願います。神は私どもをしっかりと受け止め、幸いな者としてくださるのです。お祈りをいたします。
神よ、あなたはいつも私どものことを目に留めていてくださいます。たとえ、あなたを忘れることがあっても、あなたは私どものことを忘れることはありません。あなたが選び、救ってくださった者だからです。どうか祈りを絶やすことがないように、あなたが御霊を送り、祈る言葉を私の口に授けてください。小さな祈りに、大きく応えてくださる神を共にほめたたえることができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。